第5話 密室

「管理人さん、やっぱり変ですよ」

 というのは、二〇三号室に住んでいる奥さんからの進言であった。

 前の日、いや、深夜の時間帯で、正確にはもう今日になっていただろうか。時計を見れば二時を過ぎているくらいの時間だっただろうか。

 隣の部屋から妙な音がして、目が覚めた。それはまるで壁を叩くような音で、深夜の意地すぎであれば、完全な近所迷惑というものだ。

 あまりにもひどいと管理人を叩き起こそうかとまで思ったが、音は何度かしただけで、その後はピッタリとしなくなった。旦那を起こそうとも思っていたが、どうやらそこまでの必要はないようだった。

「気のせいだったのかしら?」

 と思ったが、どうも気になってしまった。

 深夜に起こされたせいもあってか、その日はそれからなかなか寝付かれず、気が付けば朝近くになっていた。

 旦那は優しい人だったので、夜中に何があったのかは知らなかったが、爆睡している女房を叩き起こして朝食の準備をさせるようなことはしなかった。

「下手に叩き起こしでもすれば、不機嫌な状態からの喧嘩になり、収拾がつかなくなるだろう」

 ということも分かっていたので、冷静に考えて、その日は駅前の喫茶店にでも寄って、久しぶりにモーニングサービスとでもしゃれ込めばいいと思うのだった。

 奥さんは旦那がそんなことを思っているなど知る由もなく、爆睡していた。だが、爆睡しすぎると目を覚ました時、快適な眠りからの覚め方をするわけではない。どちらかというと、あまり気持ちのいい覚め方をするものではなかった。汗をぐっしょり?いていたり、頭痛がしたりして、そのために一日体調が悪いこともあるくらいだった。

 どうしてこんなに熟睡し、しかも目覚めが遅かったのか、すぐには分からなかった。

「そうだ、隣の部屋」

 そう思うと、今度はハッキリと目が覚めて、冷静に考えてみた。

 このマンションは奇数と偶数で部屋の間取りは左右対称になっている。つまり、この部屋の寝室の隣の部屋も寝室のはずである。ただ、その部屋はあくまでもその人が使いやすいように使っているので、隣の住人が、本当にその部屋を寝室として使っているかは分からなかった。

 それでも夜中に失礼と分かっていてあんな音がしたのだからおかしい。隣の人は確か若いサラリーマンだったはずだ。それも結構しっかりしているという印象があったので、夜中に騒いだり必要以上の音を立てるということはないはずだ。そう思うと、昨日が何か異常だったのではないかと思うのだった。

 それで、管理人室に入り、

「二〇五号室が何か変なんです」

 と言われ、管理人はビックリした。

 二〇三号室の奥さんはしらなかったが、二〇五号室の男性は、先日、自殺か事故で亡くなった三〇五号室の住人の彼氏であるのは分かっていた。第一発見者として事情聴取も受けていて、その彼の部屋が異常だと言われれば、管理人としては、ビクッとしても当然と言えるのではないだろうか。

「どんな音だったんですか?」

「ゴトゴトッて感じの音でした。それと一緒に、壁を叩くような音もしました。何かを知らせているかのようにも聞こえて、それで一回叩きなおしたんです。すると、音はそれからしなくなりました」

 明らかに相手を意識しての行為であることは管理人にも分かった。

「それは尋常ではないかも知れないですね。ちょっと行ってみましょう」

 と言って管理人は合鍵を持って二〇五号室を訪れた。

「河村さん、河村さん」

 表から扉を叩いても音はしない。

 しょうがないので、管理人は合鍵を鍵穴に通すと、それを回した。そして扉を開けてみた。

 するとどうだろう。サッと風が吹いたかと思うと、足元に何か大きなものがふっと飛び出してきて、二人は恐怖で腰が抜けそうになった。それでも管理人は男であるし、管理人としての立場から勇気を振り絞って、風の正体を確かめるべく、後ろを振り返った。

 そこには一瞬止まっていたかに見えたものがまた駆けていくのが見えた。それは薄い茶色の大きめのイヌであり、それが三〇五号室で飼われていたラブラドールであることが分かった。

「プチじゃないか?」

 と管理人は犬の名前を呼んだが、その犬は振り向くこともなく、こちらに尻尾を見せながら、今度は褪せることもなく、ゆっくりとしたスピードで走っていった。まったく後ろを振り向くことなくであったが、そのことは管理人に、

「何かおかしい」

 と思わせるだけのものではあったが、その時はビックリしたことで、忘れてしまっていた。

 プチは、

「このままでは警察に連れていかれて、殺処分になるかも知れない」

 と俊一が心配し、

「僕が引き取ります」

 と言って、今は二〇五号室にいるはずなので、別に飛び出してくること自体は不思議でも何でもないことだった。

 二人はその場に取り残され、何が起こったのか分からない様子だったが、本来の目的はこれではない。イヌが飛び出してきたことで頭が真っ白になったが、まだ自分たちが何も確認していないことを思い出した。

 部屋の中に入ると、いきなりプーンと嫌な臭いがした。鉄分を含んだような臭いで、まるで病院にでもいるのではないかと思うような感じだった。二〇五号室はすべてが戸締りされていて歓喜といえば、かすかにクーラーが利いているだけなので、その臭いは充満して当然だった。

「何なの、この臭い」

 と、奥さんもビクビクしている。

 ただ、管理人は何となく臭いの正体が分かっていたような気がしたが、それを口にするのが恐ろしく、気持ち悪いばかりであったので、何も言えなかった。

 先日の場合は睡眠薬だったので、死んでいるということが一番の恐ろしさだったが、今度はもし誰かが倒れているとすれば、それは惨状であることは明らかであった。それでも管理人としては確かめないわけにはいかず、勇気を振り絞って、問題の寝室に入り込むのだった。

「わっ」

 女性一人であれば、こんな場面は致命的だが、男性が一人であっても、それは変わらないと思うほどの惨状だった。

 あたりは真っ赤に染まっていて、そして飛沫となって付着していることから、そのほとんどは凝固していて、まるでペンキが乾いた痕であるかのように見えた。

 二人は怖くて近づくことができない。したがって、その人がどうなっているかなど考える暇もなく、死んでいると思い込んでいた。実際に死んでいるからよかったようなものの、もし虫の息であれば、救急車を呼ばなければいけないところだったが、二人は慌てながらも連絡した先は警察だった。

 もちろん、殺人事件の通報としてである。

 またしてもやってきたのは、門倉刑事だった。

 門倉刑事は、まず発見者である隣の奥さんに事情を聴いた。ただ奥さんは、昨日の隣の音に関しては正確な話をしてくれたが、殺害現場に関しては、正直ほとんど見ていないという。

「あの状態では仕方がないか」

 と思い、それではと、管理人のところに話を聞きに行った。

 管理人が電話をしてから十五分ほどして警察が到着したのだが、それまでは二人は表に出ていて、警察の到着を待っていた。

「警察が到着するまでお二人で表で待っていたというのは、本当ですね?」

 と訊ねると、

「はい、密室で、あんな臭いのする中ではいられませんよ。警察に連絡を入れてくるのを待っていました。この間の上の階の女性の通報で、だいたいどれくらいで警察が到着するかは分かっていましたからね」

「なるほど、そうですか。中に入って何かに触れたということはありませんか?」

「触れたとすれば、ドアノブくらいですかね? 後は私も奥さんも触れてはいないと思います」

 この証言は奥さんの証言とも一致していた。

「じゃあ、寝室の扉も開いていたということですか?」

「ええ、その通りです。開いていたからこそ、玄関先にまであの酷い臭いが漂っていたんですからね。それにしても、やっぱり死んでいたんでしょうね?」

「ええ、もう絶命した後でした。それもだいぶ前に死んでいましたね。時間にして二時から四時の間くらいなんじゃないかというのが鑑識の話でした」

「ということは、お隣の奥さんがコトコトという音を聞いたと言いますから、その時に殺されたか、その少し後だったかということですね」

「そうなりますね。でも、それだと密室だったんですよね。発見した時」

「ええ、窓は閉まっていました。施錠までは見ていませんが、私たちが発見してから、警察の人が来る迄私たちは玄関の前で頑張っていましたので、その間に誰かが出て行ったということはありません。今現在が密室であるならば、最初から密室だったというしかないと思います」

「じゃあ、密室だったことに間違いはないようですね。お隣の奥さんとの証言も一致していますし」

「現場を私たちは怖くて見ていないのですが、どんな感じだったんですか?」

「何かで喉をかき切った感じですね。血がかなりの量出ていましたが、即死だったのは間違いないでしょうね」

「苦しむことがなかっただけよかったと言っていいのか……」

 と管理人は身体から震えが止まらないまま、ボソッとそう言った。

「だから、あれだけ血がまわりに飛び散っていたんですね。そういう意味では惨状としてはかなりのひどいものですよ」

「そうですね」

「ところで、被害者の河村さんですが、誰かに恨まれていたというような話は聞いていませんか?」

「私は聞いたことありませんね。部屋で殺したんだから、仕事関係というよりも、プライバシー関係の人には違いないような気がしますけどね」

「それは思います。仕事関係は今他の連中が洗っていますが、僕はこのマンションに何かありそうな気がするんですよね」

「そういえば、死体を発見した時なんですが、玄関の扉を開けた時、イヌが飛び出してきました」

「イヌですか?」

 と言って、門倉刑事は、それを聞くと今度は手帳を開いて見ていた。

「被害者の死んだ時のことですが。どうも首をかき切られた時、一緒に何かに?みつかれたようで、最初のその噛みつきが致命傷になったようですね。その犬はどうしました?」

「扉が開いた瞬間飛び出してきて、私たちに対して振り向くことなく、そのままどこかへ行ってしまいました。私たちはイヌよりも何よりも部屋の中の方が気になったので、急いで入ったんです」

「イヌ派まったく振り向かなかったんですか?」

「ええ、まったくですね」

 と刑事は念を押したことにおかしいと感じながら管理人は答えた。

 やはり管理人が不審に思ったことは、考えすぎではなかったようだ。イヌが飛び出してきた時、こちらを見なかったというのが何を意味しているのかは分からなかったが、違和感があったことだけは確かなことだったのだろう。どちらにしても、この部屋が密室であったことには違いないが、もう一つ不審な点もあったのだ。

「実はですね。凶器が部屋の中から見つかっていないんですよ」

「犯人が持ち去ったんでしょうかね?」

「それはまだ分かりませんが、どうにも解せない部分が多いような気がします」

 時系列で説明すると、まず翌日に、被害者マンションから五十メートル離れた児童公園の砂場の中に、ナイフが捨てられているのが分かった。かなり血が滲んでいるようで、専門家に聞くと、これはかなりの切れ味のあるナイフのようだった。軍用にも使われているもので、首を切った凶器がこれだということはどうやら間違いのないことのようだ。血液検査も行われ、血液型は同じだということまで判明した。後はもう少し精密な検査を行うことで確定もできるであろう

 この凶器がなかなか入手困難であるという話から、警察の方で、ナイフを扱っているところや、ミリタリーグッズの用品店などが注目されて捜査された。

 その中で、同じ警察管内ではないところにある用品店が、実は裏でミリタリーグッズを扱っているという情報を手に入れ、実際に事情を聴きに行こうと思っていたのだが、そこの店長が実は先週殺されていることが判明したということだった。

 これもナイフで一突き、即死だったようだ。店構えは普通の日用品を取り扱っていて、怪しい雰囲気はないが、この店主というのは、結構、

「ヤバい」

 と言われている人で、この男の部屋から押収したビデオなどには、盗撮や盗聴、その他反残間外と犯罪まがい、いや犯罪そのものの証拠が出るわ出るわ。今まで被害届が出ていなかったのが不思議なくらいであった。

 こちらの殺人事件を捜査している刑事とも話をしてみたが、やはり相当な悪党だったようで、バックには暴力団の姿もチラホラ見えていたという。

 と言っても幹部クラスではなく、かなりの下っ端、チンピラ風情とのつながりがある程度で、大きな犯罪に手を染めることはなかった。そういう意味で表に出ていなかったというのも分かる気がした。

 そんな中の被害者の中に、

「あれ? この人は?」

 と言って気になる写真を目にした門倉刑事は思わずその写真の女性を指差した。

「ご存じなんですか? この女性」

 と聞かれて、

「ええ、この人は先々週くらいだったか、マンションに自室で死体となって発見されました。睡眠薬を多量に飲んでいて、自殺か事故死か確定はできていなかったんですけどね。この人とこの用品店の男とは何か関係があるんですか?」

 と聞くと、

「被害者の一人ですね。どうやら、眠らされて気絶しているところを悪戯されてしまったようなんです。このくずに弄ばれた可哀そうな女性の中の一人なんですよ」

 と言われて、門倉刑事は、

――これってただの偶然なんだろうか?

 と感じた。

「実は、このくず男からナイフを買ったであろうやつに、殺されたと思われる男性が、この女の子の彼氏だったんですよ」

 と門倉刑事がいうと、所轄の刑事は、

「そうなんですか? でも偶然にしては出来すぎているような気もしますね」

「そうでしょう? 僕もそう思うんですよ。だから、どうもおかしいなとも思っているんですが」

「そういえば、このくず男と、最近店の前で揉めている人がいたって聞いたことがあったな」

 と所轄刑事は言った。

 もうこの二人の間でこの被害者への認識は「くず男」であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 そもそも、それ以下というのはないという前提ではあるだろうか。

「揉めていたというのはどんな男性だったんですか?」

「何か若い男で、このくずに対して、かなり威圧していたようですよ。この男がくずだと知らない人は、まるで因縁をつけられていると思ったかも知れないですが、こんな男なら因縁くらいは普通のことなのかも知れないですね。ところで、その殺されたという男性の写真はありますか?」

「ええ、持っています。揉めていたのを見た人に見てもらえるとありがたいですね」

「もちろん、そのつもりですよ」

 二人は何もなかったことにして忘れようと言っていたが、最後の一線を越えられていたことを知ったことで、因縁でもつけに行ったのだろうあ。俊一の気持ちになれば、それも無理のないことである。

 その後、揉めていたという人に俊一の写真を見せたが、やはり日にちが経っているということもあって、証言も曖昧で、

「似ているといえば似ている気もするし、似ていないと言えば、似ていないような気もするし」

 という証言しか得られなかった。

 そうそう、あれから凶器についての精密な検査、および、被害者の解剖が行われて、分かったことをここに記しておかなければなるまい。

 まずは凶器であるが、公園に落ちていたものに間違いはないとのことだった。ルミノール反応も血液型のDNA鑑定も行われ、被害者のものであることは間違いないということになった。

 さらに解剖所見であるが、死因はやはり頸動脈を切断が致命傷であった。だが、一つ気になる点があったのは、被害者の身体からモルヒネが検出されているということである。しかも一度だけではなく、数回にわたって飲んでいたということである。モルヒネなどは、そう簡単に手に入るものではないので、その入手ルートも気になるところではあった。

 もちろん、捜査の中で、彼が麻薬中毒であり、その関係で殺されたと推理する人も出てきたので、今その線でも捜査が続いているが、どうやら、そちらの線からは何も出てこないようだった。

 それどころか彼にモルヒネを供与していた人物も浮かび上がってこない。医者関係者に彼の知り合いはいないようだったし、彼がそんなに医薬品に詳しいとも思われなかった。モルヒネに関しては、まったく彼の表の顔からは想像できるものではなかったのだ。

 そういう意味でも、この事件の謎はまたしても深まってしまった。モルヒネが果たしてこの事件に何か絡んでいるのか、そのあたりがまったく見えてこないのだ。

 そこへ持ってきての日用品店の男の絡みだ。ひょっとすると、この男を通してのモルヒネ入手だったのではないかと思い、今後の捜査に、このくず男の存在がクローズアップされることは間違いないようだ。

 ただ、揉めていたのが門倉には気になった。

 女の子が襲われたことでの揉め事なのか、それともモルヒネに関わることなのか、門倉刑事はどうにも暗礁に乗り上げてしまったようだった。

 もう、こうなると、あの人に意見を伺うしかないと思う門倉刑事だった。

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