第4話 自殺OR事故

 梅雨も明けて、いよいよ夏本番到来という、七月後半のことであった。俊一と綾音の住むマンションで自殺事件が起こった。自殺を試みて、見事に達成したその人とは、綾音その人であった。

 綾音がしばらく、表に出ていなかったことを知る人は少なかっただろう。もちろん、彼氏と思しき密接な関係のあった俊一には分かっていたことだろう。だが、彼に綾音が自殺をするだけの動機を持っていたのかまでは何とも言えないかも知れない。綾音の最近というと、

「微熱が続くので」

 ということで、数日、スーパーのバイトも休んでいた。

 今年は梅雨明け前に集中豪雨があり、雨に濡れることもあっただろうから、そのために風邪をこじらせたのだと言えば、誰も疑わないだろう。

 実際に綾音はスーパーからの帰りにゲリラ豪雨に遭ってしまい、傘を差してもさほど影響もないほどの雨に、びしょ濡れになりながらの帰宅が何度かあった。彼女の帰宅に合わせて豪雨が降ったわけではないのだろうが、そういう意味では不運だったと言えるに違いない。

「ゲリラ雷雨って、本当に嫌。ただでさえ湿気には弱いのに」

 と綾音は言っていたが、確かに梅雨の時期のジメジメした蒸し暑さに、肌は結構あれていたようで、俊一も掛ける声がなかったくらいだ。

 梅雨が明けると、今度はまったく雨が降る様子もなく、ただ蒸し暑さが続いた。直射日光がアスファルトを照り返して、普通に歩いているだけでも干からびてしまいそうな錯覚に陥るほどだった。

「熱中症には気を付けて」

 と言われるが、何をどう気を付けていいというのだろう。

 せめて、水分をしっかり摂るとか、なるべく日陰にいるとか、そんな程度しか考えられないが、普通に歩いているのに、水分を摂りすぎないようにしないと却ってバテることも分かっている。

「暑さに慣れるまでは、十分に気を付けて」

 というニュースキャスターは言っていたが、この言葉には一点の納得がいく。

 暑さに慣れていないから、今はまだきついのであって、慣れてくると少しは違うのではないか。しかし逆に慣れるまでに身体がバテてこないと言い切れないのではないか。そう思うと、暑さ対策のために、雑貨を取り扱う用品店に行っていることにした。

 部屋の中を冷やすもの。歩いている時に気を付けるもの。さすがに季節商品として、一つのコーナーができあがっていた。

 その中で部屋の中というワードを見つけた時、

「あっ、プチのために何かを探してあげないと」

 と思い、部屋の中で涼しく感じられるものを探してみた。

 普段自分が仕事でいない時は、クーラーをつけっぱなしで出かけるようにしているので。多分大丈夫なのであろうが、イヌというのは、自分で体温調節がうまくできないので、いつも口を開けて、ハァハァやっているものだということは知っていた。見ているだけで、こっちも暑苦しいほどである。

「お前も汗が掻ければ楽なんだろうけどな」

 と言って、飲み物を与えながら、頭を撫でてやったものだ。

 その日は、プチのためにいつもよりも長い間用品店にいた。その場所がちょうどクーラーが直接当たるところだったようで、気が憑けが、意識が朦朧としていた。

 しかも座って商品をずっと見ていたので。立ち上がった際に、立ち眩みを起こしたようだ。

「大丈夫ですか?」

 とまわりに人が寄ってくるのが分かった。

 どうやら倒れてしまったのだろう。騒がしい声が聞こえていたが、次第に遠くの方でしか聞こえなくなっていた。

――どうやら気を失うのかしら?

 その考えに間違いはないようだった。

 綾音が気が付くと、そこは暗くなった部屋だった。

「私、あれから、本当に気を失ってしまったのかしら?」

 と思い、身体を起こそうとすると、頭が重たく、まだまともに起きることもできないかのようだった。

「確か、閉店時間が近かったような気がする用品店に立ち寄ったような気がする」

 という記憶はあった。

 時間としては、午後七時を過ぎていたくらいだったか。客の数は数人いたくらいだったような気がする。確か八時までだったので、少し急いで見ようと思っていたはずが、座っている時間が思ったより長かったのだ。

「これはヤバい」

 と自分で気付いた。

 そしてそのまま気を失ったのだが、それからの自分がどうしたのか、気が付けばこの真っ暗な場所に横になっていた。

 時計を見ると、午後十一時。

「えっ? もうそんな時間? 三時間近くもここで休んでいたの?」

 と思い、もう一度身体を起こそうとすると、やはり動かなかった。

――どうしたのかしら?

 と思っていると、奥から人影が見えた。

「大丈夫ですか? 気を失ったようなので、こちらで休んでいただきました」

 と言って、一人の男性が電気をつけてこちらにきた。

「ありがとうございます。少しまだ頭が痛いみたいですが、起きれるので、もう帰ります。遅くまでご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 といっと、

「いいえ、こちらこそです」

 と言って、男の顔を見ると、何とも淫靡な表情になっているではないか。

 ゾッとするようなその顔を見ていると、記憶を失った後、一度記憶が戻りかけたのを思い出した。すると、目の前にその男の顔があり、何か口に冷たいガーゼかハンカチのようなもので押さえつけ、今度はその時の鼻を突くような薬品の匂いで強引に眠らされたようだった。

 その時、胸や身体がスース―した記憶があるので、まさか裸にされていたのではと思うと、もう身体から震えが止まらなかった。

 それを咎める勇気などあるわけもなく、記憶を振り絞って思い出そうとすると、もうロクなことしか思い出すことができない自分が悔しかった。

 綾音は屈辱と羞恥で顔が真っ赤になったり、恐怖と不安で顔が真っ青になったりしていたことだろう。

 男は何も言わずに、綾音を見送ると、ただ、ニヤニヤしていた。何しろ綾音が何もできないことを分かっているからだろう。

 彼女が警察に駆け込んでも、現行犯ではない。薬を嗅がされたとしても、時間が経っているので照明もできない。身体に暴行の跡があったとしても、気絶していたので、犯人を特定もできない。それよりも何よりも、綾音であれば、警察に駆け込むようなことはないとタカをくくっているに違いない。

 すべて計算しての犯行に、綾音は悔しくてたまらなかった。ただ救いは綾音が最後の一線を越えられていないということは分かったことである。

 綾音は処女だった。処女なので血は出ないとしても、その衝撃は身体に残っているはずである。そういう意味で、やつは最後の一線を越えることができない小心者であるということが唯一の救いだというのは、あまりにも情けなくて、綾音はこの怒り、戸惑い、憔悴感をどこにぶつけていいのか、どうしようもなかった。誰かに知られることが一番嫌なので、しばらく誰とも会わずに一人で籠っていることしかできないと思うのだった。

 部屋に帰り、ずっと心配して待っていたプチの顔を見ると、涙が溢れてきた。その涙の意味を分かったのだろうか? もしこのことを誰にも知られたくないと思う綾音だったが、誰か一人に知ってほしいという思いがあったのならば、それはプチだったに違いない。本当は一番知られたくないと思う相手でもあるのに、知ってほしいと思う相手でもある。そう思った時、

「やはり私にとって一番大切なのは、プチなんだ」

 と、いまさらながらにペット以上のものをプチに感じていた。

 プチを見ていて感じたことは、

「この子は私の子供であり、私も分身でもあるんだ」

 という思いであった。

 それだけ、プチに対しての愛情は本物であり、余計に人間というものの浅ましさを思い知ることになった今日という日を、皮肉なものとして引きづっていかなければいけないという屈辱感に溢れていた。

 それからの綾音は少しでも平常心でいようと心がけた。平常心でいればいるほど、俊一に会うのが怖い。

――この感情はどこから来るのだろう?

 と綾音は思う。

 好きになってしまったということを否定する気はないが、人を好きになってしまったがゆえに、今の自分を見せたくないという感情は実に皮肉なものだった。愛しているがゆえの気持ちなのか、それとも愛してはいけないという気持ちからなのか、今の自分では判断ができなかった。

 そんな綾音は、とりあえず、俊一に会うことはできるだけ控えようと思った。本当はその胸に抱き着いて、思いのたけを打ち明けたい。そして、ひどい目にあった自分を慰めてほしいと思った。しかし、それは現実味に欠けているように感じた。なぜなら、いくら最後の一線は超えていないとはいえ、男性に襲われたなどと知られると、自分に対してどんな気分になるか、想像がつかなかったらである。

 だが、フラれるか、それとも同情されるかの二つに一つだと思った。潔くフラれてしまった方が楽なのかも知れない。同情されてしまい、それがお互いに重荷になってしまうと、お互いにぎこちなくなると、見えてくる結末は、破局しかない。それを思うと、どちらにしても、綾音には選択肢はなかった。

「じゃあ、どうすればいいの?」

 自分で自分に問うてみた。

 嫌われるように自分から仕向けることはできるだろう。しかし、自分の性格からしてそんなことができるだろうか。綾音は自他ともに認める。

「気持ちが顔に出てしまうタイプ」

 なのであった。

 正直者と言えばいいのか、それとも融通が利かないと言えばいいのか、自分では前者だと思っていたが、今回に関しては、前者であっても、同じことだ。相手に間違って伝わってしまっては、元の木阿弥というものである。

 綾音は、次の日、俊一に遭わないようにしようと心に決めて、彼をなるべく避けていた。二、三日と何もなく過ぎて行ったが、さすがに四日目には彼の方が痺れを切らしていたようだ。

 合鍵を使って、中に入ってきた。さすがに差塩は、

「ごめんなさい。今日は」

 と言って、断りを言ったが、ここ数日の様子から、明らかに綾音のおかしな行動は、俊一の理解をはるかに超えていた。

「本来なら、こんなことはしたくないんだけど」

 と言って、彼は入ってきた。

 俊一が自分にも増して自分自身に対して正直者であることは、綾音にも分かっていた。だから余計に彼に遭うのが怖かった。

 それでも彼がやってきて、問い詰める。彼も少し尋常ではないように見えた。やはり二人は以心伝心、綾音がおかしければ彼もおかしくなる。それが本当は一番怖かった。お互いにブレーキが利かないのだ。

 本来ならどちらかがブレーキを掛けるのだろうが、掛けるとすれば立場的には彼なのだろうが、それができるわけではないほどに綾音のことを好きになっていて、その綾音の様子が変であることで、自分を制御できなくなってしまっていた。

 綾音は絶対に言わないと心に決めていたのだが、彼の様子を見ていると言わないとおさまりがつかないことを理解して、なるべく彼を刺激しないように話をしたつもりだった。

 それがよかったのか、彼の興奮は若干収まった。一時間もすれば、落ち着いてきて、

「ごめんね。辛いのは君の方だったのに、俺が取り乱してしまったなんて、謝っても謝り切れないね」

 と言ってくれたので、

「いいのよ。あなたがどこまで私のことを気にしてくれているということが分かっただけでも私はよかったと思うわ」

「そう言ってくれると、ありがたい。僕ももう少し冷静にならなければいけないのにな。これからは僕が君を守る。そう思っているから」

 と彼は優しく言ってくれた。

 その言葉が嬉しくて綾音は泣いた。

 その涙は決して屈辱からでも情けないという気持ちからでもない。彼に話すことができずにこのまま自分がどうすればいいのかと悩んでいた自分に対して、

「安心していいんだよ」

 という思いの涙だった。

 俊一は、

「なるべく、このことは誰にも知られないようにしよう。それでいいんだね?」

 と言った。

 綾音も、

「うん、誰にも知られたくなくて、一番知られたくないと思っていた俊一さんが私のことを分かってくれているので、これ以上の安心感はないわ」

 と言うと、俊一も安心しているようだった。

 プチは何も知らないかのように、部屋の隅でゴロンとなっている。ただ、いつもの二人とはどこか違うと思っているのだろう。決して二人に近づこうとはしなかった。一定を保ち、そこに何か結界でもあるかのような雰囲気に、プチよりも俊一が過剰に反応していた。

 綾音は当事者なので、精神的に一番きついはずなので、彼女を一番に考えなければいけない。

 俊一は本当は精神内科に連れていきたいと思っていたが、そこまでする必要はないかのような素振りをする綾音を見て、思いとどまった。

 なるべく病院のことは口に出さないようにしようと思っていたが、実際に気にしていたのは綾音の方だった。

 夜は相変わらず眠れない。うっかり寝てしまうと、怖い夢を見てしまって、飛び起きる。昼間は眠たくてパートに行ってもまともに仕事ができない。

 パート先からは、

「少しの間休んでもいいんだよ」

 とは言ってもらえた。

 もう数年も働いていて、フロアも任されているくらいなので、本当はいないと大変なのだろうが、いたらいたで邪魔になるのだろう。

 さすがに二度目のミスをした時、

「すみません。お言葉に甘えて、少しお休みをください」

 と言って、休みをもらった。

 一応無期限であったが、基本的には一か月くらいと見ておけばいいだろう。その間に何とか元の自分に戻さなければいけなかった。

 ここまでくればさすがに綾音も自分だけではどうにもならないと思い、神経内科の扉を叩いた。

 マンションからも、実家らも少し離れたところで、探していると、ちょうど以前お世話になった先生の助手が開業していて、そこに行ってみることにした。

「安藤さん、お久しぶりです」

 その先生は覚えていてくれた。

 綾音は何とかあの時のことを思い出しながら冷静に順序だてて話すと。

「大丈夫ですよ。それだけ記憶もハッキリしていて、冷静に話ができれば、心配することはありません」

 という。

「でも、どうも身体が言うことを聞いてくれないんですよ。夜眠れなかったり、するんです」

「それはPTSDと呼ばれるものかも知れませんね」

「それは?」

「心的外傷後ストレス障害、つまり強い外敵障害を受けて、それがトラウマになった時、実際に体験したことが時間が経ってからでも、よみがえってくるというような症状ですね。強いストレスです。いろいろな治療法がありますが、お薬であったり、催眠療法などですね。本当は一人で抱え込まないで、誰かと一緒に乗り越えられる気持ちがあれば、だいぶ気も楽になるんですが、そういったお相手はおられますか?」

 と言われたので、俊一のことを話した。

「それは心強い。その人と一緒に乗り越えていく気持ちがあるのであれば、何とかなると思いますよ。だけど、あなたがあまり彼に頼りすぎたりしないことも必要かも知れませんね」

 と言われた。

「分かりました。今度彼も連れてきてもいいですか」

 というと、

「ええ、もちろんですよ。私も会ってみたいし、一緒に考えていきたいです。とにかくまずは綾音さんがしっかりしてくることで、ある程度のことは解決します。そのために私も協力は惜しみません。ぜひ、彼にも同じ気持ちになってもらいたいものですね」

「ええ、本当に優しい人なんです。彼のためにも頑張りたいんです」

 何と、健気な綾音であろうか、この言葉をじかに俊一に聞かせてあげたいくらいであった。

 俊一と綾音はそれから数日後、病院に姿を現した。少し二人ともやつれている様子はあったが、半分はキリッとした表情で、心境は覚悟の上であろうことを思わせた。

「先生、彼がこの間お話させていただいた河村俊一さんです」

 と綾音が紹介すると、

「河村です。よろしくお願いします」

 と完全に顔は強張ってしまっていて、どうやら、神経内科の先生を相手にするのは初めてのようだ、

「こちらこそ、よろしくお願いします。河村さんは彼女の事情はご存じなんでしょうね?」

「ええ、本人からお話は聞きました。あれだけの経験をしたのだから、精神的にトラウマが残ってしまっても仕方のないことなのかもって思っています。今は、彼女のその苦しみを少しでも取り除いてあげて、次第に今までのように仲睦まじくしていけたらと思っています」

「分かりました。私の方でもできる限りの治療ができればと思っています」

 そう言って、その日の治療が行われた。

 その日は催眠療法を行ってみたようだが、それは、

「催眠状態に入ると、人は無意識が優先されると言います。その無意識な状態に精神が集中された状態を作り出し、何かを植え付けようという治療ではなく、患者が本来持ち合わせているものを治療の文脈の中でご自身がうまく利用できるようにする試みを通して回復していただくことを目指しています」

 というものであった。

 それを聞いて俊一は、先生が何を考えているのか少しだったが分かった気がした。どうして綾音が先生を頼ろうと思ったかも分かった気がしたので、全面的に頼ってもいいと考えたのだ。

 治療は思ったよりもうまく行っているようだったが、それから少しして、俊一が想像もしていなかったことが怒ったのだ。それが、

「綾音の死」

 という事実だった。

 これが、自殺なのか、事故なのか、警察もハッキリとした理由までは分からなかったようだ。

 綾音が死んでいるのを発見したのは俊一だった。合鍵を持っているのだから、いつも彼女の部屋を訪れる時は、扉をノックするようにしている。それでも出てこない時は、ケイタイで連絡をするようにしていたが、その日、電話を入れてみたが、電話にも出ない。一つ気になったのが、もし、綾音が留守にしている場合、扉をノックしても中に誰もいなければ、プチはまったく反応しなかった。しかし、その日は俊一がノックした時、プチが扉の前まで来て、おそらくお座りをした状態で、扉をこすっていたのだろう。

「ガシガシ」

 という音が聞こえた。

「どうしたのかな?」

 不審に思いながらのケイタイでの連絡だっただけに、電話に出ないことも想定していたことに思えた。

 嫌な予感を覚え、俊一は合鍵を使って中に入った。玄関先にはいつものように綾音の靴が揃えておいてあった。部屋の中にいるのは間違いないだろう。

 プチはさっきまで玄関先にいたが、リビングに戻っていて、扉を開けて入ってきた俊一を見て、

「クゥン」

 と一言泣いた。

 それは甘える時の声ではなく、俊一も今までに聞いたこともないような悲しそうな声であった。俊一の嫌な予感は完全に的中しているかのようで、急いで中に入った。するとリビングのソファーの上でぐったりとなっている綾音を発見したのだった。

 テーブルの上にはクスリの瓶と、その横にグラスに半分くらい残った水が置いてあった。そこで最後に薬を飲んだのは間違いないようだ。

 俊一はクスリのラベルを見ると、それが睡眠薬であることはすぐに分かった。その瓶の横には病院の内服薬の袋があり、睡眠薬と病院のクスリを併用して飲んだのではないかということを想像させた。

 もうすでに死んでいることは見ただけでも分かったので、急いで警察に連絡したというわけだが、遺書は見つからず、神経内科のクスリと睡眠薬、その調合に間違いがあったための事故なのか、それとも自殺なのかが問題だった。

 神経内科に通院するくらいなので、何か問題がなかったか気にするのは当然のことであり、第一発見者の俊一が最初に取り調べられたのも当然だった。

「あなたの話で、大体のことは分かりました」

 と、言ったのは門倉と名乗る刑事だった。

 門倉刑事は、彼女のことを聞いてきたが、どうせ黙っていても遅かれ早かれ分かることなので、知っている限りのことを話した。

「そうですか。最後の一線を越えていなかったとしても、女性としては大変な精神的な重荷であったことは確かなんでしょうね。それでも神経内科にご自分で行く勇気があったというのはすごいことだと思います。私も商売柄いといとな被害に遭う女性を見てきましたけど、なかなか勇気など持てるものではないんです。それを思うと、彼女はすごいと思いますよ」

 と言っていた。

「自殺なんでしょうか?」

「まだ分かりませんね。自殺の可能性と事故の可能性は半々というところでしょうか。他殺というのは今のところ考えにくいですね。もし他殺されたとするならば、彼女が誰かに恨みを買っているなどということはご存じないですか?」

「私の知る限りではそんなことはありません。元々交友関係も少ない人でしたから、警察でお調べになるのも、それほど時間のかかることではないような気がします」

 と俊一は話した。

 状況から考えて、他殺はまずないだろう。争った形跡もなければ、無理やりの薬を飲まされたという雰囲気もない。実際に死亡したのは、前の日の午後十一時くらいというから、寝る前に飲んだと考えられる。発見したのは朝の八時過ぎ、誰かが入った形跡も防犯カメラには残っていないようだった。

 何よりも犬を飼っているのだから、不審者が入り込めばイヌが襲い掛かるはずである。いくら普段は大人しいと言っても、警察犬として飼育されているラブラドールである。まったく物音ひとつしなかったというのは、どう考えてもあり得ることではないだろう。

 俊一はそれを思うと、

「やはり、自殺か事故かのどちらかなんでしょうね」

「そうではないかと思います。ただ、遺書はないので、今のところ、事故の可能性が高いのではないかとは思いますが」

 と警察は言った。

 警察は、この後病院を訪ねるに違いない。

 病院でのききとりは俊一の話とは若干違っていた。一番違ったところは、綾音が襲われた時、最後の一線は超えていなかったというところであった。医者の話では、実際にはやはり彼女は最後までの行為を受けたものではないかというものであった。ただ。

「これは今となっては証明できるものではないので、信憑性には欠けますが」

 という話だった。

「河村さんとの話に少し食い違いがありますね。彼の話では最後の一線は超えていなかったのではないかと言っているんですよ」

 と門倉刑事がいうと、

「それはそうかも知れませんね。私も綾音さんの話で、てっきり最後の一線は超えていないと思っていましたので」

「それなのに、どうして分かったんですか?」

「私は彼女に、もちろん本人の同意を得てですが、催眠療法を試みています。催眠状態にしてその時の記憶を呼び起こして、何が原因で今の彼女があんなに苦しんでいるのかという本当の理由を知るためにですね」

「それで?」

「ええ、彼女の潜在意識の中で襲われた時の記憶が残っていて、その時の状態、つまりトランス状態に持って行ったんです。すると、極度の恐怖が彼女を襲いました。私の想像をはるかに超えたもので、これはただ事ではないと感じました。何とか抑え込んで彼女の興奮状態を収めたんですが、その時、彼女が最後の一線を越えられたんだって知りました。これであれば彼女の異常な精神状態が今もトラウマになっているのが分かるというものです。本人がどこまで自覚していたかどうか分からないんですが、きっとウスウスと感じていたのかも知れません」

「それで彼女はその男に怯えていたというわけですね?」

「それもあります。でも彼女は本当に優しい女性なんでしょうね。自分のことよりも、河村君に悪いと言って、必死になって自分が汚れてしまったことを悔しがっていました。

「私はこのことを河村君にいおうかどうしようか迷いました。彼女からすれば一番知られたくない相手ですからね。でも、彼は勘がよさそうだったので、分かっているかも知れないとも感じました」

「でも、彼の証言は、最後の一線は超えていなかったということでしたy」

「それはそうでしょうね」

 先生はそこまでいうと、黙り込んでしまった。

「先生は、彼女は自殺だと思いますか? それとも事故?」

「医者として考えれば、事故なんだろうと思います。でも、私の私見でいえば、それはどっちでも関係ないんですよ。事故であれ自殺であれ、死んでしまったのだから、彼女の確固たる意志がそこには働いていると思います。つまり『死』という意識ですね。人間は死ぬ直前には死を意識するものなのですよ」

「よく分かりませんが」

「これは本当に私見なんですが、もし事故として口に入れた睡眠薬の量が多かったのだとすれば、すぐにでも吐き出そうとするのではないかと思うんです。普通に死にたくないと思っている人ならですね。殺されそうになっている時に、抵抗しない人なんていないでしょう? それと同じことです」

「なるほど、確かに吐き出そうとしたとか、そういう行動はまったくなさそうでしたからね。じゃあ、彼女が最初から死を意識していたということなんでしょうか?」

「なんとも言えないですが、少なくともクスリを口に入れた時にはすでに死を覚悟していたと思います」

「分かりました。それが先生の見解として私どもも考えておきます。あくまでも私見としてですね」

「そうしていただけるとありがたいです」

 それから三日後のことだった。もう一つの事件が彼女のもっとも関係の深い人の身に起こったのは……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る