ドーナツ化犯罪

森本 晃次

第1話 ラブラドール

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。また、刑事と探偵の話の中で、他の小説を連想させる言葉などが出てきますが、それは作者がその作品に対して敬意を表しているという意味で使用しているとご理解いただければ幸いです。


 この物語は、一頭のラブラドール・レトリバーを飼っていた女性の死によって幕を開けることになる。その女性とラブラドールは、ペット可のマンションに住んでいて、他の住人に迷惑を掛けることもなく、それどころか、ほとんど他の住人が顔も見たことがないというほど、閉鎖的な生活をしていたようだ。

 ラブラドールは盲導犬や警察犬としても活躍するほどのイヌで、大型犬ではあるが、盲導犬の性質があるため、家の中にいても別に遜色を感じることはない。

「プチ、おいで」

 というと、どこにいてもやってくるという賢いイヌで、名前がどうしてプチなのか、聞いた人がいないので、不明だった。

「あんなに大きなイヌでも生まれた時は掌サイズだったことから、そう名付けられたのかもよ?」

 とウワサする人がいたが、イヌの名前なんて、案外そんなところからついているのかも知れない。

 そうそう、イヌの紹介もいいが、この女性の紹介もしておかなければいけまい。

 彼女は名前を安藤綾音という。近くのスーパーでアルバイトをしているようで、元々はどこかの会社に勤めていたという話だが、そこを退社して、スーパーに勤め始めた。レジをやっている時、同じマンションの奥さんが話しかけることもあったが、彼女はいつも困ったような表情で、何とか挨拶を返しているようだ。性格的にあまり人と関わるのが好きではないようで、別に嫌われるタイプというわけではないのに、いつもコソコソしているように見えて、完全に損をしているようにしか思えなかった。

 プチを飼い始めたのは、仕事を辞める半年くらい前からであっただろうか。その頃はまだもう少し社交的だった気がするが、それでも何かを隠しているような気がして、仕事のストレスがかなり溜まっているのではというウワサが、マンションの中ではあったようだった。

 マンションの奥さん連中は、どこにでもいる「おばさん連中」で、人のウワサが好きな、昼下がりには優雅にアフタヌーンティを所望すると言った人たちが多かった。

 別に旦那がそええほど高給取りというわけではなく、気分だけでも有閑マダムを演じてみたいという人が多かったのだろう。

 実際に、お花やカラオケと言った趣味や娯楽に興じている人もいるようで、一人が始めると、他の人も誘うようになり、参加しないと仲間外れにされてしまいそうな雰囲気が出来上がってしまったことから、少し歪な集団意識を持った、ごく一般的な主婦の集まりであった。

 ただ、負けん気の強さはそれぞれにあるようで、誘われて入会するのも、先に始めた相手よりもすぐに自分の方が上達できるという根拠のない自信めいたものがそれぞれにあったからだろう。

 それだけマンション暮らしの主婦層というものが、自分たちの中でグループを作り、閉鎖的な考えを持っているかということの裏返しでもあった。

 だが、それはあくまでも一部の主婦層であり、ほとんどの主婦は他の部屋の人と関わることをしなかった。特に若い夫婦の新婚さんなどは、そんな主婦団体を避けていて、なるべく近寄ってこられないように、意識して嫌に思われる態度を取ってみたりした。

 自分を過度に褒めてみたり、相手の嫌がることをすればいいのだから、考えてみれば簡単なことである。他の人には決してできないことを大手を振ってできるのだから、そういう意味では、やっていて楽しいと言っても過言ではないだろう。

 マンションに住んでいる奥さんを種類に分けたら、概ね今の二種類くらいだと言ってもいいかも知れない。

「マンションと言っても、隣に誰が住んでいるかすら分かったものではない。隣に人が入っているかいないかすら、意識していない人だってたくさんいるんじゃないかな?」

 という人もいたが、どちらも共稼ぎで、子供もいない新婚夫婦であれば、それくらいのことがあっても不思議でも何でもない。

 そんなマンションでの人間関係は今に始まったことではない。ずっと前、昭和と言われる時代から、延々と続いてきたものではないだろうか。別に驚くようなことでもない。それを思うと、寂しいという言葉も少し意味が違うような気がした。

 ラブラドールのような大きい犬をマンションなどで飼っていると、本来では目立つのだろうが、プチは実に大人しかった。元々大人しい性格のラブラドールなので、そんなに目立つことはないのだが、ここまで大人しいと、イヌをよく知らない人は、

「あの飼い主だから、あんなにイヌも大人しいのかしらね」

 と思う人もいたかも知れない。

 飼い主である安藤綾音は、実に大人しいタイプの女性だった。廊下やマンションの入り口で出会っても、相手の方から挨拶をしてくれることは稀で、こちらから挨拶をすると、やっと返事をしてくれるくらいの暗い性格のようだった。

「あれでよく生活していけるわね」

 と陰口を叩く人もいるに違いない。

 綾音は、年齢的には二十代半ばというところであろうか。端正な顔立ちで、それなりにモテるはずである。

 しかし、まわりの女性とすれば、嫉妬しそうなほどのプロポーションの良さは誰もが認めるものだろう。特に身長が高く、百六十五センチは絶対にあるだろうと言われていた。

「いやいや、百七十くらいはあるんじゃないの」

 と言われるほどで、間違いなく、この近所でも彼女ほど背の高い女性はいないに違いない。

 ただ、彼女はスポーティな感じではなく、運動をしているところをあまり見たことがない。ダイエットをしている雰囲気もないことから、

「苦労しなくても、あの体型を維持できるのよ。羨ましいわ」

 というのも、まわりの人からの嫉妬や妬みを買う一つの原因でもあった。

 ただ、彼女は努力をしないでも痩せていて、スタイルがいいと言ってもいいのだが、彼女の場合、拒食症でほとんど食べられないタイプである。拒食症というのは、一緒にいればその性格は分かってくるのだが。一人でいることが多いため、彼女が拒食症であることなどを知っている人は誰もいなかった。

 少なくともここ半年ほどは、彼女のことを誰一人理解できる人がいなかったのは事実だった。

 だが、そんな彼女を理解できる人が今から半年くらい前に引っ越してきた。その人の部屋はちょうど彼女の真下に位置している。二〇五号室の住民だった。

 ということは言わずと知れず、綾音の部屋は三〇五号室なのだが、彼女はそこにラブラドールのプチと二人暮らしということだった。

 下の部屋に引っ越してきたのは、実は男性だった。

 彼は今年新卒で大学を卒業し、入った会社の転勤で、この街に引っ越してきた。会社の社宅もあったが、せっかくの一人暮らし、給料の範囲内でギリギリ生活できる場所を見つけようと探したのが、このマンションだったのだ。

 このマンションは二LDKと、一人暮らしには少しもったいないくらいだが、立地条件として駅から少し遠いことと、築十年以上が経っていることで、駅近くの新築に近いマンションなら一DKでも借りることができないほどだったので、広い方を選択したというわけだ。

 一応全国展開している会社でもあるので、それなりの給料も貰えるということで、このマンションを選んだが、さすがに最初はご近所づきあいが合わないと思っていた。

 昔から住んでいる人たちの集団が存在し、新参者にはどこか冷たい。最初の人当りだけはいいのだが、下手にそれを信じてしまって、人懐っこさを出してしまうと、相手の思うつぼに嵌ってしまいそうだった。

 あくまでも自分は新参者だということを自覚してひり下っておかないと、後で痛い目を見る気がしていた。

「本当におばさんたちの集団意識は怖いものだ」

 と感じていた。

 このことは、大学時代から分かっていたことなのでよかったと思っている。その代わり、大学に入学してからすぐの頃は、まわりに溶け込めずに失敗ばかりしていた。図に乗ってしまうところがあるのも、彼にとってはマイナスであった。

「集合住宅なんて、どこも一緒だ」

 ということに気付かなかった大学時代、今から思い返すと後悔ばかりである。

 それでも、もう同じつては踏まないと感じ、今度は逆に相手を自分の方が利用してやるんだというくらいの気持ちを持つようにしていた。

 だから、もし相手が欺こうとしてくれば、こちらはそれに乗ったつもりになって、相手を油断させるくらいのことはできるだろうと思っていた。相手を知ろうとしないから難しいだけで、

「おばさんの集まりなど、しょせん世間知らずな集団だ」

 というくらいにしか思っていなかった。

 その男性の名前は、河村俊一という。彼と綾音は階も違いので、面識がないようだったが、廊下で出会えば挨拶くらいのことはあったかも知れない。

 そもそも、彼はサラリーマンで、毎日同じ時間に家を出て、帰りも残業などがあれば、帰ってくる時間はいつも午後十時は過ぎていた。

 綾音の方のスーパーのバイトは、朝早い時は、九時くらいまでに出勤すればいいので、彼と会うこともない。彼は駅まで遠い上に、さらに電車で一時間近くの通勤時間なので、七時には部屋を出ていく。その時間はまだ綾音は布団の中にいるくらいだった。

 スーパーのバイトと言っても、結構いろいろなことがある。レジはもちろんのことだが、商品の補充から、発注までこなさなければいけない。郊外型の大型スーパーほどではないが、コンビニほど小さくもない。中堅クラスの事務とスーパーでも、彼女の勤めている店は同じ系列店の中でも大きめの店だった。

 駅前からそれほど距離もないことから、主婦の買い物はもちろん、独身サラリーマンが夕食として惣菜を買って帰るのにはちょうどよかった。店は午後十時まで開いているが、基本的に綾音は早番勤務なので、九時から四時までの、途中一時間休憩が取れる六時間体制だった。

 夕方の本当に忙しくなる時間に帰るのだから楽だと思う人もいるかも知れないが、午前中は午前中、昼からは昼から出やることは結構あった。特に午前中は、納入容赦が結構納品に来るので、その検品に大慌てである。

 このスーパーは地元では昔から馴染みの店であるが、全国チェーンのように大きな店ではない。大きなチェーン店になると、どこかに大きな流通センターを作り、そこに納入業者が店ごとに商品を運んでくるので、センターからは一台のトラックで一日に数度の納品で済むのだが、このスーパーには流通センターというものがない。そのため、業者は個別に納入してくるので、納品時間が重なると、道にトラックが並んでしまうという事態を引き起こしていた

 交通渋滞を引き起こすということで、さすがにこの店も最近は流通センターの考え方に傾いているようだが、どこまで採算はとれるかが難しいところなので、二進も三進もいかない状態のようであった。

 午後はというと、今度は入った商品を棚に入れ、それでも品切れているものを調べて、業者への発注業務がある。

 こちらは時間が決まっていて、午後二時までに発注しなければ、翌々日の納品になってしまう。それではいけないということで午前中の納品が行われいる時にも他のバイトの人が棚入れを担当したりしている。

 発注は物流と違って、本部に各店からのデータがすべて集まるようだ。そしてコンピュータ処理された各店おデータが、納入業者ごとに出来上がり、それを回線を使って、業者がデータを取りに来るという、

 業者側で伝票を発行し、商品と一緒に持ってきて検品する。それが発注から納品までの大まかな流れだった。

 最近では伝票もいらないものもあり、本当に昔ながらの手書き伝票を使っている日配業者などとの差が結構激しいことが伺える。

 発注も昔のように紙に書いて、ファックスで送るなどというものではない。手に持ってちょうどいいくらいの大きさのハンディターミナルで、絵札のところのバーコードをピッとやるだけで、商品が読み取れる。後は数量を打ち込むだけだ。

 そして発注が終われば、ハンディをデータ送信用の充電器のようなものの上に置いて、送信ボタンを押すだけだ。

 もちろん、それはパソコンに連動していて、パソコンの発注送信画面というものがあるらしく、そこにページを開いておけば、データが送信され、何件送信されたかなどの表示が最後に出てくる仕掛けである。

 本当はこれでも、まだ古臭いシステムなのだそうだ。もっと便利なシステムもたくさんあるのだが、いかんせん経費がかさむということで、今のようにしているだけだ。考えてみれば、物流センターも作れないほどの地場企業なので、それも難しいだろう。

 しかし、物流センターを作ったり、システムをもっと簡素化するということは、ある意味人件費削減に役立つものであるのは確かだ。それでもなかなか踏み切れないのは、

「収支が逆転するのはいつになるか?」

 という問題である。

 システムを新しくしたり、新たに設備投資をすれば、最初は赤字の垂れ流しが当たり前のおとだ。だが、いずれは黒字に転じるからこそどこもやっているのだし、その収支の分岐点に至るまでに会社が潰れてしまっては本末転倒というもので、どうすればいいのか、会社だけではなく、経営コンサルタントの人とも協議をしているという話だが、果たしてどうなるのか、綾音に分かるはずもなかった。

 綾音としては、毎日九時前に仕事に来て、四時まで何事もなく仕事が終わればそれでいいのだし、毎月決まった日に、決まったお給料がもらえれば、それでよかった。決して暮らしは楽ではないが。ここのバイトをしている分には、何とかなっている。綾音には仕送りをしてくれる親がいる。本当は、

「家に帰ってくればいいのに」

 と言われていたが、綾音の家では兄夫婦が家にいるので、自分がいづらくなってしまったようだ。

「別に気を遣うことなどないよ」

 と兄は言ってくれるが、どうも奥さんの方が少し気にしているようだ。

 親と一緒に過ごすだけでも気を遣うのに、妹がまだ結婚もせずに家にいれば、それは気も遣うだろう。本当は家を出て行きたくなかったが、義姉の手前、出て行かざる負えなくなり、両親も、

「すまないね。できるだけのことはさせてもらうからね」

 と言って、仕送りを家賃分くらいは送ってくれた。

 さらに、家が農家ということもあり、野菜には困らない。食費として野菜代がいらないのは結構助かっていた。

 だから、これくらいのマンションに住めるのだ。

 だが、彼女は寂しがり屋だった。その影響からか、一人で暮らしていて寂しくなったら、果てしなく落ち込んでしまうのが分かっていたので、

「何かペットがいれば」

 ということでペット可のマンションを探した。

 最初は通勤していたが、電車での通勤ではなかったので、少々駅から遠くてもいいという意識もあり、不動産屋さんからここを紹介してもらったのが、三年前だった。

 二十二の時に初めて一人暮らし、

「さて、ペットは何にするか?」

 と考えた時、

「イヌにしよう」

 というのは最初から決めていた。

 ネコも嫌いではなかったが、寂しがり屋の自分には、イヌの方がいいと思い、イヌにすることは結構初めから決めていた。

 どの種類にしようと思い、まずペットショップに行ってみた。

 イヌに関しては少々だが知識はあったので、考えながら見ていた。

「最初に気になるのは、誰もがそうであろうが、まずは小型犬である。目についたのは、ポメラニアンだったり、シーズーなどであった。

「マルチーズやテリア系の犬もいいな」

 と思って見ていると、その向こうにこちらをじっと見ているちょっと大きめのイヌがいた。

「レトリバーかしら?」

 耳が少し垂れていて、花が特徴に見えるその顔は、何かボーっとしていて頼りなさそうに見えた。だが、その目でこちらを見つめられると、綾音はその子から目が離せなくなった。

「あれは運命だったんだわ」

 と思ってしまうほど、お互いにじっと見つめ合っていた。

 その二人の間には誰も入り込むことができない空間があり、

「きっとこの女性はこの子を買ってくれるだろう」

 と店も思ったに違いない。

 二十歳過ぎの女の子が一人でやってきて、イヌと運命的な出会いをしたのだから、店の人がそう思ったのも当然かも知れない。

「この子は、レトリバーですよね?」

 と、店員さんに聞いてみた。

「ええ、ラブラドールです。メスですけど、愛嬌があって可愛いでしょう?」

 と言っていた。

「でも、大型犬ですよね。マンションではペット可なんですけど、大丈夫でしょうか?」

「ええ、もちろん大丈夫ですよ。ラブラドールは家で飼っている人もたくさんいます。何しろこの子たちは、盲導犬として使われていたり、警察犬としても採用されていますからね」

 という話に、綾音は飛びついた。

「それはすごいですね。この子は本当に賢い子なんだ」

 と言って、ガラスごしに頭を撫でるふりをすると、イヌの方も綾音の方に寄ってきて、ガラスにスリスリしているようだった。

「本当に可愛いわ」

 その子をその日のうちにペットショップから買ってきた。一緒にその子を育てるうえで最低限に必要なものを一緒に買いそろえることも忘れなかった。

 それからしばらくは、この子のために、少しずついろいろなものを揃えていき、それが毎日の楽しみとなった、

「母親ってこんな気持ちなのかしら?」

 と、初めて親の気持ちが分かった気がしたが、やはり自分のお腹を痛めて生んだ子ではないという意識だけは持っていた。

 それでも、少しずつ慣れてくるこの子を見ていると手放しに可愛い。朝出かける時は後ろ髪を引かれるような思い、パートで仕事をしながらでも、たまに考えすぎてしまい、簡単なミスをするのもご愛敬、すでに気持ちは犬に向いていた。帰宅途中に立ち寄るペットショップがまた楽しみで、

「今日は何を買ってあげよう」

 と、そればかり考えていた。

 部屋に帰ると、エレベータを降りて、廊下に一夫足を踏み出しただけでも分かるのか、姿も見えていないのに、靴音だけでビクッときて、玄関の前でお座りしてちゃんと待っている。

「この子、私の足音が分かるんだわ」

 その証拠に、一度母親が遊びに来た時、この子を見ていてくれて、他の人が廊下を歩いている時はまったく反応しないのに、綾音が帰ってきたのは分かるみたいで、それまで伏せて眠そうにしていたのを、いきなりビクッとさせて、尻尾フリフリ、玄関先に急いだという。

「本当にこの子、かしこいわね。あなたの靴音、最初の一歩で聞き分けられるのよ」

 と言って感心していた。

 綾音も満足気味に、

「そうなのよ。まだこんなに小さいのに、本当にかしこい子なんだって私も感動しちゃうのよ」

 と、母親と一緒に感心していた。

「プチは大人しくしてた?」

 と綾音が聞くと、

「ええ、とっても大人しくて、逆に番犬には向かないんじゃないかってくらいだったわ」

 と母親がいうと、

「そんなことはないわよ。この子は警察犬としても使われている種類なのよ」

 というと、

「へえ、そうなんだ。私は盲導犬のイメージが強いけどね」

「狩猟とかに使われていたので、そのあたりも結構機敏なイヌなんじゃないかって思うの。今はこうやって慣れちゃって、普段はいつもボーっとしているように見えるけどね」

 と言って、プチの方を見下ろして、ニコリと笑うと、プチは、綾音が何を言っているのか分からずに、ポカンとしていた。

 それがまた母性本能を擽るというのか、実に可愛いのだ。

「まだ、子犬だけど、成長すると大きくなるんでしょう?」

「ええ、盲導犬をイメージしてくれればいいと思うけど、腰くらいまでは来るんじゃないかしら?」

「どれくらいで成長するの?」

「二歳くらいまでには成長が完了すると言われているわ。そろそろ一歳を迎える頃なので、あと一年あるかないかくらいかな?」

「じゃあ、次に来る時は、もう大きくなっているかも知れないわね。でも、その前にもう一度くらいは小さな頃のこの子を見ておきたいって気もするわね」

 と母親がいうと、

「そうね、ちょくちょく来てくれれば、この子も見ることができるわよ」

「うん、娘が二人できたような気がして、これも楽しみだわ」

 と言って笑っていたが、母親は確かに綾音を育ててくれたことは間違いのないことであり、プチをひょっとすると、子供というよりも、孫のような気がしているのかも知れない。何しろ、自分のお腹を痛めて生んだ子ではないからだ。

「でも、本当にこの子を見ていると癒されるわね。嫌なことがあったとしても、すぐに忘れてしまえそうな気がする」

 と綾音がいうと、

「うちでも犬を飼おうかしら?」

「どうして飼わないの?」

 と聞くと、

「さやかさんがイヌ派だめなようなの」

 さやかさんというのは、義姉のことである。

 綾音の家族は基本的に皆イヌが好きだったが、新しく家族に加わった人がイヌ嫌いでは、さすがに飼うことはできないのだろう。

「ネコもダメなの?」

 と聞いてみると、

「ネコはね。お兄ちゃんがダメなの?」

「えっ、前はネコも犬も好きだったような気がするんだけど?」

「うん、今はイヌは大丈夫のようなんだけど、ネコに関してはアレルギーが出てきたみたいで、病院から、ネコアレルギーだって診断されたのよ」

「ネコアレルギーって、そんなに突然になるものなの?」

「ええ、そうらしいわよ。おかあさんは詳しいことは分からないんだけどね」

「じゃあ、お兄ちゃんもたまにここにきて、プチの顔を見れば、癒しになるかも知れなわね」

「そうね。あなたのいる時に一度、来させてみようかしら?」

「ええ、そうしてくれると嬉しいかも? 私もお兄ちゃんには久しぶりに会ってみたいわ」

 というと、

「でもね、あの子にはまだ少しこだわりがあるようなのよ」

 と、母親は少し考え込んだ。

「こだわり?」

「ええ、あなたを家から追い出したような形になったでしょう? それがあの子には心苦しいらしくって、そのことを結構気にしていたようなの」

「そんなことは私何とも思っていないよ。むしろ一人暮らしをさせてもらって、仕送り迄もらえて、おかげで、プチとも一緒に暮らせるようになって、今の私は幸せなんだって思う。だから気兼ねなくきてほしいと思っているんだ」

 というと、

「そうよね。そう言ってくれると、あの子も救われる気がするわ。あの子はあの子で、家をいずれは継がないといけないと思っているようで、今はまだ仕事をしているんだけど、そのうちに農家を継ぐかどうか、考えてくれることになっているの」

 兄が家を継いでくれると、綾音としても安心であった。

 そんな綾音だったが、一人暮らしをするようになってから、プチ以外でも何か趣味を持とうとして、最初は何にしようか考えたが、女の子らしい趣味として、編み物をしてみようと思うようになった。

 まず、部屋にクッションを置こうと思い、リビング用品店に行ってみたが、そこで手芸関係のコーナーがあり、よく見ると、クッションカバーのデザインを、自分で編むというクラフト的な商品があった。

「これなら私にもできるかも知れない」

 と思い、さっそく買ってきて、作るようになった。

 これならば、プチと自分の用事さえ済ませてしまえば、あとはテレビを見ながらでも、片手間でできるのが一番の魅力だった。プチはいつものように遊んでくれないのが、最初の頃は寂しかったようだが、慣れてくると、もう何も催促しなくなる。綾音が一人で一生懸命にやっているのを横で見守りながら、じっとしていた。

 時々頭を撫でてやると、

「くぅーん」

 と言って、甘えた声を出す。

 それがまたたまらなく可愛くて、思わず微笑んでしまう自分がいた。綾音はあまり飽きっぽいわけではないので、数日もやっていれば、クッションは完成した。嬉しそうな綾音を見てプチも尻尾を振って喜んでくれているようだった。

 編み物の時間とプチと一緒にいる時間で、綾音の一人暮らしは十分に充実したものとなっていた。

 だが、綾音には大きなトラウマがあり、それが一種の病気を引き起こしていたのだが、そのことがどれほど大きな問題だったのか、綾音には分かっていなかったような気がする。しかも、綾音だけではなく、他人も巻き込んでしまうことになるなど、その時の綾音に分かるはずもなく、楽しい日々は、何事もなく過ぎていくのだった……。

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