第4話 ヘリオトロープの香り

 詩織の言っていた、「今度」というのは、あっという間に訪れた。翌日に電話が入り、その日シフトで入っている静香の仕事が終わってから、一緒に夕食を摂ることになった。別に名目などは何も必要ではなかったのだが、

「静香ちゃんの歓迎会」

 という名目だった。

 もちろん、お店としての歓迎会は別にやるのだが、二人でやる歓迎会というところに意義があるということでの名目が、詩織には必要だったということである。静香に異論があるわけではなく、却って名目をつけてくれる方がありがたかった。違和感を抱かずによかったからである。

 その日の詩織はいつもの可愛らしいスカート姿ではなく、珍しくズボンを穿いていたその姿はいかにも凛々しく、背が高いだけに特に似合って感じられた。シャツの色はトレードマークの紫だったのも、静香を喜ばせた。

 それともう一つ気になったのが、何か甘い匂いを感じたことだった。

――何の匂いだろう?

 お店でもこの匂いを嗅いだような気がする。

 バニラのような甘い香りを感じた。お店ではどうしても他のお花の匂いと交ってしまうので、ハッキリとその匂いと限定してしまうのは難しかったが、初めての匂いではないのは確かだった。

 二人は、お互いのことを少しずつ話したが、その話は差し障りのない話に終始した。まだ歓迎会というだけ、知り合って間のない二人である。話が差し障りのないものになるのは当然のことである。

 詩織さんの方も育ってきた環境について少し話したくらいだったが、それは詩織を知ることができるまでの内容ではなかったが、知り合ってすぐにお互いの話をする最初という意味では適格な話だったに違いない。

 ただ、少し酔いが回ってくると、詩織さんがいきなりカミングアウトしてきたことに静香はビックリさせられた。

「私ね。実は性同一性障害じゃないかって思うのよ」

――性同一障害――

 話には聞いたことがあった。

 生理学的に、肉体は女性なのに、男性ではないかと、つまり肉体的な性別を自分で意識することができなくなるようなそんな話ではなかったか。

 実際にそのことで悩んでいるという人が身近にいるような話を聞いたことがあったが、

「私には関係のないことだ」

 として、一切かかわることをしなかったので、その人を無視していたと言ってもいい。

 元々、自分と性格が合わなかったり、話が合わないと思った人とは自分から遠ざかっていたところのある静香なので、無理もないことではあった。

 だが、そんな人がいるということで、その人自身というよりも、性同一性障害について少し調べてみたことがあったが、人間には、本能的に自分を肉体的な性別として意識をして、その性別の向上に勤めようとする意識を持っているものだという本能のようなものがあると認識していた。

 だが、人によっては、その自分の肉体的な性別に疑問を感じ、精神的には別の性別を欲しているということに気付く人もいる。

 しかし、世間一般としては、あくまでも精神と肉体の性は同じものだという意識があるので、性同一性障害に関しては差別的な見方をされることも多いだろう。

 ただ、それは自分の身体を自分のものでありながら、違う身体として意識してしまうという感情を、

「気持ち悪い」

 という意識で見てしまう人もいるからではないだろうか。

「世間一般、一般常識」

 なる言葉を静香がもっとも嫌悪しているのは、そんなところにも理由があった。

――人にはそれぞれの考えがあって、世間一般で一括りにはできない人もいる。そんな人を差別してしまい、排除することは私にはどうしてもできない――

 という感情であった。

 だがら、静香には詩織のカミングアウトを気持ち悪いとは思わない。むしろ、会ってまだ間がない自分なんかに、

「よく話してくれた」

 と、感動しているくらいである。

 静香も、その時、自分のトラウマについて話をしようかと思ったが、せっかく詩織さんがカミングアウトしてくれたのだから、自分の話で余計な着色を加えてはいけないと判断したので、その話はまた後日ということで、いずれ話すつもりとして、その日は封印しようと思ったのだ。

 詩織の身体から、その甘い香りをさらに感じたのは、カミングアウトの話を彼女が始めてからだった。

「私ね。中学生の頃だったか、近くに住んでいたお姉さんがいて、その人から好きだって告白されたことがあったのよ。今のように都会で育ったわけではなく、海の近くにある田舎町で育ったんだけど、その人は令嬢と呼ばれるにふさわしい人で、まるで西洋のお城に住んでいるお姫様という感じの白いドレスでも来ていると似合う感じのお姉さんだったの。その人は、別荘に住んでいて、どうやら何かの病気だったらしいんだけど、お姉さんが病気だったので、お父さんがその別荘を購入して、お姉さんの療養に使っていたというのね。医者もそういう田舎での療養が必要だっていう話だと聞いたわ」

 とそこまで言うと、詩織はビールに口をつけて、一口口に含むように飲んでいた。

 さらに話を続ける。

「そこには、一人の執事のようなおじさんがいて、中学生だった私が一人で学校から帰ってくるのを待ち構えていたようで、声を掛けてきたの。どうやら、お嬢さんのお友達になってほしいということだったんだけどね。私はそれが嬉しかった。別に怪しいという感覚はなかったし、きっとお姫様に憧れていたのかも知れない」

「執事がいるなんてすごいわね」

「恰好はいわゆる燕尾服だったので、勝手に執事と思い込んでいただけかも知れないけど、確かに別荘に行くと、そこにはメイド服を着た女性のお給仕をしてくれる人も結構いたので、本当にお城のお姫様って感じだったの。最初はまるで夢を見ているんじゃないかって思ったくらいよ」

 と、詩織は言った。

 確かに話を聞いているだけでは夢のような話だ。昭和の頃であれば、あったかも知れない話だが、詩織の中学時代というと、そんな昔のことではない。何しろ、自分とはそれほど年齢差があるわけでもない、ほぼ同年代と言っていい年齢ではないだろうか。

 そんな詩織がいうには、

「そのお姉さんの家には花壇があって、そこでたくさんのお花が飼育されていたの。お姉さんがいうには、自分が病気なので、動物は飼うことができないということで、それではということでお花でいっぱいにしようということになったそうなの。それを聞いてその花壇に行くと、まるで植物園に行ったみたいな、高級感と異国情緒のようなものを感じたわ。まさにその場所のイメージにピッタリきたという感じね」

 と言って、詩織さんは目を瞑って、その時の光景を思い出しているかのようだった。

 その時、また彼女から甘い香水の香りを感じた。

――これで何度目だろうか?

 と思ったが、話も途中だったので、意識を戻して彼女の話を聞いていた。

「その時に、私は紫色の花が思ったよりもたくさんあることに気付いたわ。その一本一本について説明をしてくれたわけではないけど、その時からかの知れないわね、紫という色が好きになったのは」

 そう言って、また瞑想しているかのような表情になった詩織さんだった。

 そんな詩織さんを横目に見ていて、やはりどうしても気になったので、思い切って聞いてみることにした。

「詩織さんは、今日何の香水をつけているんですか?」

 と訊ねると、詩織は一瞬我に返ったように、雰囲気が一変し、静香の顔を凝視した。

 その表情には、

――この子、何を言っているんだろう?

 とでもいうかのような不可思議なイメージを感じているかのような雰囲気だった。

 詩織さんは、頭を傾げながら、

「香水? 私は香水なんかつけていないわよ」

 という。

「えっ? そうなんですか?」

 と、静香が素っ頓狂な声で言ったので、詩織さんも不振に思ったのか、スルーすることができないと思ったのか、

「どういうことなの? 何の匂いがするというのかしら?」

 と聞いてきたので、

「何か、バニラのような甘い香りがするのよ。その香りは、初めて感じるものではなく、今までにも何度も感じたことのある匂いだったので、香水なのかなと私が勝手に思い込んだだけなんですけどね」

 と静香は言った。

 それを聞いて、詩織さんは少し考えていたようだったが、

「それ、私も以前同じことを味わった気がするわ。しかも、それは、今あなたに言われて思い出したんだけど、それがちょうど今お話しているそのお姉さんに関わることなのよ」

 というではないか、静香はますます興味を持って、話に聞き入っていた。

 詩織さんは話を続ける。

「そのお姉さんね。年齢的には高校生くらいのお姉さんだったんだけど、私にはかなりのお姉さんに見えた。大人のお姉さんという感じね。当時私は今のように大きかったわけではなく、小柄な方だったの。そうね、今の静香ちゃんくらいだったかしら? だから私もその頃までは自分が性同一性障害を持っているなど、想像もしていなかったの。それに比べてお姉さんの凛々しい姿は、結構背も高くて、真っ白いドレスをいつも着ていたんだけど、本当に似合っていた。毎回、ウエディングドレスを着ているような感じと言えばいいのかしらね。そんなお姉さんがある日いうのよ。『私は病気なので、こんなウエディングドレスを着ることができないかも知れないので、詩織ちゃんに私のウエディングドレス姿を目に焼き付けていてほしい』ってね。それを聞いて、私はものすごい重荷を背負ってしまった気がしたわ。でもなぜか嫌な気はしなかった。お姉さんがそれを望むのであれば、私は構わないと思ったのね」

 詩織の話に静香も目を瞑って聞いていて、見たことない光景であるはずなのに、不思議とイメージは湧いてくるのであった。

「私、その話を聞いて、このお姉さんこそ、ずっと生き続けてほしいと思ったの。このままおばあちゃんになっても、ずっとウエディングドレスを着ていてほしいというような思いね。でも、実際にはそうではなく、このお姉さんなら永遠に年を取らないような気がしたの。そう思うと、自分が今感じてしまったことを激しく後悔したわ」

「どうしてですか?」

 静香は詩織さんの回答は分かっていた。

 分かっていて聞いたのだ。

「それはね。永遠に年を取らない。つまりそこで命が終わるということを暗示しているからなのよ」

 その回答はまさしく静香の考えていた通りの答えであった。

 まるで詩織が、そのお姉さんの望みを見抜いていたような気がした。

「そのお姉さんは、自分が死ぬことを分かっていたのかしらね?」

 と静香がいうと、

「そうかも知れない。運命には逆らえないと思っていたのかもね。でもね、そう思えば思うほど、人間というのは、その運命の恐ろしさには逆らえないことがどういうことなのかを悟って、恐怖におののくものなんじゃないかしら? 私は時々お姉さんと一緒にいて、その表情が変わっていくのを感じたことがあるわ。まるでこの世のものではないような、満月を見て変身するオオカミ男であったり、昼と夜とでまったく違った性格を一人の人間が共有しているジキル博士とハイド氏のお話のようにね。だから、私もその時に自分の身体の中にある、別の性別に気付いたのかも知れない。でも私は男性としての性に気付いてもいたんだけど、決して女性としての性別を否定はしていないのよ」

 とまた不思議なことを言い出した。

「それは一種の多重人格のような感じなんですか?」

 と聞くと、

「そうかも知れないわね。ある時は女性になって、ある時は男性になる。それは憧れが嵩じたことなのかも知れないと思ったけど、お姉さんを知ってしまったことで、憧れだけではないような気がしたの。確かに自分の中に男性を感じるようになって、その頃から私の身体は大きくなっていって、どうかすると、骨格も男みたいに感じられる時があるくらいなんだそうで、学校で健康診断を受けたりした時など、先生が不思議な顔をすることもあったわ。そこで問診もあるんだけど、先生は思春期の相手にどこまで聞いていいのか分からないみたいで、却って戸惑っているのを感じるくらいになっていた」

「そうなんですね。ところで、そのお姉さんは結局どうなったんですか?」

 と敢えて話題を変えるように静香は言った。

「どうなったのか、実は分からないの。ある日突然、その別荘が売りに出されていて、お姉さんも執事の人もメイドさんも、皆さん煙のように消えてしまった。私はまるでキツネにでもつままれたような気がしたくらいになったんだけど、存在したのは間違いのないことなので、お姉さんはそのうち自分の前にまた現れるという感覚でいたわ」

 という詩織に、

「本当に?」

 といかにも信じられないという心境で静香は聞いた。

「ええ、本当よ」

 と悪びれもなく答える詩織を見て、

――これは疑う余地などなかったわ。余計なことを考えてしまって、詩織さんに申し訳ない――

 と感じたくらいだった。

 詩織さんの話を聞いていると、何か同情的な気持ちになってきた静香だったが。それは静香の生い立ちにも関係があるような気がつぃた。今まで家族の愛情というものをhとんど知らずに育ってきたと思っていて、しかも、友達らしい友達、ましてや親友などという者もおらず、男性に対してはトラウマがあるために、彼氏などはとんでもないと思っている。そんな静香だったので、詩織にはまるで実の姉のようなイメージを抱いており、その詩織がかつての自分の話をしてくれたということは、ひょっとすると自分に対して心を許してくれているのではないかと思うのだった。

 だが、詩織に対しての気持ちが果たして同情だったのだろうか? いや、そうでないことはこの後の気持ちを考えれば、同情だけでできることではないと言えるだろう。この後このまま食事が済んで帰るのかと思いきや、詩織は次第にモジモジとし始めたのを感じた。そんな女性を静香は今までに見たことはない。しかも相手はあの詩織である。

――私の前でこんな姿勢を示すなんて――

 という思い、同情だと思っていたことが、次第にいじらしさに変わっていった。

 どっちが姉の立場なのか分からない。

――そうか、今の詩織さんは、中学時代のあの頃を彷徨っているのかも知れない。ひょっとするとあの時に戻って、この私のあの「お姉さん」だと思っているのかも知れないわ――

 と感じた。

 この思いは、静香にも分からなくない気がしてきた。

――詩織さんは後悔しているわけではない。後悔というのは、自分が何かをしようとして、そのことに対してするものだ。詩織さんは何もしていない。何かをしようと思う前にそのお姉さんはいなくなったんだわ――

 静香も本当の後悔というのをしたことがない。例えば中学の時、襲われた時も、本当であれば、

――あんな道を通らなければよかった――

 と思うはずだが、そんなことを考えなかった。

 いや、考えないようにしていた。考えても仕方のないことだし、まわりの誰にも知られていない自分だけの問題なだけに、後悔などしてしまうと、その態度をせっかく隠しているまわりに知られてしまう可能性がある。

 まさに昔考えていた、

「足が攣る」

 という状況を思い起こさせる。

 どんなに痛くても、知られてしまい、余計なことをいろいろ勝手に想像されて、傷口に塩を塗るかのような状況を、自ら作り出してしまうことを恐れたのだ。

 その日静香は、何となくこのまま詩織と別れることをもったいないと思った。詩織が自分の前でモジモジしている様子を見る限り、その思いは一層強くなってくる。

「詩織さん、どこかで休んでいきませんか?」

 と思い切って静香は声を掛けた。

「じゃあ、公園のベンチにでも座りましょうか?」

 と詩織は言ったが、それは気を遣っての言葉だったのだろうが、

「いや、それは怖いの」

 と、反射的な拒否の姿勢をあからさまに詩織に向けた。

 モジモジしていた詩織だったが、それを聞くと急に真剣になり、

「どうしたの?」

 と聞いてきた。

 明らかに静香の様子がおかしいということに気付いたのであろう。もちろん、過去に何があったかなど、詳しく話すつもりもなかったが、少なくとも自分にはトラウマがあり、そのことで悩んでいるということだけでも分かってほしかった。ただこれは一方的な意識であり、勝手な押し付けであった。それでも、詩織には分かっているのか、何も聞かずに静香の手を引っ張るようにして、歩き始めた。

 無言のまま、どれくらい歩いただろうか、足は歩くのにだいぶ疲れていたことから、結構時間が経っているように思えたが、意識としてはあっという間だったような気がする。

――どこに連れていかれるのだろう?

 という思いが強く、

「さあ、ここよ」

 と言って連れてこられたのは、こじんまりとしたマンションだった。

 こじんまりとはしていたが、静香の部屋よりも一回り大きなところであった。

「ゆっくりしていってもいいのよ」

 と言って、リビングに導いてくれて、ソファーに腰かけるよう促してくれた。

 詩織自身は、キッチンに入って何か飲み物の用意をしてくれている。どうやら香りからすると紅茶の匂いのようだった。

――よく感じるような匂いだわ――

 と、静香は感じた。

 この香りには、濃厚さがあり、甘く繊細な感じがした。さっき詩織に感じた甘さとは少し違って、こちらの方が明らかに濃厚で、しかも懐かしさを感じる。

「熱帯のエキゾチックさ」

 という表現を後で調べた時に見たのだが、まさにそんな感じなのかも知れない。

 用意が整って、持ってきてくれた時、詩織さんがその匂いの正体を明かしてくれた。

「これはね。ジャスミンティーなの」

 なるほど、確かにジャスミンというのは静香が知っている印象としては、覚醒させてくれる香りだというものだった。

 濃厚で深みのある香りは、ホルモンバランスを整える力もあるという。少しお互いに話の内容が深かったこともあって、ナーバスになった心境をほぐす香りとしては、ちょうどいいのかも知れない。

 ジャスミンにはリラックス効果、幌門バランスを整える、さらに食欲促進というものがある聞いたことがあり。それをお茶として使うのであり、カフェインも含まれていることからの覚醒効果もあるのではないかと思っている。

 何といっても香りを楽しむお茶としての代表的なものなので、好きなお茶の一つでもあった。それを出してくれるというのは、ほろ酔い気分の跡ではありがたいというものであった。

 テレビをつけてくれたが、すでに深夜番組の時間に突入していて、本来であればもう帰宅しなければ最終電車もない時間であったが、二人にはそんなことは関係なかった。詩織も静香も、今夜は一人でいるつもりはなかったのだろう。そうでなければ、詩織も静香を自分の部屋になど招くはずもない。

 ジャスミンティーの香りが部屋の中に漂い始める頃になると、部屋に入れたクーラーがだいぶきいてきて、さっきまでの湿気が吹っ飛んでいた。

 湿気がある方が匂いは漂いそうだが、元々濃厚な香りだと思っているジャスミンに、さっきまでのほろ酔いが残っていることで、鼻の通りがよくなりそうな状態で、あるからこそ、乾燥してきた部屋でも、香りが十分に漂っていると感じるのだろう。

――これ以上酔っていたら、鼻が詰まっていたかも知れない――

 と思うほど、絶妙な酔い具合だったのだろう。

 こんなに酔い方が絶妙だったことは今までにはなかった。ひょっとすると、無意識に酔い方が上手になっていたのか、それとも詩織さんの酔いへの誘導が実によかったのかのどちらかであろうが、静香は後者だったような気がして仕方がない。

 私、このお部屋にお友達を連れてくることってあんまりないのよ」

 と詩織は言った。

「私も、お友達の家にお邪魔することもほとんどなかったので、何かすごく新鮮な感じがするの」

 という言葉が自然と出てきた。

「どう、ジャスミンティーの香りは?」

「ええ、リラックスできるわね。それに何か自分でもよく分からないんだけど、ドキドキするものを感じるの。何か、時間が刻まれているようで、その刻まれている時間に、それぞれの興奮が凝縮されているような、そんな不思議な感覚」

 興奮などという言葉を、今までむやみに口にすることなどなかった。

 むしろ興奮という言葉は敢えて封印してきたような気がするくらいだった。

――これが、ジャスミンティーの効果なのかしら?

 花屋さんに勤務するようになって、いろいろな花と接してきたが、花を植物として見てきたせいもあってか、このようにお茶としての香りであったり、アロマのような別の目的で使うということを、もっと勉強したいような気がしてきた、

 幸い、学生時代からの化学や生物学的な知識があるので、元々から造詣は深かったはずである。そう思うと、ジャスミンの香りに包まれている自分が、まるで今までの自分ではないかのように思えてきた。

――私って、こんなメルヘンチックなことを考える女の子だったんだ――

 と感じていた。

 女の子としても小柄で、自分に自信が持てなかった静香だったが、その意識のせいで好きになった化学や生物学、せっかくだから、もっと造詣を深めてもいいのではないかと思うようになっていた。

 ジャスミンティーを飲んでいると、詩織さんが少しずつ近づいてきた。それまで別に会話があったわけではない。会話がなくても成立する時間があることは分かっていた。詩織さんが何を考えているのか分からなかったが、静香は何を話していいのか、実は持て余していた空間だった。

 詩織さんも同じだったのかも知れない。何も言わずに静香の近くに座り、両手でティーカップを手に持ち、お上品にジャスミンティーをすすっていた。

 その時詩織さんは決して静香を見ることはなかった。目はティーカップに絶えず注がれていて、まるで何かの到来を待っているかのように見えたが、その到来と静香が何か関係のあるものだということをウスウス静香は感じていた気がした。

 要するにタイミングであった。詩織さんの方では静香にそのタイミングを推し量ってほしかったのだろう。しかし、詩織さんはずるい。ここは詩織さんの部屋であり、主導権は詩織さんが握っているはずなのだ。だから主導権は詩織さんにあるのに、最初の口火を敢えて主導権のない静香に切らせようとしているのだ。これをずるいと言わずに何といえばいいのだろう。

 静香が詩織さんの気持ちに沿うまで、それからあまり時間は掛からなかった。静香は詩織さんを意識しながら、口をティーカップに持っていき、詩織さんの様子を横目に見ながら、その様子を模倣するかのように、彼女がしている行動を逐次確認しながら、自分もそれに倣っているかのように行動していた。チラチラ静香が詩織さんの様子を眺めているのを詩織さんの方でも分かっているような気がした。なぜなら、詩織さんは静香が模倣し始めてから、胸の鼓動が激しくなったのが分かったからだ。

 静香も同じように胸が高鳴っているのを自分で感じることができた。胸の高鳴りが不思議な和音を奏でているようであったが、それは同じタイミングでの鼓動であるにも関わらず、その音は明らかに違っていた。静香の方が重低音で、詩織さんの方が甲高い音で、響きは中途半端な気がした。

 だが、それは静香が感じている感覚であり、詩織さんの方ではまったく違った感覚でいるのかも知れない。

 いや、まったく違ったというのは語弊がある。それは形式的なというか、音を出している立場に立ってみればということで、聞いている詩織さんの方では、静香と官学的に同じではないかという思いである。

 つまり、詩織さんは自分の胸の鼓動を重低音の響きに感じていて、目の前の静香さんの棟の鼓動を甲高い鼓動だと思っているのではないかということである。

 ひょっとすればまったく同じ音がしているのだとすれば、あとは、本人の棟の音と、他人の棟の音で違いがあるかどうかということになる。それは相手に確認しなければ分からないことで、静香のように科学に総計の深い人間は、本当は確認したくて仕方がない。

 ただ確認したとしても、それはあくまでも錯覚ではないかと言われればそれまでのことで、自分でも錯覚かも知れないという思いがあるから、これを確認することを戸惑っているのだった。

 胸の鼓動ばかり気にしていたが、静香はもう一つ気になることがあった。それはこの部屋に来る前に何度か感じた。あのバニラに似た甘い香りが漂ってきたからだ。さっきまでと少しだけ匂いの違いを感じるのは、静かな部屋で詩織さんと一緒にいて、胸の鼓動について考えているシチュエーションと、そして先ほどから漂っているジャスミンティーの濃厚な香りとが、静香の中で交錯しているからかも知れない。

 この三つの条件が揃っていることを、静香はまるで奇跡でもあるかのように思っていた。これらの条件が一つ一つでも、この部屋にいるというだけで、詩織さんがそばにいるというだけで、一足す一が二にも三にもなるのではないかと思える状況で、ここまで揃ってくると、本当に、

「夢を見ているのではないか」

 と感じたとしても、それは無理のないことのように思えた。

 指先に痺れが走り、さっきまで頭がしっかりしていて、しかもジャスミンがホルモンバランスを保たせるものであり、精神を落ち着かせるものだということを差し引いても、今の状況に静香は酔っていると言ってもいいかも知れない。

 これはアルコールによる酔いではない。ただ、かつてこの感覚を一度味わったことがあるかのように思えた。頭が朦朧としてきて、意識できるのはそこまでだった。

 すると、横で詩織さんがやっと静香を見つめて、何か言葉を発している。

「どう? ヘリオトロープの香り、するでしょう? これって、実は私の身体から出るフェロモンなんですって、自分でもビックリしたんだけど、私のかかりつけのお医者さんが教えてくれたのよ。これがあなたの特徴ですから、覚えておくといいわってね。その先生女医さんなんだけど、とても敬虔なお医者さんでね。その治療には尊敬や愛が溢れているのよ。私もすっかり夢中になっちゃったわ」

 静香さんはそういうと、立ち上がったようだ。それ以上は静香も意識が本当に薄れえてしまってその後は覚えていないのだが、意識が切れる前に思い出したこと、それは今のこの酔いが、中学の時にクロロフォルムで眠らされそうになった時、結局眠らなかったが、意識を失った時に訪れるはずの酔いだったということを意識したということだったのだ……。

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