第5話 交り合う香り
静香は詩織さんに抱かれるようにベッドルームに移動していた。静香本人は、まるでハンモックにでも乗っているかのような揺れる快感を味わっていたが、その快感は間違いではない。静香が今まで求めていたが、口に出すことも、求めているという素振りを見せることもタブーだと思っていたのは、まわりから嫌われたくないという意識があったからなのかも知れない。
しかし、静香はまわりから嫌われることをそこまで気にはしていなかったはずだ。どちらかというと、嫌われることに違和感はなく、
「人と同じでは嫌だ」
という感覚と、
「世間一般という言葉や、一般常識」
なる言葉を毛嫌いしていた傾向から、まわりに対して気を遣うなど、あまりなかったと思っていたはずだ。
いや、それはあくまでも一般的な常識の範囲の問題であり、静香にとっても、淫靡に思えたり、猟奇に感じられたりするものは、他の人と同じ感覚で見ていると思っていたはずだ。もちろん、個人差もあり、自分には他の人よりもさらに距離を感じさせる個人差が存在していることを分かっていたからである。
静香が普段から匂いを必要以上に感じ、匂いによってその場その場の気持ちを分析するようになったのは、自分の中にある羞恥的な感覚であったり、淫靡なもの、猟奇的なものに対しての感覚が少しずれてきたからではないか、それを誘発したのは、中学の時にあと少しでひどい目に遭いそうになったあの時の記憶が左右しているということは、自分でも分かっていた。
――もし、あのまま襲われていたら、私はどうなっていたんだろう?
恐怖が先に立つ。
普通に考えれば、あのまま襲われて、蹂躙され、相手がどんな男か分からないので、結末は分からないが、口封じに殺されていたかも知れない。一人の男の自分勝手な欲望のために、自分の人生を絶たれてしまったら、こんな理不尽なことはない。
「運命だったのよ」
などという言葉でk片づけられるものではないが、こういう場面でよく言われるような言葉としての、
「まだ若い身空で、何もこんなところでしななくてもいいじゃない。これからたくさん楽しいこともあっただろうに」
と言って、まわりの涙を誘うというような感覚とは少し違っているような気もした。
「いいこともあれば、もっと悪いことも起こるかも知れないじゃないか。どうして楽しいことだけに言及できるんだ」
と言いたい。
しかし、この場で悪い状況を口にするのは、不謹慎であり、涙を誘っている場面では禁句になるはずの言葉である。
それにしても、人が死んで悲しんでいる人ばかりで、形式的なこととして、通夜があり、葬儀が営まれ、最後には火葬にされて、お骨をお墓にというのが通常の流れであるが、その途中で通夜という少し趣向の違う儀式が存在するのは、何か興味深い気がする。
故人との最後の別れの日として通夜があるといい、食事をしたり、お酒を呑んだりして、いわゆる、
「故人を偲ぶ」
という意味になるのだろうが、子供心に少し不思議であった。
あれは、親戚の人が亡くなって、母親が通夜に列席した時に、まだ小学生だった静香を連れて行って、初めて人が死んでいるのを見たのだった。一度しか会ったことのないおじさんだったが、目の前で冷たくなってまったく動かないのだと聞くと、恐ろしさなどはなく、不思議さだけがあった。ただ、
「人が死んだら悲しいものなので、態度は神妙にして、わきまえた行動をするように」
と言われたが、そんな抽象的な言葉、子供に分かるはずもない。
それでもさすがに死人を目の前にすると、不思議な感覚が強く、変な行動は慎むようになっていた。
それなのに、通夜では酒を呑んだり、死んだ人の話を嬉しそうに話をしている。そんな光景が不思議で仕方がなかった。
静香は、少しして意識を取り戻した。別に詩織さんから何か意識が朦朧とするものを飲まされたり嗅がされたりしているわけではなかったので、意識がすぐに戻るのは詩織さんも分かっていたことだろう。
ただ、すぐに目が覚めたという意識があったが、それが本当にどれほどの時間であったのかということは、静香には計り知れるものではなかった。実際の時間では理解できない時間だったのかも知れないが、意識がなかったのだから、何とも言えないというのが本音であろうか。
詩織さんは、静香が目を覚ました時、何かをしていたわけではない。仰向けになって、普通に、安静というべき体勢になっていた静香を、黙って見守っているだけだった。表情はすぐには分からなかった。なぜなら、逆光になっていたからで、それは仰向けに寝ている静香にとっては、当たり前のことだった。
詩織さんがどんな表情をしているのか、想像はできなかったが、怖いという印象はなかった。ニッコリと笑っているかも知れないし、真剣に見つめているのかも知れないが、たぶん、しばらく意識は朦朧としたままだろうと思うので、詩織さんにこの場を任せるしかなかった。
どうして、意識が朦朧とした時間がしばらく続くような気がしたのかというと、気を失う前に言っていた詩織さんのセリフの中で、
「ヘリオトロープの香り」
というのがあったからだ。
実際には、ヘリオトロープの香りがどんなものなのか、知っているわけではなかった。以前に一度どこかで嗅いだような気がすると思っていたが、匂いの記憶など、そうハッキリと覚えているものではない。その意識は今も残っていて、
――ヘリオトロープってどんな香りだったかしら?
というのが本音だった。
ヘリオトロープ……、その花の意識は以前からあった。確か甘いバニラのような香りがするという意識と、ヘリオトロープという名前自体に何か興味を感じていたのだ。
昭和初期の小説などに、掲載されていたような気がした。その香りがどうなったのか、その場面のプロローグ的に書かれたものだったのかも知れない。その描写が思い出せないが名前だけは覚えていたというのは、やはり名前に何か思い入れを感じていたという証拠であろう。
ヘリオトロープという花はお店にも置いてあり、紫色の綺麗な花を咲かせるのだそうだ。
「紫色?」
そういえば、詩織さんが好きな色だと言っていたではないか。
しかし、花の色で紫というのは結構あるもので、静香の好きな花の中に紫が多いのも事実だった。
だが、同じ色で同じように咲いている花でも、まったく違った匂いを発し、さらに、その効力や効果がまったく違っているものも多い。まるでまったく同じように見える人間、同じような表情に見えていたとしても、元々の人間が違っているのであれば、出てくる感情は、まったく違っているに違いない。
ヘリオトロープの花というのは、そういう思いを感じさせ、香りによって引き起こされる人間に対しての影響を思うと、詩織さんの部屋でゆっくりヘリオトロープの香りを嗅いでいると、何かが分かってくるかも知れないという感情にも陥っていた。
やはり気持ちを落ち着かせる高揚があるのだろう。意識が朦朧としながら、まるでクモの巣に引っかかった蝶々のように、これからどうなるか分からないという状況であっても、冷静でいられるのだ。
香りが鼻をついているのは、決して強い香りだからではない。意識が朦朧としている分、きっと五感を研ぎ澄ませようとする本能から来ているのかも知れない。意識が朦朧としていると、目や耳はハッキリと捉えることができないとしか思えないが、嗅覚だけは違っているようだった。
さらに触覚も鋭くなっているように思えてならなかった。なぜなら、今、神経が研ぎ澄まされていると思っているのは、普段表に出てこない感覚であるということを意識しているからではないだろうか。
「静香ちゃん、気持ちいいかしら?」
静香の意識が戻っていることは詩織さんにも分かっているだろう。
分かっていて、そんなことを口にしたというのは、聞こえるように言っているからで、その真意はどこにあるというのか、気持ちいい思いを相手に与えていることで、自らを満足させようという意識の表れなのだろうか。
静香は詩織さんを見上げながら、ゆっくりと思考を詩織さんに対して巡らせていた。
詩織さんから漂ってくるヘリオトロープの香りを嗅いでいると、何か別の香りもしてくるのを感じた。最初にヘリオトロープの香りを感じてしまったために、それがどんな匂いなのか分からない。
同じ甘い香りでまるで保護色のようになって、嗅覚がマヒしてしまったのではないかと思ったが、そうではなかった。どちらかというとまったく正反対の匂いのような気がして、単独で匂うと、嫌いな匂いだったりするのではないかと思えた。
その匂いをかすかだが感じ始めると、自分の身体を微妙に這いまわる何かを感じ、ドキッとしたので、
「あっ」
という声が漏れそうになったのを、必死で堪えた静香だった。
だが、声を出さなくて正解だった。その感覚は実に心地よいものとして身体に伝わってくる。
「気持ちいい」
思わず声に出たかも知れない。エリオとロープの香りがまるでアロマオイルのような役目をしているようで、心地よさはそこからも来るのだと感じた。
最初のジャスミンの香りは今は感じなくなっていた。その代わりにヘリオトロープの香りが部屋中に充満しているようで、目を開けることができなくなっているようだった。
目を開けると、せっかくのヘリオトロープの香りが失われてしまうような気がした。ヘリオトロープの甘い香りは、ジャスミンほど濃厚ではないが、ずっと鼻に残っていくような気がしたのだ。
静香の身体を這いまわるのが指であることは最初からの周知だったが、目を開けたくないのは、その心地よさも半減しそうな気がしたからだ。
――変態プレイの中で、目隠しをしてのプレイというのがあると聞いたことがあるが、何か分かる気がする――
と感じた。
こんなに心地よいところで、変態プレイなどを思い浮かべるというのは、自分にそんな羞恥プレイを望む気持ちがあるということなのかと、自分の本質がどこにあるのか考えてみたりした。
確かに、中学時代にトラウマの残るような誰にも言えない秘密があるのだが、その秘密からどこか変態趣味な自分が生まれてきているのではないかと感じなかったこともないわけではない。
ハッキリとそうだと言える証拠もないので、それをいいことに自分の中で打ち消してきただけのことだった。
身体を這う指に反応し、ビクッと身体が震えたのを感じた。それは詩織さんの指でも感じられたことだろう。
「フフフ」
詩織さんは、そう言っているようだった。
目を瞑っているので顔を見ることができないが、その表情を想像することもできる気がした。
「詩織さん」
と目を瞑ったまま、初めて一言口にすることができた。
「なぁに、静香ちゃん。あなたは私にとっての可愛い子ネコちゃん。ご不満かしら?」
「いいえ、そんなことはありません。お姉さま」
と、思わず出てしまったのがお姉さまという言葉、それを聞いて詩織さんは機嫌がよくなり、
「お姉さまにお任せなさい。あなたは、これからお姉さまと一緒に極楽に参りましょう」
と言った、
「極楽?」
「ええ、そうよ、でもあなたはすでに極楽を知っているものね。この世の天国も、あの世の天国も同時に知ることができるなんて幸せなことかも知れないわね。でもね、あの時お姉さんは本当に寂しかったのよ。ある日突然に私の前から消えてしまったのだからね」
それを聞いて、ふっと感じた思いがあった。
確か、詩織さんは、中学の頃、近所のお姫様のようなお姉さんと一緒にいる時間があって、そのお姉さんがある日突然いなくなったという。ひょっとすると、そのお姉さんが亡くなっているということを詩織さんは知っていて、そのお姉さんは歳を取ることもなく、永遠に変わらぬ若さを持っていて、すでにお姉さんの年齢を通り越している詩織さんは、あのお姉さんを探し続けているのではないかという思いである。
すでに亡くなった痕でも、生きている人間に影響を及ぼし続けるというのも、これも一つのトラウマのようなものではないだろうか。静香は今持っている詩織さんのトラウマがいいものなのか悪いものなのかの判断がついていなかった。そのため、自分に襲い掛かっている心地よさに身を委ねるしかないと思うのだった。
その時のお姉さんと、静香とでは年齢的には違っているが、幼く見える静香に対して感じている年齢というのは、お姉さんの存命時代の面影であろう。しかも、存命時代のお姉さんは年上だったので、実際の年齢よりもきっと大人びて感じられただろうし、今はその年齢も通り越して静香のような高校卒業したての女の子を見れば、それは存命時のお姉さんと被ったとしても、それは仕方のないことである。
「詩織さんは、どうして私を選んだんですか?」
静香は、もう目を開けていた。
目を開けてその目前にいる詩織さんを見ていると、何かを話しかけなければいけないような気がしたのだ。
そう思うと、目を開けてしまったことを少し後悔した。ずっと話し続けなければならないわけではないという根拠はどこにもないのに、どうしてそう思ったのか、そして、話し続ければならない自分に後悔する気分がどこから来るのか、まったく分からなかった。
詩織さんは少し考えてから、
「静香ちゃんには、私にはない何かを感じたのよ。そして、それは中学時代に一時期一緒にいたお姉さんにもない何かなんだけど、それを知りたくて、静香ちゃんには悪いと思ったけど、こんなことをさせてもらっているのよ」
理屈だけを聞いていれば、何とも身勝手な話であるが、静香もまんざらでもない気持ちになっていることで、今後悔した思いが何だったのかというくらいに落ち着きを取り戻した気がした。
落ち着きを取り戻した原因が、目を開けたことにあるのか、それとも詩織さんに話しかけたことにあるのか、どっちなのか自分でもよく分からなかった。
だが、詩織さんから褒められていると思うと自然と顔が赤くなっていくのが分かる。その表情を自分でも見てみたい気がしたが、この状態ではどうにもならない。しかし、今までに、
「自分の顔を見てみたい」
などと思ったことはなかったのを思い出した。
逆に。
「自分の顔なんか見たくもない」
と何度思ったことか。
それは自分の顔を見ることへの恐怖から来ているのだろうが、自分の顔を見て、何を恐怖に感じるというのか、静香はよく分かっていなかった。
ただ、それも自分で覚えていないだけで、自分の顔を見てみたいと思ったことがなかったとどうして言えるだろう。
――記憶に残っていないから?
そんなものはたくさんあるではないか。
むしろ記憶に封印してしまったことの方がどれほど多いか、思い出したくないと言って封印したこと、そのすべてが、何かをしたくないという思いだったとどうして言い切れるというのか、静香はそれを思うと、自分が何を考えているのか、迷走していることを感じるのだった。
詩織さんが、
「私にはない何かを感じた」
と言ったが、それは何であろうか?
逆はよく感じていたが、まさか自分にしかないいい部分があるなど思ってもみなかったので、意外だった、ただ、それも普通であれば考えようとはしないことではないだろうか?
尊敬している相手がいて、自分よりも優れているところを探して、自分との位置関係や距離を測ろうとするのは、無意識のことかも知れないが、潜在意識がさせることなのかも知れない。
詩織さんは自分にはないと言ったことを、実は詩織さんが誤解していて、そのことを詩織さんの中に静香は感じているのかも知れない。
いや、それこそが静香の誤解であり、詩織さんの思っていることが正しいのかも知れない。
その結果、事実によって、二人が考えていることがまったくの正反対を示すとすれば、これは不可思議な幾何学模様を描いているかのように見えるが、力学的には辻褄のあったことだとも言えるだろう。
目に見えている事実と、目に見えない事実との間で、芸術的な模様と、さらに力学的なものがまったく違った様相を呈していると考えると、静香はこの世界へいざなった詩織さんのアロマがまるで手品か魔法のように思えてならなかった。
――やっぱり詩織さんは、私なんかの想像をはるかに超える何かを持っているのかも知れない――
と感じた。
詩織さんは、静香の考えていることをしてくれると思っていた。身体が欲していることを的確に捉えてくれるはずで、ピンポイントな攻撃はきっと以前、お姉さんから教えられたものであろう。
静香はそのつもりで身構えていたが、なかなか触れてこない詩織さんに少し苛立ちを覚えていた。
心地よさというのは、身体だけに与えるものではなく、心にも与えるものだと思う。触れそうで降れない感覚はまさにその通りであり、想像力が妄想を掻き立てるのではないかと感じるのだった。
自分で自分の身体を撫でても、ここまでの快感を得ることはできない。自分のことを、
「不感症なんじゃないか?」
と思ったこともあった。
自慰行為というものがどういうものなのか、本やネットの知識で得ることができたが、実際に触って感じられるものでもない。彼氏がいて、彼氏に触られればまた違うのだろうが、それには静香の中にあるトラウマを解消させなければそれを得ることはできないのである。
だが、太ももの内側だけは違っていた。ここは自分で触っても快感を得ることができる。ただ、身体が反応するほどのものではなく、心地よさを感じるのであって、まるでアロマ効果のようなものだという意識があった。
そのうちに感じるようになったのは、
「触れるか触れないかの快感」
であった。
太もも以外の場所でも、触れるか触れないかの快感を得られるようになったのは、いつの頃からだろうか。確かお風呂に入った時ではなかったかと思ったが、お風呂に浸かっていて、身体が火照ってきているのを感じた時、同時にのぼせてきているようだった。
意識は朦朧とし、その時、何かの匂いを感じた意識はあったが、記憶の中には残念ながら残っていない。残像すら残っていないのは、記憶として封印される方に行ってしまったのではないかと思ったからだった。
匂いを嗅いだという意識は確かにあった。しかし、その匂いを思い出すことができないというのは、封印する方の記憶であって、それは決して消えるものではないと思えたのだった。
お風呂での匂いなので、シャンプーだったりボディシャンプーのような匂いなのかと思ったが、どうも違っているようだ。これは後になって思い出したことだったが、この時と似たような記憶を思い出した。
それは雨の日のことであったが、ちょうどマンホールの上を歩いてしまったのか、足を滑らせて、お尻から尻餅をついて、ひっくり返ってしまったことがあった。その時に身体がビクッと反応し、ビックリしてしまったことで、息を思い切り吸い込んでしまった。
吸い込んでしまった息を吐きだすのも忘れてしまうと、その時に匂いを感じたのだ。
その時も、
「どこかで嗅いだことがあるような匂いだ」
と感じたのを思い出した。
その時は、それが何の匂いだったのかすぐに分かった。それは、雨が降る予兆のあった時で、
「まるで石をかじったような感覚」
に近かった。
石を意識して齧ったことはなかったが、小さかった頃、走っていて、そのまま前のめりにつんのめってしまった時、顔から滑ってしまった影響で、前歯を折ってしまうというけがをしたことがあったが、その時に、アスファルトで思い切り顔をこすったことで感じた匂いだったというのを記憶している。
――あの時の匂いだったんだ――
と思うと、石をかじったという意識も無理のないことのように思えた。
その匂いを思い出したことで、
「きっと意識を失う前だったり、息を大きく吸い込むようなシチュエーションの時に感じる匂いなんだ」
と感じたのだった。
静香は、風呂場で気を失いそうになったのぼせた時を思い出したことで、あの時の匂いも石をかじったあの時の匂いに似たものを思い出したのではないかと感じた。
――匂いには、何らかの関連性がある――
とも感じた。
思い出せる思い出せないは別にして、一度感じたことがある匂いが、別の時に感じた匂いを思い起こさせるのは、そういうことなのであろう。
静香はこの場所でヘリオトロープの香りを嗅ぎながら、別のことを意識しているうちに、それ以外の匂いを思い浮かべていた。
そもそもヘリオトロープの匂いは詩織さんの身体から滲み出ているものであって、何かの媒体を介しているわけではない。この匂いも、この部屋を見ている限り、何かの匂いというわけではなく、滲み出てくるものではないかと思えてきた。
――一体、どこから匂ってくるものなのだろう?
と思ったが、匂いの元はすぐに分かるようなものではなかった。
匂いが入り混じっているのだが、二つの匂いが一緒に混ざり合っているというわけではなく、別々の匂いがそれぞれに感じられるかのごとく、時間差ができていた。ただ、それぞれの時間差に結界のようなものがあり、匂いを意識してしまうためか、匂いをお互いに打ち消してしまうことで、感覚をマヒさせるような錯覚を覚えるのだった。
石をかじったような匂いを意識してしまったことで、もう一つの匂いが何なのか分かるような気がしてきた。
「そうだ、何か中国を思わせるそんな匂いだ」
と思うと、ふと頭をよぎったものがあるのに気が付いた。
それを逃そうとせずに思い出すことができると、その匂いがお香の匂いであることに気が付いた。
「お香の匂い?」
それは自分をトラウマに陥れたあのかつての思い出したくもない記憶ではないか。
なるほど、お香の香りだと言われれば確かにその通りだ。お香の香りを感じると、さらにヘリオトロープの香りまでもが強く意識されるのを感じた。
このお香も、お香の種類までも分かりそうな気がしたが、それが自分の記憶の中にあるのかどうかもハッキリしなかった。
「何か、お香の匂いが……」
と静香は思わず口にしてしまった。
するとどうだろう? それを聞いた詩織さんは、休むことなく静香の身体を這いまわって愛撫を重ねていた指の動きがピタリと止まってしまった。
「お香の匂い、感じたの?」
と聞いてきたので、
「ええ、お香の匂いって、こんな感じなんじゃないかしら?」
というと、
「そうね。でも、これがどんなお香なのかまでは分からないでしょう?」
「ええ」
「お香にもいろいろ種類があるのよ。このお香は丁子の匂い、いわゆる丁子香と呼ばれるものなのよ」
「丁子香?」
「ええ、クローブとも言われている木の実の匂いと言えばいいのかしら? 香辛料としても使われているから、調べればいいわ」
と言われ、確かにクローブと言われると、それが香辛料であることは知っていた。
丁子香という言葉、初めて聞いたわけではないような気がした。あれはどこかで聞いたような響き、実際に誰かから聞いたのか、それとも本か何かに載っていたのを見たのか、自分でもすぐには思い出せなかった。
だが、冷静に思い出してみると、それが本を読んだ時に出てきたのだということが間違いないような気がしてきた。それが恋愛小説だったのか、それともミステリーだったのか覚えていないが、静香がよく読む小説としては、恋愛小説か、ミステリーだったりする。どちらもあまり関係がないような気もするが、読んでみると、結構重なってみれるところもあって、興味深いものだった。
小説を読んでいると、ミステリーにも恋愛小説にも、香りがテーマになっていることも多かったりする。以前読んだ小説で、SF風の小説にも匂いが絡んでいたが、逆にSF系の方が匂いをテーマにしやすいのではないかと思えてきた。
「丁子香って、聞いたような気がするんだけど、どんなものだったのか、思い出せないのよ。でも、私が丁子香を感じているというのを、よく分かりましたよね?」
と聞いてみると、
「丁子香の匂いなら私も感じるからね。時々このお部屋で感じるのよ」
「じゃあ、ヘリオトロープの香りは?」
「それは自分の匂いなので、自分で嗅ぐことはないんですよね。一度嗅いでみたいと思うんだけど、きっと自分の顔を鏡などの媒体を通さなければ見ることができないというような感じに似ているのかも知れませんね」
静香は詩織さんの腕に抱かれながら、その話を聞いていたが、その根拠になるものをすべて得たというわけではない。逆に疑問が増えたと言ってもいいだろう。特に丁子香と呼ばれるお香の香りがなぜここでしてくるのかが疑問だった。
詩織さんの話を聞いていれば、詩織さんが自分で用意しているものではなく、彼女も時々感じているもののようだ。その香りを丁子香だと分かったという理由もハッキリとしない。自分で作った匂いでもなければ、なぜそれが丁子香の香りだと言い放つことができるのだろうか。
丁子香の匂いというのは、普通のお香とは違うような気がした。これも今思い出したことであったが、昔に読んだ小説の中に書いてあったような気がする。しかも、昔に読んだ時、それをさらに昔の小説だという意識で読んだことだった。きっと昭和の初期の頃だったのかも知れない。今の時代では耳にすることのないものが、言葉として出てくるのは、時代背景にも印象が深かったからではないだろうか。
丁子香の出てくる話は、確か探偵小説だったような気がする。ヘリオトロープも確かミステリーだったような気がしたので、同じ頃に読んだ別の小説だったのかも知れない。しかし、作者は同じだったような気もするが、あの頃の探偵小説家で今も本が発売されているような作家は数も少ないので、ほぼ間違いないのではないかと思えた。
ヘリオトロープにしても、丁子香にしても、どんな場面だったのかおぼろげの記憶しかないが、どちらかは殺害現場に残されていた匂いだったのではないかと思う。どちらかというと丁子香の方がありえそうだが、静香としては、ヘリオトロープの方であってほしいような気がする。
彼女が読んでいたミステリーというのは、殺人や犯罪を美化するところがある耽美的な小説が多かった。犯罪であれ何であれ、美というものを一番に考え、美の志向主義とでも言えばいいのか、猟奇的な殺人への美徳かとも言える。
昭和初期にはそんな小説が多かった。一種の「変格探偵小説」と言われるもので、謎解きやトリックなどを重視したいわゆる「本格探偵小説」とは一線を画していたのだった。
本格探偵小説もいいのだが、この時代の王道というと、変格探偵小説の方がふさわしく、美を司るという意味で、香りなどを題材にするのも一つの高度な作法と言えるのではないだろうか。
静香の頭の中では、昭和の古き良き時代が巡っていて、今の状況を耽美主義のように感じているのに気付いていた。
女性が女性を美しいと思うのは別におかしなことではない。最近では、BLなどと言われる男性同士の恋愛物語やマンガが同人誌などでよく描かれているようだが、女性同士というのは、美しさしか思い浮かばないのは、静香の中で小学生の頃の記憶があるからだろうか。
詩織さんが、お姫様のようなお姉さんと、そんな関係であったのかどうか分からないが、詩織さんの中からヘリオトロープの香りを感じさせるのは、ひょっとすると、お姫様のようなお姉さんが、ヘリオトロープを使っていたからなのかも知れない。
もし静香の想像している通り、そのお姉さんが死んでしまっていて、そのことを詩織さんが知っているのだとすると、ヘリオトロープの香りはそのお姉さんの、「遺産」のようなものであり、彼女にとっては「遺言」に似たものだと言えるのではないだろうか。
お姉さんが死んでしまったことで、詩織さんは、その匂いがお姉さんであるという意識が離れず、
「もういないんだ」
ということを意識しながらも、いなくなってしまったことを受け入れることができず、それを思うがあまり、匂いを自分の身体に漂わせるような力を得たのだとすれば、オカルトっぽい話ではあるが、それなりの辻褄は合っているような気がする。
ヘリオトロープの香りについては、若干説明できない部分はあるが、納得できるような気がする。しかし、丁子香に関しては納得がいくわけでもなく、説明もできない。それを思うと、この二つの匂いが入り混じっているのは、すべてが詩織さんの影響であると言えないのではないだろうか。
――となると、この私?
静香は、丁子香の出所を自分だと思うようになっていた。
ただ、その根拠は何もなく、
――もし、詩織さんが原因であるとすれば、ヘリオトロープと同じ環境で出てくることはないのではないか――
という思いからであった。
もちろんこれは静香の思い込みであり、根拠など何もない。詩織さんにも分からないことだろう。
ただ、詩織さんにも丁子香の匂いが分かったということは、詩織さんが自分を誘ったのは、少なくとも丁子香の香りを感じる後だったように思えて仕方がなかった。
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