Ⅲ 待ってよ

 もう楽観視はできない。

 知らせを受けたルゥとモノリが病院へ駆けつけると、寝台の上で赤目がぼうっと天井を見上げている。


「二人とも、来てくれたの」

「フランさんっ、お怪我は⁉ どこか痛いですか⁉」

「平気だよ」


 ペンキ屋がハシゴに乗って、二階の窓枠を塗り直していた。その下をフランが通った時、ハシゴが倒れて下敷きになったという。幸いなことにペンキ屋は隣家の雨除けの上に落下し、フランも鉄肺病の療養所へ持っていく果物カゴを持っていたのがクッションになり、一番の被害者は撒き散らされたペンキに染まった建物と道路だった。


「倒れて意識がないと聞いて、震えが止まりませんでしたよ。脳震とうで済んで本当によかった」

 モノリの慌てぶりはルゥ以上で、知らせを聞いた直後は座り込んで立てないほどだった。


「でも今晩は入院するようにって」

「もし頭に出血があるようだと命にかかわりますので、その方がいいです」

「でも猫が来ちゃうし」


 こんな時なのに猫のことだって? 

 家の中で飼っているわけでも、餌をやらなきゃならないわけでもないのに。これは異常すぎやしないか。

 「でも」を繰り返すフランを二人がかりでなだめ、病院を出ると、ルゥは思い切ってモノリに打ち明けた。


「このところの災難ですけど、あの猫が怪しいんじゃないかなって。ちょっと普通の猫じゃない感じがするし、もしかして悪魔の手下みたいな……」

 するとモノリも頷いてくれた。

「あそこまでの溺愛ぶりはちょっとおかしいな」


 艶のある黒毛にくっきりとしたオッドアイは神秘的な美しさだ。座る姿にも長いしっぽにも気品があり、野良猫とは一線を画している。猫を愛でているフランの姿も尊いのだが、溺愛ぶりは憑かれていると言っても過言ではない。


「フランさんには悪いですけど、猫を遠ざけた方がいいんじゃないかと」

「そうだな。オーナーが不在のうちにやってしまった方がいいだろう」


 というわけでモノリが車を準備する間、ルゥはフランの自宅へと向かう。黒鉄のアーチの下にはあの猫がいた。

「なぁおぉん」

 この間とは違う太い声。なんだ、もしかしておれに怒ってるのか?


「よーしよし、だいじょうぶだからな。フランさんはいないから、今日はいいところに連れてってやるからな……っと!」

 逃げられかけたところを後ろから抱きかかえて捕まえた。そのまま巾着袋に詰めて車に乗せ、しばらく市街の外へと走り、畑と農家の家がぽつぽつある辺りで放してきた。

 罪悪感はあるが、これできっと丸く収まる。


 翌日退院してきたフランが火葬をこなすのを見守ったが、危険な目に遭うことはなかった。外出はせず、ごはんも残さず食べてくれた。

 よかった、もう大丈夫だ。そう思っていたのに——


「あ、今日も来てる。よかったぁ。昨日はごめんね」

 黒鉄アーチの下にはオッドアイの黒猫がいたのだ。

「なんで……、絶対歩いてなんて戻れない距離なのに」

「にゃあお」


 昨日ルゥに向けられたのとは違う、甲高く甘えた声。撫でてやるフランの手にすりつく仕草は「寂しかったわ」「昨日あの人にひどいことされたのよ」と訴えかけているようだ。

 きっと、再び遠ざけてたとしても戻ってくる。こいつは悪魔だと確信した。


「やめろよ……、これ以上フランさんに近づくな」

 ゆらりと近づくと、フランの腕の中から猫を取り上げ、そのまま一目散に駆け出した。


「あっ、ちょっとルゥ!?」

 突然の行動にフランはぽかんとしたが、すぐに後ろから追ってくる。


「ついてこないでください! まだ激しい運動はしちゃダメです!」

「待ちなよ! どこに連れてくんだよ⁉」

「この猫は魔物です。不吉なんですよ! デビッキ司教に預けます」

「なに言ってるの⁉ やめてよ!」


 いくらフランの指示でもそれを聞くわけにはいかない。追って来るのを振り切るしかない。全速力で狭い道を抜け、黒っぽい石畳の商店街を横切り、火葬場のある旧市街から新市街へと続くエルター橋を渡るが、「ルゥッ! 待って!」とまだ追ってくる声がする。


「ついてこないでと言ってるでしょう! くそっ、普段運動なんて全然しないくせに速いな」


 数日前に足を切っているし、昨日ハシゴの下敷きになり負った打撲もあるはずだ。なのに痛みを堪えて追ってくる。そんなにもこの猫が大切なのか。たかが猫のためにどうしてそこまで。やっぱり憑りつかれてるんじゃないか。


 石造りの橋を渡り終え、交差点を渡った。新市街に入ると急に蒸気車が増えて道幅も広くなる。目指す聖ザナルーカ教会まではもう少しだ。


 その時背後で、蒸気車の甲高い急ブレーキ音がルゥの耳から脳を貫く。

 直後にドガシャーンッ! と激しく衝突した音がした。


 氷漬けにされたようにルゥの足が固まる。全身の血が下がっていくのがわかる。振り返ろうとしても回路が切れたように動けなかった。

 腕の中では、オッドアイがじっとルゥを見上げている。

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