第7話 死者との会話

 静香は、詩織さんが主導権を握ってくれていることが嬉しかった。もちろん仕掛けてきたのは詩織さんの方だったので、静香が主導権を握るのは無理なことだが、詩織さんに任せていればと思うと、本当に気が楽だった。

 だが、詩織さんの行動を見ていると、静香に委ねようとするところが随所に見られた。そんな時は察して自分から動くのだが、詩織さんはそんな静香に満足しているようだった。

 静香は相手が何を考えているのかということを悟るのがうまい方だった、それは自覚していることであり、自他ともに認めると言ってもいいだろう。

 静香は詩織さんに促されるように行動することが楽しかった。懐かしさのようなものがあると言ってもいいだろう。

 考えてみれば、今まで人のために何かをするなどということは考えたこともなかった。すべてが自分中心で、人のことなど構っていられないというのが、静香の基本的な考えであり、その考えが今までの自分を支えてくれているとさえ思っている。

「静香ちゃんは、私がしてほしいことが分かっているみたいなので、それがとっても嬉しいわ」

 と、耳元で詩織さんに言われると、静香も思わず、

「お姉さま

 と口から出てしまった。

 その時、一瞬カッと見開いた目で静香を見たかと思うと、すぐにいつもの表情になって、

「嬉しいわ」

 と一言言ったが、たった今の表情を見てしまっていたので、その声が震えてでもいるかのように思えて、少し怖かった。

――今の詩織さんは何だったのだろう?

 何か怖い表情になってしまった理由を考えてみた。

 一つ目は、

「お姉さまという表現は、自分がかつて慕った『お姉さな』に対してだけ使ってもいいと自らが認めた表現であり、それを使った静香に驚いた」

 という発想。

 これが一番考えられるような気がする。

 誰にだって大切にしておきたい想い出や、その思い出に対しての人物だったりするものを他の人に軽々しく口にされたりすると、汚されたような気がしてしまうこともあるだろう。それを静香は感じた。

 ただ、先ほどの一瞬カッと見開いた目の説明にはなっていないような気もした。

 もう一つは、

「詩織さんの中で、お姉さんが死んだことで自分のある時間がその時で止まっていて、その時間を動かすキーワードが、他の誰かから自分のことを『お姉さん』と呼ばせることだった」

 というのはどうであろうか。

 この考えはあまりにも発想している人に都合よく考えられているようで、それこそ架空の妄想の世界ではないだろうか。

 そう思うと、静香は自分が、

「開けてはいけないパンドラの匣」

 と開けてしまったのではないかと思うのだった。

 ギリシャ神話で言われるパンドラの匣というのは、箱を開けることで、その中から疫病や争いなどと言った不幸なことが出てきてしまうというお話で、まるで玉手箱を開けてしまったことによりお爺さんになってしまった浦島太郎の話のようであるが、基本的にはまったく違う。そもそもどちらの話もその部分だけが強調されて伝承されているので、その前後、いや、物語全体に対しての評価など、一般的な人は誰も知らないのではないかとも思う。

 ただ一つ言えることは、二つの匣を渡した人は、渡された人が箱を開けるということを最初から分かっていたことに相違ない。パントらの匣を与えたオリンポスの神しかり、玉手箱を与えた乙姫様しかりである。

 だが、オリンポスの神々は匣をパンドラが明けることで災いをもたらすことを望んだのだが、乙姫様の場合は、自分たちの幸せを考えてのことだった。そもそもが前者は人間全体に絡むことであり、後者は自分たちだけの問題という適用範囲という意味でまったく違ったシチュエーションであったのだ。

 そういう意味で静香と詩織さんの間、しいて言えば死んでしまったお姉sなを含めた関係においては、玉手箱の話に近いと言ってもいいだろう。

 詩織さんがどんな思いであのような表情をしたのか分からなかったが、静香は詩織さんの表情を見て、思い出したことがあった。

――あの表情、以前にも感じたことがあったような――

 と思うと、急に身体が強張ってくるのを感じた。

 遠い記憶を遡って思い出していくと、どうしても思い出されるのが、中学時代のあの忌まわしい思い出だった。

 あの時も、相手の男が目をカッと見開いたのを覚えていたからだった。

 あの顔がしばらく頭の中から離れずに、

――永遠に忘れることなんかできない――

 と思ったのを思い出したが、不思議といつの間にか忘れてでもしまったかのように、思い出すことはなくなった。

 きっと、夢に出てこなくなったからだろう。あれだけ毎日見る夢の中の最後に出てくるところで、

「毎日の悪夢」

 として感じられ、それがこの世の悪夢から逃れるための「儀式」のようなものとして、通らなければいけない道だと思うしかないと思っていた。

 だが、夢自体、気が付けば見なくなってしまったのは、自分とすれば、気が抜けてしまったほどであったが、よかったのだとして素直に受け止めればよかったのだろう。

 悪夢など見なくなってしまうと、

――どうして見なくなったのだろう?

 と思うようにもなった。

 見ないなら見ないに越したことはないのに、どうしてそんな余計なことを感じるのか、自分でもよく分からなかった。

「見なくなるというのは、自分の中でのトラウマがなくなったからだろうか? もしそうであるなら、本当に嬉しいのだけど」

 と、自分でもなくなったという意識はない、

 どちからというと、意識していたことが記憶の方に移行して、その記憶というのが封印される場所だったということなのだと思った。

 トラウマというのは、身体が覚えているものだと思ったので、意識として忘れることはできても、身体が覚えているものではないかとも思っている。

 もし、覚えている身体が反応して、その原因がどこにあるのか、記憶を遡れば分かるのだろうが、その一瞬で分からなかったことで、自分を苦しめることになるのであれば、それは本末転倒なことではないかと思えた。

 静香は、自分の意識が封印された時、自分を襲った相手が、

――本当に男だったのかしら?

 という変な感情があった。

 思い出したくもない記憶をその時だけ思い出すことを自分に課したのだが、やはり記憶というのは意識が邪魔をするのか、おぼろげにしか出てくるものではないようで、ただ、その時に出てきた男というのが、どうも男であってはおかしなところがあるような気がしていた。

 丁子香の匂いにしてもそうだ、あれは、男性でも嗜好する人もいるのだろうが、女性らしさを感じたと思うのはおかしいであろうか。

 思い出そうとしたその時、自分の中で何かが変わった気がしたのは、その時の男は、

「もうこの世にはいないんだ」

 という思いであった。

 それは、自分にそんなことをする凶悪な男なので、きっと他にも余罪があったり、何度も似たような犯罪を繰り返すだろうと思っていた。そしてそれが発覚し、自分を追い詰めたその男が自らの命を断ったのだと考えたからである。

 だが、その割に、静香の中であの時の意識が記憶として封印されていると思うと、別の感覚が意識の中に芽生えてきたのを感じた。それが、

「あの人は本当に男だったのか?」

 という感情である、。

 あんなに強引に襲い掛かってきたのだから、男性以外の何者でもないという思いの他に、どこか女性らしいものも感じられたと思ったその感覚が、今回詩織さんとの逢瀬の中でまたしても意識として浮かび上がり、再度以前にも感じたこともある、

「本当に男だったのか?」

 という思いを再度感じることになろうなど、想像もしていなかった。

「静香ちゃんは、女性が見ても、こんなに魅力のある女の子はいないというフェロモンを持っているのよ。あなたは自分でも気づいているはずだわ」

 と詩織さんは言った。

 その言葉を聞いて、ピンと来る者はあったが、自分の中で簡単には整理できないこととしていくつもの疑問が残っていた。

「えっ?」

 と、詩織さんにはそう答えたが、今はそういうしかなかった。

「静香ちゃんは、閉所や暗所が怖いでしょう?」

 と聞かれた。

 確かに静香はいわゆる、

「三大恐怖症」

 と言われる、高所、暗所、閉所のすべてが苦手だった。

 どれが一番というわけではなかったが、静香の中で閉所と暗所は同一の意味で考えられていたもので、閉所は怖いが暗所は怖くないとか、その逆などありえないとまで思っていたほどだった。

 なぜその時詩織さんが急にそのことを言い出したのか分からなかったが、詩織さんが静香を知ろうとしているのだと思った。だが実際には他の人との比較だったのだ。

 高所恐怖症の場合は、小さい頃、木に登っていて、枝が折れて背中から落ちたことがあった。呼吸困難になり、苦しかった覚えがあるが、その記憶から高所恐怖症になった。閉所と暗所はきっと、中学時代のあの忌まわしい記憶からであろうが、恐怖を感じる出来事が意識に直接働きかけて、恐怖を煽るというのは、この「三大恐怖症」だけなのではないかと静香は感じていた。

「私も閉所と暗所は恐怖なのよ。よく夢に出てくる気がするのよ」

「夢の中に閉所と暗所が?」

「ええ、たぶん、目が覚めるその一瞬なんでしょうけどね」

「ということは、その恐怖症が目を覚ますためのカギのようなものなのかも知れないですよね」

 と詩織さんはその時に言ったのだが、その話を静香も聞くと、なるほどと感じるのだった。

「私の場合は、過去に嫌なことがあって、それがトラウマとなっているからだって思っているんですけど、詩織さんの場合も同じなんでしょうか?」

 と静香が聞くと、

「ちょっと違うような気がするの。元々閉所と暗所は恐怖だったんだけど、その恐怖をあの時のお姉さんが和らげてくれていたような気がするの。今はそのお姉さんがいなくなったことで、私はきっとこの恐怖から救ってくれる人を探しているような気がしているのよ」

 と言った。

「じゃあ、その相手が私かも知れませんね」

 と静香がいうと、

「ええ、そうであってほしいと思っているわ:

 と詩織さんが答えた。

 この詩織さんの答えを聞くと、どうも最初から静香に対して感じた思いとは違っているのではないかと思ったが、それは矛盾しているように感じる。

 直感で思ったことだったのだが、理屈で考えるとどうも違うような気がする。矛盾というのはそのことを表しているのではないだろうか。

 閉所恐怖症と暗所恐怖症を気にし始めたのは、通学に使っている電車の中でのことだった。

 窓際の席に座った時、表が眩しかったのか、前の人が降りた時に、ブラインドが降りたままだった。

 それを見て無意識にブラインドを上げたのだが、その時、隣にきた人から、

「眩しいから下げたままにしておいて」

 と言われ、静香自身は眩しさなど意識もしていなかったが、その人は気になるという。

 なるほど確かに眩しいのを気にするのも分かる気がするが、眩しいよりも表が見えないことの方が静香には気持ち悪かった。

 これがきっと閉所恐怖症の正体ではないかと思っている。他の人は眩しさの方を気にするのに自分は表が見えないことへの恐怖が先に来るのだ。それはきっと暗くて前が見えない時に感じる暗所恐怖所と同じ感覚ではないかと思った。

 ただ、暗所恐怖症への恐怖はまた別にあった。

 あれこそ夢で見たものだったのだが、断崖絶壁の谷間のところに自分がいて、その間に掛かっている橋を渡ろうとしているのだが、前が見えていて、気持ちさえしっかり持っていれば渡れるはずなのに、怖くて渡れない。それは高所であるということも手伝っているが、

「足を踏み外したらどうなってしまうんだ?」

 という思いから来ている。

 まるで目の前が真っ暗な場所で、前にも後ろにもいくことのできない恐怖、そんな恐怖に似ているような気がした。

 そう思うと踏み出せなくなってしまう、それが暗所への恐怖と同じものであると、静香は認識していた。

「私、夢の中で暗所になると、お姉さんと会話できる気がするの」

 と詩織さんが言い出した。

 それを聞いて、静香も自分の夢を思い出していた。普段は忘れ去ってしまえば思い出すことのできない夢を、今必死に思い出そうとしている。

 その夢で、静香も誰かと話をしているのだ。それは知らない人なのだが、その人はどうやら静香を知っているらしい。どうして、

「らしい」

 という曖昧な表現しかできないのかというと、静香はどうやらその人と夢の中で会話をしているようだのだが、一度目が覚めてしまうと、話の内容は完全に覚えていないもののようだ。夢の内容を思い出すまでができることであった。

 それでも会話の部分は想像で何とかなりそうな気がしたので、一度回想してみることにした。


 私がその人を見ると、悲しそうな顔をして、

「夢でしか会えなくてごめんなさん」

 という。

「何がごめんなさいなの?」

「あなたにトラウマを植え込んだのは私なの。別にあなたを襲おうという意識があったわけではないんだけど、あんな形になったのは、きっと私の中にある閉塞的な心と、あなたに私を知ってもらいたいという矛盾した思いのジレンマだったのかも知れないわ。私だけではなく、あなたにも、他の人にもある感情じゃないしら?」

 と女のような口の利き方だ。

「あなたは、女性?」

「ええ、そうなの。時々自分が男になってしまったかのようになるのが怖くて、普段は女性の中に溶け込めないの。でもあなたを見ているとこんな私でも勇気が出てくるのよ。一度お話がしてみたいと思っていたのだけれど、自分でもどうしてあんな行動を取ったのか分からない。でもやってしまったことに私は自戒の念を解き放つことができなくて、結局自殺してしまった。またやり方を間違えてしまったのね」

 気持ちは分かるが、納得はできない。

 このあたりまでくると、思い出せないと思っていた会話の内容が、どんどん思い出されてくるのを感じた。そして彼女は会話をさらに続ける。

「それでね。私は唯一あなたと繋がっていたいと思って、こうやって出てきたんだけど、一つの忠告というか、知っておいてほしいのは、あなたは自分で知らない間にある匂いを表に発しているのよ」

「それはどういう匂いなの?」

「丁子香というお香のような匂い、あなたは私と一種にいる時、あれを私の匂いだと思ったかも知れないけど、あれはあなたが、自分から出した匂い。普通はね、自分が出した匂いってなかなか感じることってないのよ。でもあなたは特別に自分の匂いを感じることができる。それが丁子香の香りなの」

 というではないか。

 頭の中が混乱してきた。だが、思い出してしまった以上、間違いのないことなのであろう。


 死者との会話を夢の中で行う。

 そんな不可能な話であったが、詩織さんに抱かれながら感じていると、まんざら本当の夢物語ではないような気がした。今見た夢も、寝ていて見る夢というよりも、現実の妄想に近いようなもので、ひょっとすると今まで妄想として片づけてきたことも、実は本当の意識だったのではないかと思う静香だった。

 きっと詩織さんも静香との逢瀬の中で、妄想に耽りながら、死んでいったお姉さんとお話をしているのではないかと、静香は思うのだった。

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