第6話 女性同士
その匂いが重なったことで、静香はその空間が普段感じたことのない別の興奮に包まれているのを感じた。ヘリオトロープの相手に従順な香りと、丁子香はその従順な気持ちを支配したいと感じる思い。
静香が中学時代に襲われた時、その匂いを、静香も放っていたのかも知れない。
ただ、あの時は静香だけではなく、相手の男も同じ匂いを放っていたので、静香にはその匂いを感じることができたのだが、強めの匂いを漂わせていた方の犯人は、そのことを意識していなかった。
そのため、無意識の行動を衝動的に起こすようになり、それが匂いの感覚をマヒさせ、襲い掛かろうとしてしまう。静香はとっさにそのことに気付き、何とか相手が襲い掛かろうとしているのを防ごうとしている。
静香は知らなかったが、相手の男は、その後、自殺していた。静香は、これを、
「夢のようなものだ」
として片づけようとした。
確かに相手は未遂に終わったので、それで事なきを得たといえばそれまでなのだろうが、静香が自分の中でだけ解決してしまうと、相手の男の解決は宙に浮いてしまう。
彼は帰りついてから、自分のしたことを後悔し、さらに未遂で終わったことをよかったとも思っていた。
しかし、このよかったという思いは、世間に対して、そして相手の女の子に対して思うものであって、自分の中でまったく解決をしているものではなかった。
その時の犯人の男にとっては、中途半端な思いだけが怒ってしまい、その解決法としては、
「もう一度同じ犯罪を犯して、最初の犯罪への思いを打ち消してしまうか、自分自らで決着をつけるか」
ということだけであった。
その男は自分で死を選ぶことを選択した。
「別に未遂だったんだから、死を選ぶなんてことしなくてもよかったのに」
と、もし彼の犯罪を知っている人がいるとすれば、そういう内容のことを言ったかも知れない。
しかし、彼は死んだ時に、遺書を残していなかった。そのために彼の自殺は衝動的なものだとして片づけられた。
確かに遺書がなければ本当に自殺なのかどうか、分かりづらく、本当に自殺なのかを警察も調査することだろう。
だが、その男の場合は普段から行動がおかしく、いつも瞑想していて、そのたびに、他の人の訳が分からないと思うようなことを叫んでいるふしがあった。
「あんなやつだったので、自殺をしたと言われても、自分たちの誰に聞いてもそれを疑うという人は一人もいないと思います」
と答えたに違いなかった。
彼には、ウワサだけではあったが、
「人殺しのような重大なことはしていないが、それ以外の少々の犯罪くらいであれば、そのすべてをしているかも知れないと思うくらい、普段から怪しかった」
と、
「本当は死んだ人を悪く言うのは憚るべきなんでしょうが」
という前置きを置いて、ほとんどの人がそれくらいのことを口にするほど、彼はまわりから嫌われていた。
しかし、そんな中で(彼を嫌っている一人であるが)
「彼は死んだ方が幸せだったのかも知れないな」
という人もいた。
実際に彼が生前、彼の味方は誰もいなかった。確かに彼の家族は彼の味方だったかも知れないが、彼にとっての本当の意味での敵が家族であった。家族の存在が彼を犯罪の道に進ませる一つの力になったことは否めない。
彼は家族のみんなから考え方や、行動その他、そのほとんどを全否定されていた。何を言っても信じてもらえない。親の方では、
「自分たちの納得のいく回答でないと理解などできるはずなどない」
というほどに徹底したスパルタとも言える教育方針であった。
前に進むことも後ろに下がることもできない彼としては、成長するにしたがって身に着けていくはずの、
「四面楚歌になった時、どうすればいいか?」
という回答を、まったく一番安直な方法を選ぶということを身に着けてしまった。
相手を傷つけられるほどの勇気もない小心者だ。そうなると最後に待っている結末は容易に想像がつくというものだ。
しかし、自殺とするというのはどういう心境だろう?
「自殺をするのは、自分の責任から逃げるための卑怯なやり方だ」
などと辛らつな言い方をする人もいる。
なづほど、被害者のあることで、被害者、あるいは、その遺族などからすれば、その心境も分からなくはない。本当は、
「八つ裂きにしても許さない」
というほどの恨みを持っているかも知れないが、そんな人でも、警察なりに逮捕されれば、キチンと法律の力で裁きを与えてほしいと思うだろう。
「極刑にしてくれないと気が収まれない」
という人もいるだろう。
要するに死刑を願う人である。それでも、キチンと裁判に掛けられて、法の裁きを受けるのだから、少なくとも本人が自分の勝手な判断で自分に裁きを課すとというのは、ルール違反だと思う。
今の世の中仇討ちや、復讐が認められていないので、そのような方法しかないだろう。
しかし、世の中というのは、どこまで理不尽にできているのか分からないもので、
「加害者側にも権利が」
などという考えもある。被告に対しても弁護士がついて、その弁護士の仕事は、
「依頼人の利益を守る」
というもので、いくら依頼人が犯人であるということが決定的になっていても、少しでも減刑するために努力を怠らない。
情状酌量に訴えて、少しでも執行猶予を得ようとしたり、検察側の求刑をいかに軽く収めようとするかが彼らの仕事である。何も有罪のものをすべて何もなかったことにするなどできるはずもなく、いくら百人が百人悪者だと思っても、加害者にも権利があるのだ。
もう一つ難しいのは、加害者の身内の問題である。
「身内に犯罪者がいる」
というだけで、それまでどんなに聖人君子のような生活をしている人であったり、自分の地位や立場を築くために、あらゆる努力を惜しまずに、ここまで築き上げたというものを持っている人でも、自分に関係のない身内が勝手にやったこと一つで、それまでの信用は地に落ちてしまうことだってある。
誹謗中傷のあらしに遭い、客観的に見れば、彼らこそ被害者ではないかと言えるのではないか。
「何もしていないのに、ある日突然、まわりから攻撃されたりする
というのが、被害者という言葉の概念だとすれば、加害者家族はまさにその通りではないだろうか。
しかし、加害者家族に対しては、一般的に見えている被害者やその家族のように同情されることはない。逆に、
「そんな家族を生んだのと同じ環境にいたり、家族がそんな悪魔のような犯罪者を生んだのではないか」
などと言われるのでは、完全にやり切れない気持ちになるだろう。
「被害者の場合は、被害者の家族にしてみれば、溜まったものではない」
と言われるが、誹謗中傷を受ける加害者の家族はどうなのだろう?
これこそ、今の世の中の理不尽さを捉えていると言っても過言ではないのではないだろうか。
今回、自殺した家族としてはどうだったのだろう?
遺書もなく、自殺の原因がハッキリとしない。警察の捜査で出てきたことは、自殺した青年の悪口ばかりだ。
「自殺もありえることだ」
であったり、
「自殺したとしても、別に悲しむ人はいない」
などという勝手な言い分もあった。
それだけ嫌われていたということであろうが、家族としては、いきなり自殺をされ、しかもどうして自殺をしたのかを調べていると、聞きたくもない話が、いたるところから噴出するのである。こちらもたまったものではないだろう。
静香は、自分を襲った男がそんなことになっていたなんて知る由もなかった。しかし、静香にだってトラウマが残ったのも事実だ。
「多分、一生消えることのないトラウマ」
と自分で思っているだけに、どうすればいいのか、考えどころであった。
詩織さんが実際に知らないと言った。お姫様のようなお姉さんの結末であるが、やはりお姉さんも不治の病に侵されていて、最後は誰もが分かっていることだった。
詩織さんは自分の病気が何なのか、まわりから一切教えられていなかった。本当は子供心に、
「どうして誰も教えてくれないの」
という本当に理不尽な気持ちだった。
自分のことを自分で知らないということがこれほどやり切れない思いなのか、いくらまわりが自分のためを思って黙ってくれているということを分かってはいるつもりなのに、
「自分の人生なのに」
と思うと、やはりやり切れない気持ちになる。
「ちゃんと分かっていたら、やり残すことはない」
と言いたいのだろうが、もし本当のことを知ってしまうと、頭の中がそれどころではないくなるかも知れないとまわりは思っているのだろう。
よほどしっかりとした考えを持っていない限り、やり残したことをどうのこうのいう前に、何も考えられない状況に陥るのではないか、それを恐れるあまり、大人たちは何も言わないのだろう。
どちらにも苦渋の選択と、その選択によって苦しまなければいけない運命が待っている。言う言わないどちらを選択したとしても、その悩みに大差はないのではないかと思う。
そこに大差を感じるのであれば、その狭い範囲だけを抜粋して抜き出すことで、比較対象の分からないものを比較しているかのような気がしてくるに違いない。
詩織さんはお姉さんがどう感じていたのか分からない。それよりも今から思い返してみると、執事の人があれだけ冷静でいられたのも分かる気がした。
「少々のことではビクともしない」
そんな人でなければ、お姉さんと二人の性格の中で、ずっと冷静でいられるのは無理なことであろう。
人間、どうしても相手のことが分かってしまうと、思入れが激しくなり、何がその人のために大切なことなのかなどと考え始めると、その意識が強すぎるせいか、判断力はマヒしてしまいかねないと思う。
あれほど冷静で、いや冷酷に感じられるほどの人がそばにいてこそ、お姉さんは生きてこられたのかも知れないと思うくらいだった。
そんなお姉さんが、最後詩織さんに何も告げずにいなくなったというのも、究極の選択だったのかも知れない。
何かをいうにしても、何も言わなかったにしても、それなりに理屈は通ることに思えている。
しかし、そんな中、何も言わなかったというのは、本能のような感覚が彼女の中にあったからではないだろうか。
「イヌやネコという動物は。自分の死に目が分かるらしく、その時が近づいたら、なるべく姿を隠すらしい」
という話を聞いたことがあった。
それは、死んでいくところをまわりに見せたくないという本能のようなものなのか、そういえば、病院に入院していた親戚のおばあさんが、
「最後は自分の家の布団の上で死にたい」
と言って、死期が近づいていることを知り、先生に相談したところ、退院が許され、本人の意思通り、部屋の布団の上で死ぬことが許されたという話を聞いたことがあった。
そんな話が思い出せるほど、詩織さんは今でもお姉さんのことを時々気にしているようだった。
だが、詩織さんは、
「どうしてお姉さんが私に何も言わなかったのかということを残念に思うけど、でも私は決して恨んでいるわけではない」
と感じた。
どちらかというと、何も言ってくれないほどに信用されていなかったのかという寂しさがあったが、それ以上にお姉さんの中での決意が固かったということが分かってくると、
「恨むなんて、お門違いもいいところだわ」
と感じるようになっていた。
お姉さんは、誰にも知られずに死んでいくことを望んでいたんだ」
と思うと、会えなくなった寂しさよりも、彼女の潔さが格好良く思えて、なるべく必要以上に思い出さないようにしようと思った。
まったく思い出さないというのは、残念ながら不可能だった。自分にできるだけの努力で、なるべく思い出さないようにするくらいしかできなかったのだ。
詩織さんはお姉さんは寿命で死んだんだという風に考えれば、少しは自分の慰めになると思うのだった。
詩織さんは、お姉さんとの楽しかった日々を
「まるで夢のことのようだ」
と感じていた。
お姉さんの身体緒柔らかさがまだ詩織さんの指の先に残っている。
最初はお姉さんが詩織sなの身体を蹂躙していた。
――どうしてこんなことをするの?
と感じたが、それは最初だけだった。
羞恥の思いは人の道に逆らっているのではないかという一般的な意識が邪魔をしたのだろう。しかも、お姉さんのような常識をわきまえているかのような高貴な人が、どうしてこのような淫靡なことが平気でできるのか、不思議で仕方がなかった。
最初はまだお姉さんの病が不治の病で、死を待つだけの身であるということを知らなかったので、そう思っていたのかも知れない。
そのうちにお姉さんの身体が運命には逆らえないと知った時、詩織さんも、
「自分がお姉さんに蹂躙されるのは運命であり、逃れることのできないものなのではないか」
と感じた。
そう思うことで、詩織さんは徐々に自分がお姉さんに蹂躙されていることの正当性を感じるようになっていた。
いや、本当にそうであろうか?
お姉さんが不治の病であり、運命に逆らえないと知った時、すでに詩織さんは蹂躙という運命に支配されていたのかも知れない。自分の運命を先に感じたからこそ、お姉さんが感じている理不尽とも思える運命も、お姉さんの身になって感じることができたのかも知れない。
そんな詩織さんだからこそ、あのお姉さんはお友達に選んだのだと考えると、辻褄が合うような気がする。お姉さんは凡人がその想像の及ばぬほどに感性が鋭く、自分の運命を、お姉さんが嫌がる形の運命として感じることのない相手を、その時点で八消したのかも知れない。
ただ、いつの間にか、蹂躙する立場は、詩織さんに写っていた。詩織さんの方で、
「私がお姉さんを感じさせてあげたい」
と思うようになり、蹂躙というのが、相手を感じさせ、悦ばせることになるのだということをお姉さんが教えてくれたのだ。
残り少ない命だから、そんな風に感じたのかどうか、今となっては正直、詩織さんにも分からない。ひょっとすると、お姉さんがそんな気持ちをひっくるめて、詩織さんとの思い出を、墓場まで持って行ったのかも知れない。
詩織さんは、お姉さんにそれまでしてもらったことを、できるだけ返してあげたいと思った。
それは施しではなく、
「今まで知らなかった新しい世界を教えてくれた」
という思いであり、ただそう思うと少し矛盾しているようにも思えた。
――お姉さんは、一体この快感を誰から教えてもらったのだろう?
という思いである。
その頃の詩織さんの知識として、西洋の高貴な人たち、いわゆる貴族などの趣味として、SMチックな遊びもあったという話は聞いたことがあった。日本でも、お坊さんや武士などが男性同士で、いわゆる
「衆道」
などという世界があったというのも聞いたことがあった。
したがって、普通の世界しか知らないだけで、好奇な世界にはまだまだ自分たちの知らない世界が広がっているのではないだろうか。
そんな中に女性同士の愛情があってもいいだろう。
――男性同士よりもよほど綺麗な気がする――
と詩織さんは思った。
それは、自分のその時の状況をいかに正当化したいかという思いよりも、
「詩織さんと一緒にいる意義をどんな形でもいいから見出したい」
という思いが強かったからではないかと思うようになっていた。
その時、別にお姉さんが詩織さんに対して、言葉などで明確に伝授したわけではない。詩織さんが自分で会得したのだ。
それは詩織さん自身が自分の意志を強く持たなければできないことだっただろう。いくら正当性を感じていたからと言って、心のどこかに羞恥の気持ちが残っているのだから、全面的に正当性に身を委ねていたわけではないはずだからである。
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