第3話 謎の行動
綾音は普段から彼氏がほしいという感情は持っていなかった。いないならいないで、それでいいと思っている方で、思春期の時も、そんなに彼氏がほしいという感覚はなく、まわりの女の子に対して、
――何をそんなに男の子に一喜一憂しているのかしら?
と思っていた。
ただ、一時期、
「彼氏がほしい」
という衝動に駆られたことがあった。
衝動に駆られるくらいだから、よほど感情が入り込んでいたのだろうが、衝動だっただけに、その熱はあっという間に覚めた。綾音はどちらかというと、
「熱しやすく冷めやすい」
という方であったが、ここまで衝動的なことを感情として持つということはなかったのだった。
ただ、理由は分かっている。
「あれは嫉妬だったんだ」
という思いである。
つまり、いつも自分は一人なのに、彼氏のいる女の子はそれを必死になって自慢している。しかも、相手が本当に恰好のいい男性であれば、それもいいのだが、どう見ても、自分なら近づきもしないと思うような男性を彼氏と言って、まわりに自慢しているのだ。
――そんなのが自慢になるんだったら、私だって――
という思いはいくらでもあった。
自分が本当は女の子らしくすればモテるという意識は結構あったので、自信はあったのだ。
しかし、そんなことで、
「どんぐりの背比べ」
をするのは、自分が情けなかった。
相手には負けないという自負があり、証明することもできるのに、その感情を自分で許さないという一種のジレンマと矛盾を心の中に抱いてしまったため、衝動的にはなったが、すぐに覚めてしまったのであろう。
そんな綾音はそれから、
「彼氏がほしい」
などと、一度も思うことはなかった。
もちろん、下の階に住むというこの俊一という男性もそうである。確かに顔立ちは丹精で、きっと女性にモテるだろう。自分と腕でも組んで歩いてくれたら、まわりに自慢できるほどの男性であることは分かっている。しかもその優しさには綾音は従順になれるのではないかと思うほどであった。
俊一はそんな綾音の気持ちを知っているのか、綾音が自分の家に招いてくれたのがどういうつもりだったのか、思いあぐねていた。
――俺のことを好きだと思ってくれたんだろうか?
確かに男性としてというよりも、お友達としてであれば、絶対に気に入ってくれていると思っている。
特に自分がプチに馴染んでいるところからもその様子は伺える。しかし、プチは誰にでも媚びをうるようで、相手が自分でなくてもよかったもではないかと思う気もしたが、プチの俊一を見る目には、明らかに綾音を見る目と同じものがあった。
――飼い主に対しては、他の人に対してとは違う意識を持っているということを、飼い犬は分からせようとするものだって聞いたことがあるわ――
と、綾音はその話を思い出していた。
俊一は、綾音が嫉妬するくらいにプチに慕われていた。もちろん、綾音がそんなことで嫉妬するはずはなかったがなかったが、俊一がひょっとして実家で犬を飼っているのではないかと思った。
「河村さんは、実家で犬を飼われているんですか?」
と聞いてみると、
「いいえ、実家では飼っていませんよ。そんなにイヌに懐かれているように見えますか?」
「ええ、とっても。だからイヌを飼われているのかなって思ったんですが」
「僕は実は昔からイヌによく吠えられたんですよ。結構怖がりだったので、イヌも分かっていたんでしょうね。怖がっている僕に容赦なく吠えまくるんですよ。結構子供には怖かったですよ」
と言っておどけて見せた。
そのわりにはプチにはよくなついている。きっとイヌも分かっているのではないか。つまりは、子供の頃よく吠えられたというのも、本当は犬が威嚇して吠えているわけではなく、構ってほしくて吠えていたのかも知れない。
「ひょっとすると、そのワンちゃんたち、皆尻尾を振っていたのかも知れないわね」
と綾音がいうと、俊一はニコッと笑って、
「そんなものかな? そういえば、その犬の飼い主の人たちは皆、イヌをいさめているような感じじゃなかったな。やめなさいとはいっていたけど」
「そうでしょう? きっとワンちゃんたちは、俊一さんが優しい人だと思ったからじゃれ合いたいと思って向かってきたのよ。子供だったらそこまでは分からないから怖いと思うんでしょうけどね」
と綾音は言った。
「なるほど、言われてみればそうかも知れないな。いや、今思い出したらそんな気がしてきた」
そう言って目はプチを見ていた。
プチはその目を見て、明らかに嬉しがって、猛烈に尻尾を振っている。まるで扇風機のようだ。
「ほら、プチだってそうだって言ってるでしょう。プチがこんなに嬉しそうに尻尾を振るの何てあんまり見たことはないわ。餌やおやつを上げる時でも、こんなことないものね」
と言って、ニコッリ笑い、こちらもプチを見た。
プチとしては、二人のどちらを見ていいのか分からず、顔を左右に振っていた。実に可愛らしい。
それを見て、綾音さんが俊一に近づいてきた。
「私たちがこうやって近くにいてあげると、プチもどっちを見ていいのか困ることはないわ」
と言って、腕が触れ合うくらいのところまで綾音は近づいてきた。
綾音としては、実に思い切ったことをしたものだ、彼女にとっては、冒険活劇並みの心境だったに違いない。
俊一の方も、目の前の綾音とプチを見ながら、さっきまでプチにばかり気を向けてしまって綾音をついでのように見てしまったことを後悔していた。
――これって、恋なのか?
と俊一は思った。
彼も今まで好きになった女の子はいたが、実はまだ正式に女性と付き合ったことはなかった。ただ、童貞ではない。大学生の時に、
「儀式」
は済ませていたのだ。
それでも、綾音がそばに近づいてきた時、
――この感覚、初めてではないかも?
まさか、あの儀式を思い出しているわけでもあるまい。
それよりも、今まで自分が妄想してきたことが現実となり、妄想と現実の境目が分からず、感覚がマヒしていたのかも知れない。
俊一に近づいてきた綾音にしてもそうだ。今までではあり得なかったことを、自分からしているのだ。
――やっぱり私は彼のことが好きなのかしら?
と感じた。
今日、何度感じたことだろう。しかし、何度でも感じていたい感情であり、次第にそれが現実味を帯びてくることを感じていた。
静かな部屋に何か耳鳴りのようなものを感じた。最初に感じたのがどちらだったのかは分からないが、すぐに二人とも、
――相手も同じように感じているんだ――
と思い、感動していた。
耳鳴りは次第に心臓の鼓動に変わっていき、郷里の短さが暖かさに変わっていく。肌が触れるか触れないかという微妙な距離が、その距離を取った綾音が、二人の気持ちよさに繋がっていくなど、想像もしていなかった偶然であったのだ。
その偶然を俊一がどう感じるかは俊一自身の問題で、俊一は作為的だと思ったようだ。
俊一が綾音を緒だし決める。
「ああ」
と綾音は思わず声を出す。
この声は快感からではなく、それまでの息苦しい雰囲気の中で勝手に漏れてきた声であり、意図しての声ではなかった。しかし、すでに快感を貪るような気持ちになっている俊一には、きっと何を言ってもいいわけでにしか聞こえないだろう。
綾音の態度はそれほど俊一に対してあざとく感じられたに違いない、
あざといと言っても、わざとらしさではなく、その行動が自分を制御できなくなるまでにさせてしまったという意味でのあざとさであり、綾音に罪はないと思っている。
――そうだ、こういう時は、男が「悪者」になってしまえばそれでいいんだ――
と思った。
「今の状況なら、自分が悪者になったところで、彼女が抗うことはない」
という根拠のない自信が俊一にはみなぎっていた。
「私はどうすればいいの?」
綾音はそう思っていたが、綾音が考えるほど、状況は刻一刻と進んでいた。その状況を一つ一つ説明するのは億劫であり、あまり意味のないことなのかも知れないが、心の動きはその瞬間ごとに変わっていたような気がすることだけは間違いないようだった。
それでも、二人の気持ちがどんどん近寄ってきたのは間違いない。いつの間にか唇が重なっていた。綾音は震えていたが、俊一は震えていない。もし綾音が震えていなければ、俊一の方が震えていただろう。
俊一は綾音のその震えに感動していた。その震えを怖さからではなく、感動からだと思ったからだ。さらに唇を吸うと、綾音は拒むことなく、同じように唇を求めてくる。もう間違いない、綾音は俊一を求めているのだ。
そんな二人を、きょとんとした様子でプチは見ていた。
「一体、何やってるの?」
とでも言いたげな雰囲気で、顔を逸らすこともなく、盛り上がっている二人をまるで空気のように見つめていた。
何とも滑稽な光景でもあったが、もし、これが新婚夫婦であれば、当然の光景と言ってもいいだろう。
俊一は、綾音の部屋にいながらまるで自分の部屋にいるかのような錯覚があり、まったくそこに違和感はなかった。
キスが始めるまでは、一気に進んでいたと思った時間が、キスが始まると、今度はゆっくり進み始めた気がしていた。この感情は綾音の方に強く、俊一はむしろ時間の感覚は次第に薄れてくるのを感じていた。
それは、俊一の方が次第に落ち着いてきたからであり、綾音も自分なりに落ち着いているつもりだったが、どこか興奮が収まらないのは、そこが自分の部屋だという思いがあったからではないだろうか。
この部屋には、余計なものはあまり置いていない。俊一が最初に入ってきて感じたことだった。
俊一の部屋も、なるべく余計なものはおかないようにしていたが、それでもなかなか捨てることのできない性格であるため、たまに掃除をする時も、本来なら捨てるものが捨てられずに残ってしまい、少しずつではあるが、荷物が増えていったような気がする。これも性格的な問題なのでしょうがないとは思うが、他人の部屋に入って余計なものがないことに気付くと、やはり自分には整理整頓ができないのだと感じさせられてしまった。
――こんな人が奥さんだったら、安心なんだろうな――
と、この時綾音のいいところを一つ見つけた気がした。
しかし、もし綾音と付き合うようになったり、結婚でもして、他人から、
「彼女のどこが一番好きなんですか?」
と聞かれたら、
「整理整頓が上手なところ」
と答えるかも知れない。
もちろん、これは照れ隠しの一つなのかも知れないが、それだけ整理整頓緒できる彼女に感動していたと言ってもいい。
しかもそれを発見した日が、初キッスの日だったというのが印象的であった。その印象があるからこそ、俊一は本当に彼女を好きになれたのだろうと、あとになっても、その思いは変わらない気がするのだ。
綾音の唇は柔らかかった。
――女性の唇って、こんなに柔らかいんだ――
たとえは悪いが。まるで梅干しの皮のような感じだと思ったのは、そこかおかしな感覚だったのだろうか。
「ねえ、俊一さんは、心細くなったりすることってあるの?」
と綾音が聞いてきた。
「綾音ちゃんは、心細くなることがあるの?」
「ええ、いきなり心細くなって、無性に寂しくなることがあるの。それはプチを見ていてもその気持ちが晴れることはない。そんな自分が怖くなることがたまにあるのよ」
「それは僕にも急に寂しくなることもあるよ。我に返るとでもいうのかな? そんな時は自分の中で、ちょっと鬱状態になりかかったエイルのかなって思うことが多いかな? 幸いにも次の日にはそんな気持ちは消えているので、問題はないんだけどね」
と俊一は言った。
「私も次の日にはだいたい消えているんだけど、寂しさとは違う別のものが残るのよ」
「どんなもの?」
「それはその時々で違うんだけど、きっと前の日の後遺症というか、その影響が大きいと思うんだけど、自分ではハッキリと分かっているのか、それも何となく自信はないのよね」
と、言って少しうな垂れていた。
「あんまり気にしない方いいと思う。あまり気になるなら神経内科に行けばいい」
と言われて、かつて自分が神経内科に通っていたことを言おうかどうか迷ったが、結局言わなかった。
喉元まで出かかっていたが、ギリギリになって堪えたのだが、それはそれでよかったのだろう。俊一という男性の本質をまだ分かっていなかったので、正解ではなかったかと思っている。
「うん、分かった」
綾音はそう言って、また考え込んでいるようだった。
精神内科という言葉は綾音をビクッとさせた。しかし、あの頃もそうだったが、実際にはそんなに大したことではなかったので、今ではあまり気にすることはないような気がした。それよりも、自分の身近に相談に乗ってくれそうな人、しかも男性がいてくれるのは心強かった。
ただ、最近疲れやすいのか、時々前後不覚になってしまうことがあり、それが気になっていた。体調が悪いわけではなく、急に立ち眩みを起こしてしまったりするのである。貧血なのか、立ち眩みの一種くらいにしか考えていなかった。
それからしばらくしたある日、綾音はいつものように編み物をしていた。テレビでは相変わらずのバラエティをしている。
「昔はゴールデンタイムと言えば、野球とかだったのにな」
と、子供の頃を思い出していた。
野球放送のため、見たいドラマが三十分や一時間遅れてしまい、小学生の頃は眠たくて結局見れなかったこともあった。ビデオに撮ろうにも、三十分までは延長機能があっても、それ以上はないので、中途半端な録画になってしまうこともあった。
連続ドラマなどは、続けて見なければ意味はない、一話でも見逃してしまうと、途中のつながりが分からなくなり、それ以降は見なくなる、そこが特撮やアニメなどと違うのだ。
ヒーローもののアニメや特撮は、基本的には一話完結である。だから、一週間くらい見逃しても、別に関係はない。
それを思うと、
「どうしてドラマの前に野球中継なんか持ってくるのよ。延長なんかしなければいいのに」
と思うのだが、野球ファンからすれば、
「どうして、そんな中途半端なところで終わるの」
と、なぜかいつもちょうどのところで終わるらしい。
結末が見れないのは、これほどストレスのたまるものはないらしく、特に野球中継を見ているのは家族の大黒柱である人が多いことから、最後までしないことで、家庭が不穏になるとも聞いたことがあった。
「たかがテレビで、そんなことになるなんて」
と綾音からすれば不思議なことだったが、それほど世の中が平和だということなのか、それとも昔と時代も変わってきたということなのか、よく分からなかった。
ここ十年くらいの間に、ゴールデンタイムで野球中継はしなくなった。その原因は分かっている。
いわゆる衛星放送の充実が原因であった。
衛星放送というと、普通に三十年以上前からあるのはあったが、二十一世紀に入って会社も増え、有料放送にすることで、視聴者の立場にあった放送ができるようになった。
つまり、今までの地上波放送というのは、スポンサーありきで、主役はスポンサーだった。
放送の資金を出すのはスポンサー、つまりテレビコマーシャルを放送することで、スポンサーが金を出す、だから、視聴者は無料で視聴できるというわけだ。
だが、スポンサーがつかなければ、放送も成り立たない。かつてのバブル崩壊時、スポンサー契約が激減したことだろう。放送の危機でもあった。それを繋ぎとめたのが、
「有料放送」
という考え方だ。
月々いくらのチャンネル契約であったり、番組の契約であったり、放送局が増えてくると、それを組み合わせてのセット契約ができるように、ケーブルという有線での放送ももてはやされるようになった。
こうなると、今までの中継問題は一挙に解決する。
つまり、
「ちょうどいいところで終了してしまう」
という問題はなくなる。
なぜなら今まで終了していたのは、スポンサーの意向があったからで、今度は視聴者からの放映料金で賄っているのだから、視聴者が最優先の放送である。つまり、
「視聴者様は神様」
なのである。
だから、
「試合終了まで必ず放送します」
とおう触れ込みができるのだ。
しかも、チャンネルごとに贔屓のチームが決まっているので、贔屓チームを持っている人は、その放送局を選択してしまえば、試合開始前から終了後のインタビューやイベントまですべて見ることができるということになる。それで一挙にストレスは解決だ。
綾音もケーブル契約をしていて、よく昔のドラマの再放送などを見ている。
といっても、そのほとんどは画面がついているだけで、何かをしながらではあったが、それでも殺風景ではない。
いくらプチがいてくれると言っても、ずっとプチと遊んでいるわけではない。今ではむしろ、プチがいてくれるというだけで癒しになっていて、お互いに何かを構うというわけではない。
そして、今では俊一という自分を分かってくれる相手が現れた。プチもなついていて、毎日が充実していた。
何も門内のないと思える順風満帆な毎日を、綾音は送っているかのように思えたが、何も悩みがないわけではない。
最初に感じたのは、人の目だった。まず気になったのは、
「管理人さんの目」
だった。
管理人は男性で、年齢的には四十半ばくらいではないか。あまり男性の、しかも年上の人の年齢が分かる方ではないので、何とも言えないが、腰回りの肉付きや、脂ぎって見えるその目、そして、いつも汗を拭いている雰囲気から、自分が知っている最悪の形の中年男性のイメージに酷似していたのだ。
最悪というイメージがあるからか、最初はさほどでもなかった管理人の目が、厭らしく感じられるようになってきた。
――あの目は淫蕩にしか見えない――
と思うようになると、管理人を避けるようになってきた。
その様子を管理人自身が気付いているかどうか分からないが、最初に不審に思ったのは、やはり俊一であった。
「どうしたんだい? 管理人に何かされたのかい?」
と言われて、ハッとしてしまった。
本当であれば、こんな視線を一番知られたくないと思っている俊一に知られてしまったのは、自分でもうかつだったと思った。しかし気付かれてしまったのなら、もう隠す必要もない。
「ええ、何かをされたりしたわけではないんだけど、あの人の目に何か厭らしさが感じられて、少し怖い気がしているの」
というと、
「僕にはそんな風には感じないけど、気のせいなんじゃないかな?」
最初は気付かれたくないと思っていたが、気付かれてしまって、さらにこのような勘違いではないかと言われてしまうと、少し拍子抜けしてしまった。
――一番分かってほしい人が分かってくれようとしていないのではないか?
と感じたからだ。
確かに、俊一のことは好きである。あれからキス以上のことはなかったし、部屋に来てもあんな雰囲気になることはなかったが、日に日に彼のことが気になっていくのは間違いのないことだった。
それだけに、今自分が悩みに思っていることを分かってくれないというのは、どうもストレスをためる原因になるのではないかと思えてきた。
それと同時に、
――この人は、あまり相手の感情に深入りしないようにしているのではないか?
と感じるようになり、それは好きだと思っている相手であっても、心を許すことはなく、下手をすると、
――自分中心の考えでしか動いていないのかも知れない――
と思うようになっていた。
「ねえ、俊一さんには何か趣味のようなものはないの?」
と綾音が聞いたのは、
――そういえば、いうほど、お互いに自分のことをあまり話したことがないような気がする――
と感じたからだった。
「趣味というと、そうだな、小学生の頃は絵を描くのが好きだったかな?」
という、ちょっと意外な答えが返ってきた。
「絵が上手なんですね。私は絵を描いたことがないからよく分からないけど、尊敬するわ」
「上手というほどではないけど、小学生の頃は妄想好きだったので、絵を描きながら、大きくなったら自分のアトリエを持って、芸術家になるんだなんて思い込んでいたりして、自分でも笑っちゃうよ」
というのを聞いて、
「そうかしら? 妄想というのは結構嫌いじゃないわよ。それだけ目標が大きいということでしょう? 頑張れるはずよね」
というと、
「そうなんだけどね、でもそのうちに必ず壁にぶつかってしまうものなんだよ。その理由は、それまでは自分がお山の大将で一番だと思っているとね。もう一つ段階を上げて、そこで頑張ってみようとする。そうすると、今度はまわりは皆上手な人ばかりになってしまって、自分はその他大勢になるでしょう? その時、自分の壁にぶつかるんだ」
と言って、彼は少し考え込んだ。
「例えば、勉強のできる子が、一つランクを上げて受験をしたとしようか? 五分五分と言われているところを突破できれば、それだけで嬉しくなって、意気揚々と入学する。でも元々レベルの高い連中が普通に入学してくるんだから、最初からランクに差があるわけだよね。そうなると、成績はギリギリの底辺で何とかついていくことになる。それまで自分が一番だと思っていた中にいた人間がだよ。その状況に果たして耐えられるかな? 結局勉強しなくなって、道を踏み外す可能性が高くなるんじゃないかな?」
「なるほど、それはいえてるかm知れないわね」
「つまり、背伸びするのもいいんだけど、無理をしてしまうと、必ずどこかに歪が生まれる。それがどういうことなのか、理解できているかどうかが問題なんだよ」
と彼は強く言った。
「それで絵画を諦めたの?」
「諦めたというか、好きでやっていたというだけだったので、中学高校と勉強しなければいけなくなったので、少し封印していたような感じかな? 大学に入って少し無理のないようにやっていた程度なんだ。別にサークルに入ることもなくね」
「でも、ミステリーは書いたりしていたんでしょう?」
「うん、趣味は一つである必要はないしね。だから、どっちが本当の趣味なんだって聞かれると、どっちもだよとしか答えられない」
と俊一はしみじみと言った。
「それでいいと思うけどね。無理さえしなければ、私はいいと思う」
「綾音ちゃんは、何か無理なことをしているのかい?」
「そんなつもりはないんだけど、どうなのかは自分で判断するものでもないような気がするのよ」
と言っていた。
そんな会話があってしばらくしてからのことだった。近所の奥さんがちょうど買い物に出かけようとしている時のことだったように記憶している。
今までは俊一と綾音が仲良くなっていることを、近所の人たちに悟られないようにしようと、お互いに考えていた。別にどちらから言い出したというわけでもなく、何となくそういう雰囲気だった。
ただ、別に隠す必要があったとも思っていない。下手に後でバレて、変な詮索を受けるよりも最初からオープンにしておく方がいいのだろうという一致した意見が暗黙の了解だっただけである。
そんなわけで、今までは綾音はずっと留守をすることができなかった。なぜならプチがいたからである。誰かに預けるわけにはいかないと思っていたが、今はちょうどいい人がいる。それが俊一だった。
二人で一緒に出掛ける時は別だが、それ以外、例えば綾音が実家に帰ることが会った時などは、俊一が預かっておけばいいだけだし、俊一も慣れているので、別に問題はない。
プチの方も、別に綾音の部屋でなくても大丈夫なようで、特に完全になついている俊一の部屋であれば、相当リラックスできるようで、まるで自分の部屋のようにくつろいでいた。
実際に、綾音は一日、プチを俊一に預けてどうなるかを見てみたが、別に寂しがることもなく、安心していた。実に可愛いものである。
「綾音ちゃん、大丈夫だったよ」
というと、
「そうでしょうね。それだけ俊一さんに馴染んでいるのよ。私も嬉しいわ」
と言って、二人で笑いあったものだ。
綾音とプチが一人と一匹で、俊一の部屋に泊まったこともある。その時もプチは完全にくつろいでいた。却って、どちらが主人か分からないほどの態度に、俊一はおかしくてたまらなかった。
「お前がここの主みたいだな」
というと、プチはじっと見つめて、さも、
「当たり前でしょう?」
と言わんばかりに思えて、その姿も滑稽だった。
俊一も綾音も、それぞれお互いの部屋の合鍵を持っていた。それだけお互いに安心していたし、
「私が安心できるのはこの人しかいない」
と、二人はそれぞれに思っていたのだ。
もちろん、その間にはプチがいて、ひょっとすると、愛のきゅーっぴとは、このプチなんじゃないかと二人で感じていた。
「でもどうしてプチなんて名前つけたんだい? ラブラドールなんだから、大きくなるのは分かっていただろうに」
と俊一がいうと、
「ええ、分かっていたわ。分かっていて敢えて付けたのよ」
「どうして?」
「だって、大きくなってからこの子の小さかった頃のことを思い出そうとした時、プチって名前の方が思い出しやすいと思ったのよ。きっと赤ちゃんのお母さんになったみたいな気持ちだったのかも知れないわね」
「なるほど、綾音ちゃんはプチのお母さんだね。じゃあ、僕は?」
と俊一が言うと、
「お父さん」
と、一言答えてくれた。
その答えが嬉しくて、俊一は綾音に敢えて聞いたのだ。綾音が「お父さん」というのをどういうつもりで言ったのか分からなかったが、俊一には綾音が即答してくれたのが嬉しかったのだ。
二人が甘い言葉を囁き合っている時、プチはまるで関心がないかのようにあくびなどをしている。
「本当にお前は呑気でいいな」
と俊一はいうが、そんなプチを見ているのが最高の癒しだと思っている二人にとって、その言葉は戯言でしかなかった。
戯言もいう相手と戯言になる相手がいて成立する。その二人、いや一人と一匹が自分にとっての生きがいであり、ずっと大切にしていきたいと思っている相手であることを、俊一は心底喜んでいた。
そんな俊一の部屋の前を一人の男の子が通りかかった時のことである。その男の子が急に泣き出した。男の子が泣くのを聞いて、ビックリして他の部屋から奥さん連中が顔を出したが、泣き止まない男の子にビックリしていた。
「坊や何があったの?」
と一人の奥さんが聞いた。
まだ男の子は頭が混乱しているようで、答えることができない。その男の子の親と思しき人がやってきて、
「うちの息子がどうかしたんですか?」
と言ってやってきたのを見て、男の子はやっと泣くのをやめた。
「どうしたの?」
と泣き止んで自分の腰に飛びついてきた男の子を見下ろし、頭を撫でながら言った。
男の子はまだ二年生か三年生と言ったところだろうか、背もそんなに高くはない。お母さんは他の奥さんが数人いることで、ただ事ではないような気がした。
男の子はゆっくりと話し始めた。
「ここの前をさっき通りかかったんだけど」
と言って、俊一の部屋の扉を指差した。
小さな指が捉えたその部屋の扉は閉まっているようだった。男の子は続ける。
「中から何か大きなものが飛び出してきたんだ。最初は何か分からなかったんだけど、僕がひっくり返るのを見て、走って逃げ去ったんだけど、大きなイヌだったんだ」
という証言である。
「大きなイヌ?」
と聞いてピンと来たのは、皆おそらくプチのことだろう。
しかし、上の階であれば、分からなくもないが、二階でプチが飛び出してくることもない。この部屋は一人の若いサラリーマンが一人で住んでいるだけの部屋だと皆が思っているので、その話を聞いて、鵜呑みにするわけにもいかなかった。
かといって、その子をウソつき呼ばわりするわけにもいかない。実際に大声で泣いているのは間違いのないことだからだ。となると、見間違えたのではないかと思うのが人情ではないだろうか。
「本当にイヌだったの?」
となるべく優しく聞いたが、
「うん、大きなイヌで、薄い茶色いイヌだった」
と言われると、思い浮かぶぬはやはりラブラドールくらいしかいないだろう。
「とにかく、この扉から飛び出してきたということであれば、部屋の住人である河村さんに聞いてみないわけにはいかないわね」
と言って、呼び鈴を鳴らした。
すると中から出てきたのは、さっきまで寝ていたような顔をした俊一だった。
「どうしたんですか? 皆さん」
と聞くと、
「いえね、うちの子がここから大きなイヌが飛び出してきたっていうんだけど、あなたご存じ?」
と聞かれて、
「イヌならここにいるけど」
と言って扉を少し広く開けると、そこには、確かにラブラドールがいた。
「それは、あなたのイヌなの?」
と聞かれて、
「いいえ、上の階の安藤さんのイヌなんです。実は、安藤さん、ちょっと実家に帰ってくる用事ができたんだけど、預かってくれる人がいないということで、僕が預かってるんですよ。僕も犬が好きで、実家でも犬を飼っていたので、よく分かるし、それにラブラドールはおとなしいので、預かるくらいだったらできますからね」
というと、奥さん連中は怪訝な顔をしながら、それでも興味津々という目をしていた。
「お二人はそういうご関係なんですか?」
と一人が、明らかに悪意に満ちた言い方をした。
「どういうも、こういうも、イヌを預かってあげることのできる愛犬家としての仲間のようなものです」
と平気な顔をして俊一は答えた。
それにしても、さっき飛び出していったというイヌが中にいるというのもおかしなことで、飛び出したと思っていたけど、実はすぐに部屋に戻ったのかも知れない。少なくとも子供がウソをついたというわけではないようなので、
「うちの子が驚いて泣き出したんですよ。今度からはいくら預かったイヌとはいえ、ちゃんとしてくれないと許しませんよ」
とばかりに恫喝してくる奥さんに、
「申し訳ありません」
と殊勝に誤りその場を何とかやり過ごしたのだった。
実際に事件が起こったのはそれから数日ほどのこと。あの時のことを奥さん連中も皆忘れてしまっていたことだろう。
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