第2話 出会いの二人

 綾音が人生の楽しみを毎日謳歌し始めてから、半年くらい経ってからだろうか。綾音は朝一度早く起きて、まだ夜が明けるか明けないかというくらいの時間に、プチを表に散歩させるため、出かけるようになった。

 もうその頃にはプチもかなり大きくなっていて、大人のイヌになっていた。

「ずっとお部屋の中では可哀そうだもんね」

 と言って、表に散歩に連れ出したのだ。

 その頃の綾音は、人と会うことを極端に嫌うようになり、人から声を掛けられるのも辛いくらいの時があった。いつもというわけではないので、アルバイトも何とかこなせていたが、精神的にきつくなると、早退させてもらったり、休みをもらったりしていた。

 店側からしても、今までの貢献度があるから、快く承知してくれていたが、本音としては、毎回のいきなりは少し何とかならないかと思っていたことだろう。

 綾音は最初、体調不良によるストレスくらいにしか思っていなかったが、次第に頭痛も激しくなってきた李、夜も眠れなくなったりしたこともあって、かなり迷ったが、精神内科の門を叩いた。

「確かにストレスからの体調不良であることに違いはないようですね。まずは睡眠を十分に摂って、食事もしっかりできるようになるのが先決かも知れませんね」

 と言って、精神安定剤をくれた。

 これには、睡眠作用も、食欲増進も入っていたので、ちょうどよかったのであろう。

「イヌを飼われているんですか?」

 と医者から言われて、

「ええ、一年半くらい前からラブラドールを飼っています」

「じゃあ、もう充分に大きくなっていますね」

「ええ、可愛いですよ」

 と言って、癒され顔になった綾音を見て、

「そうそう、その顔ですよ、それがあなたの本当のお顔なんですよ。いつもその顔ができるようになるのが一番だと思いますよ」

 と言われて、自分でも今している顔がしっくり来ていることを分かっていた。

 先生は続けた。

「何か、あなたには過去にトラウマのようなものがあるのかも知れませんが、まだそれほど重症化してもいないので、十分に元通りの明るいあなたに戻ることはできるはずです。あまり深く考え込んだりせずに、いつも愛犬と一緒におおらかな気持ちになることが何よりだと思います。それこそが治療なんだって思いますよ」

 と言ってくれた。

 その言葉が一番安心でき、どんなクスリよりも効くのではないかと思った。

 病院には定期的に通院することになっていたが、別に大きな問題があるわけでもないことで、通院も検診という程度のもので、それほど気にすることはないということだった。自分が精神的に不安定になり、病院に通っていることは誰も知らない。誰にも話したわけではないし、話す必要もないからだ。そんな話ができるほど親しい人がいないというのも事実だった。だからと言って、切実な話ができるような親友がほしいとは今は思っていなかった。

 スーパーに勤めていれば、ご近所さんも買い物に訪れる。挨拶をすることはあっても、会話になることはない。それでよかった。下手に詮索されるのも嫌だし、たくさんの人の中に入ってみると、聞きたくもない人のウワサであったり、愚痴などを聞かされることもある。綾音はそれが嫌だったのだ。

 学生時代には、男子を好きになったことがあって、友達に相談してことがあった。友達は親身になって相談に乗ってくれていたのだが、いつの間にかそのことが女子の間でウワサになっていたようで、悪いことにそのウワサが、好きになった人の耳に入ってしまった。彼は他の人と付き合っているようで、彼はそのウワサを聞いて慌てたのか、

「ごめん、俺彼女がいるんだ。申し訳ないけど、君とお付き合いすることはできないんだ」

 と言われた。

 確かに自分で確かめる手間が省けたことで、結果的にはよかったのかも知れないが、あくまでもそれは結果論。人から伝わって、自分の意図しているわけではないところから引導を渡されたというのは、どうにも承服できる結末とは言えなかった。

 それから、綾音はなるべく人とつるむことはよすようになった。ずっと一人でいるきっかけがその時からだったと言ってもいい。

 ただ、綾音を情緒不安定にさせ、不眠症などを起こさせ、神経内科へと通わせた原因はそこにあったわけではない。

 確かにそのことが引き金になったと言ってもいいのだろうが、それが本当の理由ではなかった。意識として残ってはいるのだが、その時の詳しい状況などは、綾音には思い出せなかった。一時的な記憶喪失だと言ってもいいだろう。

 「人はショックなことがあると、その記憶を封印してしまおうとする意識が働く」

 と聞いたことがあった。

 本能的な記憶喪失なのか、それとも意識がもたらした記憶喪失なのか、綾音はハッキリと分からなかった。

 そんな綾音がスーパーで仕事をしている時、ちょうど仕事から帰ってきた俊一が、惣菜を買いに店に入った。

「あれ? 上の階の確か……」

 と彼は名前を思い出せないようだった。

「安藤です」

 というと、

「ああ、そうそう、安藤さんですね。僕は下の階の河村です」

 と挨拶してくれた。

 その日、俊一は少し体調が悪く、早退したことで、綾音の就業時間に間に合ったわけだが、俊一はその時まで綾音がこのスーパーでアルバイトをしていることを知らなかった。

「アルバイトなんですよ。四時までなので」

 と綾音がいうと、

「どおりで今まで見たことがなかったはずだ。僕はいつも会社の帰りにいつもここで夕飯の惣菜を買って帰るんですよ」

 というと、

「そうだったんですね。知らなかったです。でも、今日はいつもより早いんですね?」

「ええ、ちょっと風邪気味だったので、早退しました」

「大丈夫ですか?」

「ええ、安藤さんの顔を見ると元気になりました」

「まあ、お上手」

 見るからに初々しく、自分よりも歳が若いと思ったから言えたことだった。

 だが、普段の綾音であれば、こんな言い方はしなかったかも知れない。ひょっとするとそれがアルバイトをしている自分のテリトリーの中でのことなので、その分、気持ちが大きくなっているからだったかも知れない。

 二人はすっかり意気投合していた。これだけの会話をしていれば、主任さんあたりから注意を受けるのかも知れないが、普段からの綾音の功績は、本人が感じているよりも結構影響が大きいようで、それだけにこれくらいの会話は笑って許されるほどのものであった。

「初めてお話するはずなのに、前からずっとお話してきたような気がするくらいですよ」

 と、俊一がいうと、綾音もまんざらでもない様子で、テレて見せていた。

「もし、お時間があれば、夕飯どこかで食べていきませんか?」

 と、俊一は話しかけた。

 今までの俊一であれば考えられないようなことであり、自分から女性に声を掛けることすら、したことがなかった。やはり意外な場所で知り合いに出会ったというシチュエーションは、普段あまり会話が得意ではない人にとっては、一つのきっかけになるのかも知れない。

 しかし、返事は残念ながら、

「ごめんなさい。今日はちょっと」

 というものであった。

 綾音にしてみれば、普段から知っている相手というわけでもないし、いきなりだったのは大きかった。それに、家ではプチが待っているので、あまり遅くなるのはいけないかと思ったのだ。家にイヌがいることは彼も知っているので、それで断っているということが分かってくれればという思いもあっただろう。

 しかし、確かに彼は綾音にイヌがいるのは知っていたが、それ以上に自分が嫌われたのかも知れないというマイナスイメージで考えてしまったようだ。

「そうなんだ、残念」

 と本当に寂しそうな顔になったのは、嫌われてしまったかも知れないという思いが強かったからに違いない。

 しかし実際には、綾音からすれば、結構好印象だった。

――この人は悪い人ではない――

 と、根拠はないが、イメージとしてそう感じていた。今までにはそんな感情を持ったことのないほどである。

「今度、別の日でしたら、もっと早くいってくだされば、私も予定を立てておくことはできますわよ」

 と言ったことで、少しショックを受けていた俊一は復活した。

「そうですか。それは嬉しい。こちらから今度提案させてくださいね」

 というと、

「ええ、お待ちしています」

 という明るい返事が返ってきた。

 その約束はその後、結構早い段階で果たされることになったが、まだその時は二人とも気持ちがそこまで盛り上がっているわけではなかった。

 綾音はそれから少しして、病気の悪化を知ることになるが、まだその頃はそこまで深刻には思っていなかった。

 家では、いつものように待ってくれているプチを相手に遊んだり、プチをそばにしたがえて、編み物に興じたりと、一人と一匹の時間を謳歌していた。

 そんな綾音が俊一の誘いを受けたのは、最初に話をしてから一週間後のことだった。

 その日、俊一は仕事が休みの日で、夕飯を買いに、スーパーを訪れた。夕飯と言っても、三時ころだったのは、四時までの綾音のことを見越してのことだった。

「今日は休みだったので、お誘いを掛けにきました。今度の金曜日などいかがかと思ってですね」

 と言われて、綾音の中では、金曜日だろうが、木曜日だろうが、水曜日だろうが、別に何か用事があるわけではないので、気楽に応じることができる。

 要するに予定があるから断ったわけではなく、最初から予定として決めておけば、安心して出かけられるというものだ。プチも分かってくれることだろう。

「そういえば、ワンちゃんは元気ですか?」

 そう言われて、ビックリしたが嬉しくもあった。

「ええ、元気ですよ。いつも甘えてばかりで困ったものです。でも、それが可愛いんですけどね」

 と綾音は言った。

 いきなりイヌの話をされてビックリした拍子に思い出したプチの顔は、正面から見たいつものボーっとした顔だった。

――いつもボーっとしているように見えるけど、本当は盲導犬だったり、警察犬だったりして、すごいイヌなのよね――

 と感じていた。

 そういえば昔、ペットフードのコマーシャルにこの子の仲間が使われていたような気がしたっけ。かなり前だったような気がする。大型犬の中でも人気がある証拠であろう。

「名前は何というんですか?」

 と聞かれて、

「プチです」

 というと、一瞬彼が戸惑ったように見えた。

 きっと彼の瞼の裏にも同じように、プチの顔が浮かんできたのかも知れない。

「プチなんて面白いでしょう? 大型犬なのにね。でも、飼い始めた時は本当に小さくてかわいかったんですよ」

 というと、

「そういえば、僕の友達も犬を飼っているんだけど、それも大型犬で、そう、秋田犬だったかな? 結構大きくなってるんだけど、名前がチビっていうんだ。それを思うと面白いって思うよね」

 と彼は言った。

 横で聞いている綾音もつられて笑ったが、それが二人で笑った最初だった。

 この笑顔が二人を急接近させた。

「よかったら、うちの子に遭っていってもらえませんか?」

 といういきなりの綾音からの誘いにビックリした俊一だったが、断る理由などあるはずもなく、

「ええ、それはもう。嬉しい限りです」

 この誘いを聞いて、

――そうか、この間断ったのは、イヌのことがあるからか、そうでなければ一緒に食事できたかも知れないな――

 と感じた。

 嬉しさと安心が一緒に来たことで、俊一の方がより彼女に対しての親近感を持った。俊一にとって、今までに女性を好きになったことがなかったわけではなかったが、この時の感情は間違いなく綾音を好きだと思った瞬間だったに違いない。

 最初は犬をダシに使ってでも仲良くなれればいいと思っていたのだが、今は犬をダシに使おうなどとした自分が恥ずかしい。そんなことをしなくとも、お互いに惹かれあっているような気がしているのは、無理もないことだった。

 逆に綾音の方が、彼との距離を縮めるのに、プチを利用していた。

 女性というものは、意外とこういう時現実的で、飼い犬であっても、自分のために利用しようということに、案外抵抗などないものだった。

「プチがいてくれてよかった」

 と綾音はそう思うのだった。

「プチ、こっちにおいで」

 と、俊一がいうと、尻尾を振りながら寄って行った。

 母親にも馴染んでいたし、基本的に人見知りはしないのだろう。だが、綾音が思うのは、

「私の部屋で育っていて、私と同等くらいの立場だと思っているのかも知れない。だから自分の城に遊びに来た人で、しかも自分が一番慕っている私が連れてきたのだから、絶対安心だという計算があるのかも知れない」

 と思った。

 その想像はおおむね当たっているのではないだろうか。ずっと家の中にいて、表に出るとすれば、綾音が散歩に連れていくくらいだ。さすがに毎日というわけにもいかないので、完全に満足はしていないかも知れないが、それだけほとんどが家の中での生活である。

 しかも、昼のほとんどは綾音はアルバイトに行っていて部屋の中ではプチ一匹がいるだけだった。誰かが表を通りかかっても、ほぼ反応しない。さすがに小さい時から一緒にいることで分かってきたことなのだろう。

 おかしな人が入ってくることはない。マンションはオートロックなので、よほど狙いすまして、他の人が入った時、一緒についてでも入らない限りは難しいだろう。

 管理人さんがいるにはいるが、呼び鈴を押して、管理人も呼び出さなければならない。呼び出された管理人は基本的に怪訝な顔をするに違いない。そうでなければ、管理人も務まらないというものだ。

 綾音の部屋に管理人を通して入れてもらったのは、母が最初で最後だった。管理人さんには前もって話をしておいたので、留守の間に入ることは周知のことであった。

 綾音がラブラドールを飼っていることは管理人も分かっていることで、散歩に出かける時も、いれば頭を下げて挨拶をしていた。

「プチもよかったね。お散歩楽しんでおいで」

 と管理人さんには名前も教えていた。

 そう家われてプチも嬉しそうに尻尾を振りながら、下を出して、息をハァハァと吐いている。時々鼻が乾かないように舌で舐めているその姿も可愛らしくてたまらなかった。

 そんな管理人も、二階の俊一と三階の綾音が偶然綾音のバイト先で出会い、仲良くなっていることなど知る由のなかった。誰も知らない仲を育んでいくことに、綾音は静かな喜びを感じていた。それは妄想に近いものであり、今までの自分にはなかったものであることも理解していたのだ。

 同じ号数の上と下の階なので、間取りが同じなのは当然だ。奇数と偶数の部屋とでは(四番はないのでそこは飛ばすことになるので、奇数、偶数は決して部屋番とは一致しない)間取りが左右対称になっている。そんなマンションは珍しくもなく、最初は分からなかったが、ベランダ越しに部屋の様子を見ていると、どうやらそうなっていることは歴然であった。

 綾音は結構鋭いところがあった。頭がいいというよりも頭の回転が早いというべきか、ひらめきがあり、とんちやなぞなぞが得意であった。

 学生時代など、サークルでの行事の中で、なぞなぞ遊びがあったりすると、いつも最初に答えていたのは綾音だった。

「あなたは、結構鈍いところがあると思っていたけど、こういう発想とかになると、鋭いところがあるのね」

 と、皮肉とも取りかねない言われ方をしていたくらいだ。

 皮肉であっても、鋭いに越したことはない。頭がいいと言われているのと同じなので、気分はまんざらでもなかった。自分でもなぞなぞは得意なんだと思っていたので、推理小説などを読めば、謎解きも得意だったりするのかも知れない。

 俊一を部屋に招いて最初は差し障りのない話をしていた時、彼が本を読むのが好きで、ミステリーが好きだという話になった時、二人は、

「やっと共通の意見が合いそうな話を見つけた」

 と思ったに違いない。

 ミステリーはあまり読んだことのないという綾音に対して、ミステリーに造詣が深い俊一は、自分が読んだミステリーで面白そうな話を聞かせていた。

 そのうちに、

「僕がストーリーのあらかたを話すので、犯人やトリック、そして動機などを言い当てるようなクイズ形式にしようか?」

 と提案してきた。

「ええ、いいわよ」

 綾音もだんだんその気になってきて、気持ちとしては、望むところであった。

 ここで頭のいいところを見せつけて、相手よりも優位に立ちたいという思いがあったのだろう。他の女の子であれば、あまり頭がいいというイメージは嫌だと思う子もいるので、綾音の考え方は、一般的ではないのかも知れない。

――なるほど、推理小説が好きだというだけのことはある。これだったら、なぞなぞもさぞや得意なんだろうな――

 と俊一が感心するほどであった。

「僕は大学時代に、ミステリー同好会に所属していて、自分でも少し書いてみて、同人誌にも載せてもらったことがあるんだよ」

 と俊一がいうと、

「それはすごいじゃない。作家さんになれるかもよ?」

 と少し茶化した風にいうので、

「それ、本気で言ってる?」

 と笑って答えると、

「バレちゃった?」

 と言って、小さく舌を出した。

 可愛らしい素振りではあるが、これが皮肉だと思うとさすがに少しショックだった。彼女はあまり皮肉など言いそうにないような気がしたからだ。だが、逆にそんな彼女が皮肉をいうということは、それだけ俊一に気を許しているとも言えるので、俊一としては複雑な気持ちだった。

「綾音ちゃんも書いてみればいいのに」

 初めて、「綾音ちゃん」と呼んでみた。彼女がどのような反応を取るのか、ドキドキしていたが、彼女は別に気にすることもなく、

「私? そうね、作文は嫌いじゃなかったので、書くことも嫌いじゃないと思うの、でも書いてみるという機会もなかったし、その気にならなかっただけなんだけどね」

 というので、

「だったら書いてみればいい。僕だって、最初は皆から書けばいいって言われて、戸惑ったんだ。でも、お前の発想は面白いからきっと書けると言われたんだよね。俺ってお世辞に弱いからな」

「それを言われると弱いんだけど、私もお世辞には弱いの。その気にさせてしまうと、何でもやっちゃうくらいなのよ。だから、小学生の頃なんか、クラス委員をやらされたり、雑用を押し付けられたり、そのおかげで結構損をしたりしたわ」

 と綾音はいって、少し考え込んでいた。

 何か嫌なことでも思い出したのだろうか?

 もしそうだとすれば、

「悪いことをした」

 と俊一は感じ、少しの間自分から会話を結ぶことはしなかった。

 綾音の方からも会話をしてこようという雰囲気はなく、黙ってしまっていた。そんな雰囲気が十分くらい「続いただろうか? プチが奥の部屋から自分のおもちゃを持ってきて、俊一に手渡した。

「ん? どうしたんだい? プチ」

 と声を掛けると、潤んだ優しい目を俊一に向けていた。何かをお願いしている時の表情に思えたが、何なのか分からなかった。

「それ、プチが好きなおもちゃなの。それで遊んでほしいっていってるんじゃないかしら?」

 と綾音はいう。

 なるほど、噛むにはちょうどいいくらいのゴムまりであった。ひょいと近くに放ると、走って取りに行く。少し地響きがしたが、他の部屋に響くことはないくらいであった。

 拾ってまた俊一に渡してくれる。

「こんなに可愛いペットであれば、何時間でも二人きりで遊んでいても飽きないのかも知れないな」

 と思うほどであったが、俊一は別のことも考えていた。

――このイヌ派本当に賢い。その賢いイヌがこうやってわざわざ遊んでほしいと言って訴えるのは、自分と綾音の間に気まずい雰囲気があるのを感じて、この俺にそれを打開してほしいという思いから、俺の方にやってきたんじゃないかな? そうじゃないと、飼い主の方に行くのが当たり前のはずだからな――

 と思った。

「よしよし、いい子だ」

 と言って、頭を撫でてやると嬉しそうにこちらを見るが、俊一が少し気を緩め、自分の顔から目を逸らしたと気付いた瞬間、プチは飼い主の綾音の方を見た。

 その雰囲気はさりげないもので、他の誰にもこのイヌの気持ちは分からない気がするくらい今の俊一には、

「イヌの神様」

 なるものが降りてきているような気がしていた。

 すっかりプチは俊医師に懐いていた。それはきっと綾音が俊一のことを気にしていることに飼い犬としてちゃんと気付いたことで、

「いずれ、この人も私の飼い主になるのかも知れないわね」

 という思いが宿ったからなのかも知れない。

 イヌが口を聞けたら聞いてみたいものだと、イヌの飼い主は皆そう思うだろう。自分が思っているよりも冷徹なことを感じていたり、人間様というものに対して、相当な偏見を持っていたり、普通の飼い主では想像もしないようなことを考えてしまう自分を、俊一は少し怖いと思った。

 それにしてもこんなに犬も可愛いのだから、飼い主の綾音も可愛いはずだと思った。俊一という男は、綾音の方が最初に気に入ったのではなく、イヌの方に夢中になった。もちろん、最初スーパーで話しかけた時は、綾音に対して女性としてときめいたからだったが、それがいつの間にか変わってきていることに、綾音は気付いていたかも知れない。

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