第3話 お花屋さん

 中学時代の辛い思い出がトラウマとして残っていることはハッキリしている。ただ、その後町内や静香のまわりで、女性が襲われるという犯罪も、猟奇的な事件も起こっていないので、きっと静香に対しての犯行は最初で、その最初にしくじったことから、おじけづいてしまったのだろうか。もしそうだとすれば、静香の行動が的確だったとも言えるが、

「どうして私なんだ」

 という思いが却って残ってしまった。

 他の誰にも分かってもらえない心の傷を残してしまった。それを口にすることは許されず、きっと墓場まで持っていかなければいけないことであるのは明白であった。

 家族も信用できない、学校の先生も、クラスメイトも信用できるはずがない。誰も信用できないでいる少女を、誰が気にしてくれるものか。ただ、その方がいいような気もした。下手に余計な気を遣われる方が却ってきつい。足が攣った時でもそうではないか。

 足が攣る時というのはいきなりやってくる。

「痛い」

 と感じた瞬間にはすでに痛みで感覚がマヒしそうになっていて、今にも気を失いそうになるくらいだ。

 そんな時に考えるのは、

――誰も私を気にしないで――

 という思いであった。

 気にされてしまうと、余計に痛みがぶり返す。それは相手が気にしてしまうことで、心配してくれているのが分かると、その心配する気持ちがこちらに乗り移るのだ。

 相手は痛がっているこちらを見て、勝手な想像をする。痛くないのだから、痛いと思わなければ相手を心配することにならないので、分からない痛みを必死で想像してしまう。その想像が大きければ大きいほど心配そうな雰囲気に繋がってきて、余計に痛みを増幅させることへの伝染になってしまうのだ。

 このいわゆる、

「負のスパイラル」

 をどう表現すればいいのか、人と関わるということは、この負のスパイラルを誘発させることになると静香は思っていた。

「とにかく、放っておいて」

 と言いたい、

 人は自分の意見を相手に押し付けようとする。自分の考えていることが一番正しいという考えからだろうが、その反面で、自分が考えていることを信じられない自分もいたりする。だから、人に関わるということは、自分の考えの押し付けであり、

「余計なお世話」

 ではないかと思うようになっていた。

 そんなことをもし口にでもすれば、

「何様だと思っているのよ。せっかく皆が心配しているのに」

 と、こうなるだろう。

 しかし、誰が心配してほしいと頼んだというのだ。それをまた口にすれば、

「一人で自分の殻に閉じこもってしまっている」

 と言われるのがオチである。

 そんなことは分かっているのだ。分かっているから、余計なことは言わず、人と関わりたくないと思う。特に静香のように過去にトラウマが残るような出来事に遭遇していれば、仕方のないことであろう。

「ねえ、一体、私はどうすればいいの?」

 と本当なら誰か聞きたいところだが、それこそ誰に聞けばいいのだろう。

 片っ端から誰かに相談しなければ気が済まない人もいるが、たいていは嫌われる。それを分かっていても、相談しないと気が済まない。

 何をどうしていいのか分からないという人のほとんどは、自分のことを分かっているのかも知れないが、出てくる答えが分かっているだけに、何もできずに終わってしまう。ただ、これは誰にでも言えることで、このような感覚になったことのある人は、実際には結構いるのではないかと思う。

 今や静香は冷静沈着な女の子にはなっていたが、パッと見は、他の女の子と遜色ないほどの普通である。

「何を持って普通というのか?」

 という問題もあるが、大人になるにつれて、次第に落ち着いてきたのも事実であろう。

 トラウマというのは、普段は忘れているものであるが、急に何かのはずみに思い出し、それが極度の恐怖として頭に思い描かれるものをいうのだろう。日本語にすれば、

「心的外傷」

 と呼ばれるもので、よく言われるものとして、

「児童虐待、強姦、戦争、犯罪、事故、いじめ、コンプライアンスとして言われる、XXハラスメント」

 などが、その代表例であろう。

 静香の場合は、強姦、暴行にまでは発展しなかったが、犯罪の色は限りなく黒に近い、精神的なショックは計り知れず、少なくとも意識喪失の恐怖は目の前にあったのだ。

 ビンタもいくつか受けたような気がする。家に帰って、顔の傷に築かれないように気をつけた気もするし、二日間ほど学校を休んだので、傷跡を他人が知ることはなかっただろう。

 そういう意味では母親がずっと表で仕事だったことはバレずに済んだという意味でも、学校を休んだことについても、あまり気にされなかったのはよかったのかも知れない。娘としては実に皮肉なことではあるが。

 ただ、あの頃から友達に変なことを言われるようになった。

「あなた、何か臭うわよ」

 と言われた。

「えっ? どんな臭いなの?」

 と聞いても、

「何か酸っぱいような臭いがすることがあるの。本当にたまになんだけど、さっきも感じたような気がして、言おうかどうしようか迷ったんだけどね」

 と言われ、要領を得なかった。

――さっきと言われても、自分ではよく分からないわ――

 と思ったが、精神的な何かが、臭いを発するのではないかと思うようになっていたので、そのさっきというのを思い出してみたが、何かの臭いを発するような考えを思い浮かべたという意識はなかった。

 かと思うと、今度はまた別の時、別の友達から。

「静香さん、今日は香水でもつけてきたの?」

 と言われて、またしても、

「えっ?」

 としか答えられなかった。

「だって、甘い匂いがしてくるから。これって何の香りなのかしらね?」

 またしても、自分の身体から何かの匂いがしている。

 この時もたった今言われたことなのに、その時の心境を思い出そうとするが、思い出すことはできなかった。

――たった今のことなのに――

 と感じたが、結局は自分が感じたことが無意識である時に、他人が自分の匂いを感じるのだということを知ったのである。

 確かに、ふと我に返って、

――今何かを考えていたわ――

 と感じることがあるが、それが何だったのか、ハッキリと分からないことも多い。

 特に我に返った時など、思い出せる方がどうかしていると感じるほどだった。

 それにしても、甘い匂いにしても、酸っぱい臭いにしても、まったく自分で感じることができないのは、残念な気がした。別に自分の身体から匂いが湧いてでてくることに不思議はなかった。人間誰にでも、体臭というのはあるものだ。だが、急に口に出してその人に聞いてみるくらいなので、その臭いがある種の特徴のあるものであるということは分かる気がした。

 友達と言っても、親友と言える人は一人もいないので、逆に気を遣って、相手が傷つくかも知れないようなことには触れないものであろう。

 それを敢えていうというのは、それだけ酸っぱい臭いがたまらないと思っているからであり、逆に甘い香りを感じた人は、その香りの元をどうしても知りたいと思うほど気になったものなのではないだろうか。

 聞かれたことに曖昧にしか答えなかった静香に対して皆はどう思っているだろう。

――しょせん、友達なんかじゃないから、その程度にしか見ていないのよ――

 と感じているのではないだろうか。

 それを思うと、寂しいという感情よりも、一人がいいという感覚を選んだことが間違っていなかったのだと感じてしまう。

「人と同じでは嫌だ」

 この感情は、いつまでも付きまとってくるが、これは万人が持っているもので、ただ、表に出すか出さないかだけの感覚ではないかと思えてならない。

 静香は高校を出て、近くの花屋さんでアルバイトを始めた。就職も考えたが、思ったような職もなく、そんな贅沢を言える立場ではないのだろうが、どうしても男が中心の普通の会社は嫌だった。ちょうど高校の時の知り合いが、家の近くの花屋さんが店員を募集していると教えてくれた。面接に行くと、相手も静香を気に入ってくれたらしく、二つ返事でオッケーしてくれた。ただ気になったのは、お花に対しての知識はほとんどないので、そのあたりが気になったが、

「大丈夫。前にいた子も最初はまったく知らなかったんだけど、その子もすぐに覚えて慣れてくれたわ。お花が好きならそれだけで十分、ちょうど今私以外は一人だけなので、配達に出てしまうと一人になるでしょう? しかも二人でやっていると、お休みもなかなか取れなくなるので、時間で知り合いを臨時にお願いしたりして、何とかもってきたの。そういうことなので、心配はいらないわ」

 と、女性の店主さんはそう言ってくれた。

 このお店は夫婦でやっているようで、奥さんが店主で、旦那さんが社長のような感じであった。

「俺は社長と言っても、仕入れとか配達の助手とかそんな感じだよ」

 というと、奥さんが横から、

「いえいえ、経理全般から広告や営業まで全部やってくれるので、本当に助かるわ。表には私が出て、裏の仕事は皆亭主がやってくれるという感じですね」

 と奥さんは言った。

――結構、うまく行っているんだ――

 と二人の雰囲気を見て、それだけで安心した静香だった。

「もう少ししたら、もう一人の女の子が来るわよ。彼女もあなたより少しだけ年上というだけなので、きっと仲良くできると思うわ」

 と、言っていると、それから十分もしないうちに、

「お疲れ様です」

 と一人の女の子が入ってきた。

 どうやらその子が、もう一人の女の子のようだ。

「店長、この子が新しい子ですか?」

 と彼女がいうと、

「ええ、仲良くしてあげてね」

 と二人の間ですでに話しは済んでいるようだった。

「初めまして、定岡詩織です。よろしくね」

 と言って握手を求めてくれた。

「朝倉静香です。これからよろしくお願いします」

 ニッコリと笑って握手をしたが、詩織と呼ばれた女の子は、静香が小柄なので特に大きく見える。

 実際にも結構背が高くてスリムなので、余計に背が高く見えた。

――羨ましい。やっぱり女性でも背が高いと恰好いいし、かしこく見えるものだわ――

 と思った。

 高校時代までは背の小さな女の子ばかりしか意識したことがなかったので、急に二人で若い女の子が二人の職場で、相手は背が高いと思うと、違和感を感じないではいられなかった。

 おでこを少し出していて、その様子が大人っぽさを感じさせた。長い髪を後ろで結んでいて、その雰囲気が顔を小さく見えて。格好いいという雰囲気を感じさせるのだろう。小さくてちんちくりんだと思っている自分だったが、彼女と一緒にいるというだけで、何か誇れそうに思うのは、今までに感じたことのない思いだった。

――人と一緒にいることで自分が誇れるなんて――

 人は人、自分は自分だと思っていたあの感覚は何だったのかと思わないでもない。

 だが、彼女には最初から備わっている謙虚さのようなものがあった。それは自分はおろか、今まで自分のまわりにはまったくいなかった人種である。

「まったく違う人種」

 と言ってもいいくらいの存在だった。

「お年はいくつなの?」

 と聞かれて、

「今年高校を卒業したばかりの十八歳です」

 と答えると、

「私は今年で二十歳になったところ、この間、成人式だったんだけどね」

 と言って笑っていた。

――成人式というと、一月ではないか、私からすればかなり前のことのように思えるんだけど、詩織さんくらいの年になると、まるで昨日のことのように感じるくらいになるのかしら?

 と感じた。

 それは、高校時代までの毎日と、バイトとはいえ、職についてからの毎日との違いによるものなのだろうか?

 静香はそれを思うと、明日からの毎日と、昨日までの毎日を比較してみないではいられなかった。

 昨日までの毎日、といっても、高校時代の毎日のことであるが、考えてみれば、何もない毎日だったような気がする。大学受験をするわけではなく。

――あんな身を削るような努力私にはできないわ――

 と思っていたほどで、傍から見ているだけで、こっちの神経がすり減ってしまいそうに見えた。

 だからと言って、大学に行きたくないというわけではない。静香は女性としては珍しく、理数系の科目が得意だった。特に化学や物理などは興味を持って勉強していた。それに類して生物学にも造詣を深めたが、まさか花屋の店員さんになるなど思ってもみなかった。

 面接の際にはそのことは言わなかったけど、少しくらいの科学に関係のある花の種類や特徴くらいは分かっているつもりだった。

 今でも、家には、科学関係の本がいっぱいある。そこにこれから花に関しての本が揃っていくのだろうと思うと楽しみだった。

 花屋というと、赤い色がトレードマークというわけで、エプロンも赤いものを用意してきた。

「よく似合っているわ」

 と言われたが、

――お世辞かも知れない――

 と思ってしまうのは、静香の悪い癖でもあった。

 詩織のエプロンは紫色だった。

「珍しいですね」

 というと、

「私紫色って好きなのよ。コスモスやラベンダーなどの花が好きだったりするので、それで紫が好きになったのね。コスモスもラベンダーも畑のようになっているところで見ると本当に爽快よね、あれを見ると忘れられない色なのよ」

 と言って詩織さんはうっとりしている。

「そうですね、アジサイなどもそうですよね。そうやって考えると、それぞれの季節で紫を代表する花があるような気がしますね」

「ええ、その通りなの。それに私が紫を好きな理由はもう一つあるのよ」

「それはどういう理由なんですか?」

「赤、青、黄色って、これらの色は原色と言われているでしょう?

「ええ」

「これは私の私見でもあるんだけど、紫というのは、よく言われているのは、赤と青を混ぜて作るように言われているでしょう? でもね、原色にもいろいろあって、紫も原色として考えることもできるのよ。つまり、紫というのは、原色でもあって、原色同士を混ぜて作る色でもあるのね。それを考えると、紫って色は素晴らしいんだなって思うようになったの」

 静香はなるほどと思い、返事をするのも忘れて、感心していた。

 なるほど、科学的には彼女の言う通りであり、自分はそれを当たり前のことだとしてしか考えなかったであろう。

「見逃していたことも今までにたくさんあったのではないか」

 と感じさせてくれたことを思うと、

――詩織さんとは、お話が合う初めてのお友達になれそうだわ――

 と思った。

 詩織の雰囲気は実に活動的で、どちらかというと、引きこもりに見られがちの静香が、変わることができるとすれば、今ではないかと思えてきたのだ。

 紫色については、静香ももちろん嫌いな色ではなかった。元々原色が好きで、小さい頃は真っ赤が好きだったが、初潮を見てから、赤を嫌うようになった。その反動からか、青を気に入るようになって……、考えてみれば、紫はその赤と青の混合色でもあるではないか。

 そんな静香がここで真っ赤なエプロンというのは、おかしいと思われるかも知れないが、赤が嫌いになったわけではなく、

「赤には赤の似合うその環境がある」

 と思っているのだった。

「静香ちゃんは、赤が好きなのね?」

 と言われて、一瞬考えたが、

「ええ」

 と答えた。

「私は赤が前は好きだったんだけど、最近は落ち着いた色を好むようになったのよ。どうしてなのかしらね?」

 と言ってきたので、静香も少し考えたが、

「私も前は赤が本当に好きだったの。でも何か血の色って気がして、ちょっと避けるようになったんですよ」

 と、正直に言ってみた。

「そうなのね。私も色に対しては、いい面と悪い面の両方があると思っているの。それはどの色に対してもそうなんだけどね。だから、赤が好きだと言いながらも、あなたと同じように、真っ赤な血をイメージしている自分もいるのよ。でもね、赤い色ってどこにあっても目立つのよね。憧れとでも言えばいいのかしら? だから、嫌いな色として見たことがないわ。考えてみると、色の中で嫌いなイメージを感じさせない数少ない色が赤だって思っているくらいだわ」

 と、詩織さんは言った。

「じゃあ、詩織さんが好きだって言っていた紫はどうなんですか?」

「紫も実際には嫌いなところがあるのよ。例えば下着なんだけどね。私は紫色の下着ってどうしても好きになれないの。ブラウスとかドレスで紫色というのは好きなんだけどね。どうしてそうなのかって、自分でもよく分かってないわ」

 という。

「色って、私も今までにここまで真剣に考えたことはなかったと思うんだけど、でも考えてみると奥の深いものに思えてならないわ」

 と、静香がいうと、

「ええ、その通りなの。私は形から色を想像したり、色から形を想像することも多いのよ。それって発想としては結構面白いことだって思うんだけど、どうなのかしらね?」

 と詩織さんは言ったが、正直この言葉の意味は、静香にはいまいち分からなかった。

 色を想像するのは確かに形からもできるが、色から形を想像することはなかなかできない。その理由は、

「形には目で判断できる全体像があるけど、色にはそもそも形がないので、それを全体像として思い描くことは無理な気がする」

 というものだった。

 それを少し話すと。

「形があるものって、必ず壊れるっていうじゃない。でも色は褪せることはあっても、壊れるという発想はないというのが私の思いなんだけど、おかしいかしら?」

 どうも、話をしていて、詩織さんとどこか噛み合っていないように思えた。

 だが、詩織さんの方ではかなりの饒舌で、どうやら静香の話を理解しながら話を進めているようだった。

「人にはいろいろな考え方があって、最初からすべて歯車が噛み合うというのは難しいことなのよ」

 と、高校時代の先生が言っていたが、あの時の言葉を思い出して、

――こういうことが言いたかったのか――

 と思っていた。

 色にしても形にしても、抽象的なものであるのには違いないと思う。話の中だけではまったく違うものを想像してしまってもしょうがないことだろうし、ハッキリとそのものを限定してしまわない限り、これは交わることのない平行線を描いているだけにしか過ぎないだろう。

 そんなことを考えていると、詩織さんという女性を見ていて、

――何となく初めて会った気がしないのは、気のせいだろうか?

 と思えてきた。

 こんなに大人の女性を見るのは初めてだし。実際にここまで背が高くてスラッとした女性も初めてである。今までに会ったことがあったかも知れないなど、想像としても、かなりの奇抜な気がした。

「静香ちゃんは、小柄で本当に可愛いわね」

 と言って、髪を撫でてくれたが、この感覚も何か懐かしいものがあった。

 だが、懐かしさよりも、今の状況を楽しみたいと思っている自分がいるのも事実で、

「詩織さん」

 と思わず、漏らした声が、堪えていた声が我慢できずに漏れてきたという、そんな雰囲気に感じられた。

 それから数日間、詩織さんからの教育が始まった。いろいろ教えてもらっているうちにかなり打ち解けてきたような気がしたが、自分では何かおかしな気がしていた。

――詩織さんとは、最初から打ち解けていた気がしたのに、それでもまだまだ打ち解けていく感じがあるのは、最初から勘違いしていたからなのか、それとも、打ち解けるという感情が果てしないものなのか、どっちなんだろう――

 という思いであった。

 こんなに人のことが深く果てしなく感じられるなんて初めてだ。

 いや、初めていうのはおかしい。逆に恐ろしさが果てしない感情を持ってくるというのは、今までに何度かあった気がする。

 本当は最初で最後のはずのあのトラウマを生んだ。暴行未遂事件が静香の中で一番果てしない人間の深い部分を感じさせていたように思う。ただそれは相手の怖さではない。あくまでも自分というものの奥にあるものが果てしなく、そして怖いものだった。

 ということは、、今回感じている詩織さんへの今までに知らなかったはずの、何度も感じたことがあった感情も、自分の中を見ているということになるのではないだろうか。

 それを思うと、静香は詩織という人間を介することで、自分の奥を見つめようとしているのかも知れない。

 最近までずっと学生だったので、初めて働くという環境を、自分がどんな気持ちで迎えることになるのかということを、こわごわと感じていた。

 今までも静香は、こわごわと感じている時は、逆に楽しみな感情が表に出ていた。楽しみな感情が表に出るからこそ、怖さが滲み出てくるのだ。この感情は別に珍しいことだとは思わない。他の人にもあることで、その大きさは人によって、まちまちなはずではないだろうか。

 何がそんなに怖いのか、そして怖がるということは、楽しみの裏返しであり、楽しみな時ほどドキドキするのは、それだけ恐怖を裏側に持っているからではないだろうか。

 静香は、詩織と一緒にいながら、ドキドキしたものを感じていた。それは詩織も自分に対してドキドキしているのが分かるからだ。詩織は何も言わないが、それはきっと静香が何も言わないからだろう。詩織を見ていると、彼女は相手が何かを言わないと、自分から言い出す方ではないような気がする。

「詩織さんという女性は、相手が何か行動を起こさないと自分からは動かないというそんな積極性を持っているのではないだろうか?」

 と感じた。

 矛盾しているように思うが、相手に最初の一手を打たせておいて、その状況を見ることで自分が何をすればいいか把握することで、思い切り積極的になれるタイプの女性ではないだろうか。

 最初から自分の直感で積極的になれる人も確かにいるが、それは裏を返せば無鉄砲であり、自分で責任を取ることのできない、無責任な人間ではないかと思う。

 気持ちのキャッチボールは必要だが、最初に投げてくれたボールを、自分が支配するというのも、これほどしっかりした積極性もないような気がする。

 詩織さんという女性にそんな積極性を感じると、

――この人についていってもいいと思える人ではないだろうか――

 と思えてきた。

「詩織さん、今度一緒にご飯でも行きませんか?」

 詩織に対しての第一球目のボールだった。

「ええ、いいわね、何が好き?」

「一度焼き鳥屋さんのようなところに行ってみたいんですけど」

 というと、

「うん、いいわよ。静香ちゃんは覚えもいいし、私はとても助かっているわ。ご褒美をあげないと思っていたくらいなのよ」

 と言ってくれた。

――まるでお姉さんのようだわ――

 肉親に対しては、ほとんど愛情を感じたことなどなかった静香だったので、兄弟がほしいなどと思ってはいけない人間なのだと思っていた。

 それなのに、こんな身近で血の繋がりなどまったくない人に、こんな感覚になるなどなかったことで、

――血の繋がりって、何なのかしら?

 と、真剣に感じるようになった。

 本当の肉親というのは、相手に気を遣うことのないお互い寄り添うことのできる人であり、その感情は不変のものだという感覚があった。

 静香の思い込みが激しいからなのかも知れないが、それだけではないような気がする。思い込みというのは、一つの感情であっていいはずだからである。

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