魔王様は空腹
いりさん
第1話(魔王サイド)
つまるところ、魔王は空腹であった。
話の骨組みだけを見れば、それはよくある物語だったように思う。
魔王が現れ、それを勇者が倒した。——ただそれだけの話。
ただ一つ異を唱えるとすれば、魔王には倒される理由など何ひとつ存在しなかったということだ。
魔王は国を愛し、民を愛し、民のために尽くし、人に危害を加えることもなく、正しく夜の国を統治していた。
賢王と魔物たちは彼を讃える。一方で人間たちは彼を倒すべき悪だとして勇者を送った。
そういうわけで、魔王は抵抗虚しく勇者に討たれた。
善良王とも称される魔王は、勇者との話し合いの時間を設けることにした。
しかし、勇者は聞く耳も一切持たず、ただ一太刀で魔王のツノをへし折り、そして魔王の胴を貫いた。
さて、そんなわけで魔王を倒した勇者はそのまま国へ帰り、英雄として称えられましたとさ。
めでたしめでたし——といったところで話は全く終わらない。
むしろ、この物語はここから始まる。
歴史は勝者が作るものだが、視点が変われば世界もまた別物となるのだから。
つまるところ、魔王は空腹であった。
魔法を使うには魔力が必要となる。
そしてその魔力の源とはマナである。
マナとはすなわち自然界のありとあらゆるものに付随し——要するに手っ取り早くまとめると、カロリーがなければ魔法を使うことはできないのだ。
勇者に大怪我を負わされた今、魔王は持てる限りのカロリーの全てを使ってその怪我を治し、そして空腹に悩まされていた。
勿論、敵襲を見越して城には数々の備蓄を用意していたが、それらの大半は勇者に燃やされてしまった。
そして、魔王は残ったわずかな備蓄さえも傷ついた民のために使い果たしてしまっていたのだ。
魔物たちは彼を『善良王』と讃える。
同時に「あの優しさはいつか御身を滅ぼすのではなかろうか」と心配もしていることも書き添えておく。
そういうわけで、とにかく魔王は空腹であった。
やっとのことで立ち上がり、魔王は腹をさすりながら周囲を見渡す、かつて美しかった城内は見る影もなく荒らされており、あらゆるものが瓦礫の山に埋れてしまっていて、それは見るも無残な姿だった
ひどく嘆き楽しんだ魔王は残っていた魔力を使って死傷者の数を確認した。
幸いなことに勇者は魔王を一直線に目指していたらしく、城下に死者は出なかった。
不幸中の幸いだとは思った。
思ったところで、彼はまた空腹を思い出していた。
空腹に悩まされていたところで、ふと食欲をそそる香りが魔王の鼻腔をついた。
それが何の匂いかはわからない。ただ何か料理の匂いだということだけはわかった。
ゆるやかに漂うそれに導かれるように魔王は重い腰を上げて立ち上がり、ゆっくりと歩き始める。
ややあって彼は城内にある最も古い壁に手をつけていた。
荒れ狂う勇者が原因か、それとも経年劣化か、そこには大きな穴が開いてしまっていた。
そして食欲を刺激する匂いはこの穴の向こうから漂っていた。
はて、この奥には何があっただろうか。
魔王はしばし考える。
城の裏手に広がっているのは深い深い迷いの森だ。
鬱蒼と茂る樹海。入ってしまえば最後、人間はおろか魔物さえも帰ってくることのできない自然の迷宮。
その迷いの森からこのような食欲をそそる匂いがするだろうか、魔王は訝しんだ。
しかし、それ以上に空腹には敵わなかった。
危険なものかもしれない。——いや、危険なものであればこそ魔王である自分が見に行く必要がある。
様々な言い訳を頭の中で並べ立て、魔王は穴の向こうへと足を踏み出した。
不思議なことに壁が崩れているだけのはずのそれは向こう側がまるで見えなかった。
ただ、どこまでもどこまでも深い暗闇が続いていて、魔王はひどく不安な気持ちになった。
それでも香りには抗えず、まるで火に誘われる蝶のようにふらふらと魔王は一歩また一歩、暗い中に足を踏み出していく。
そうして魔王はそこへとたどり着いた。そこは巨人の部屋だった。
一見して、装飾などは一般的な住居とあまり大差ないように思える。
テーブルに椅子、そして照明。あまり見慣れない形ではあるが、用途は理解ができる。
しかしどれもこれもサイズが常軌を逸していた。
元々魔王は通常の魔物よりも数倍大きいが、その魔王の数十倍家具たちは大きかった。
室内の光景に呆気に取られていた魔王であったが、やがてその目線はテーブルの上に置かれた一つの鍋に向かっていた。
食欲をそそる香りはその鍋から漂っていたのだ。
まさか巨人の食事だったとは、魔王は思わず頭を抱えた。魔物を統べる王とはいえ巨人からものを奪うことなど、彼にはできなかった。——また性格上、そのようなことができる男でもなかった。
このままは何も見なかったことにしてすぐに穴から帰ってしまおうか。
魔王はそう考えた。しかし空腹を訴える腹がそれを許してはくれなかった。
魔王の意思に反して腹はグルグルと唸り声をあげる。
勝手に食べてはいけないよと魔王は自身の腹の虫をたしなめた。
しかしながら腹の虫は鳴り止まず、当然のことながら勝手に鍋を開けることもできず魔王はどうしたものかと穴の前で立ち尽くすことしかできなかった。
そしてしばらくそうしていると遠くの方でがたりと扉の開く音が聞こえた。
それから大きい大きい足音がゆっくりと魔王の方へ近づいてくる。
巨人が帰ってきたのだ。
魔王が戸惑っているうちに扉を開けて、巨人は居住区内へと帰ってきた。
そして巨人はすぐに魔王を見つけた。
巨人はどうやら女のようであった。
彼女は魔王を見てしばらく驚いたように目を丸くしていた。
魔王は少し恥ずかしくなって小さく会釈をした。彼女はあまり恐ろしい巨人とは思えなかった
巨人は人間によく似た姿をしていた。しかし魔王の知る人間よりもやはり数十倍大きかった。
体格は立派とは言い難いものだった。細身の体にメガネをかけていて、髪は短く切り取られている。年若い娘だろうかと魔王はあたりをつけた。
おそらく戦闘員ではないのだろう、それが魔王の思考をほんの少しだけ冷静にさせた。
もしもここに帰ってきたのが屈強な戦闘員であれば彼は魔王であるプライドも忘れて叫び声を上げ、尻尾を巻いてすぐに逃げ出していただろう。
巨人はしばらく魔王のことを見ていたが、そのうちに魔王があまり脅威ではないということに気づいたのか、彼女はひとまずで手に持っていた袋をカウンターの上に置いて、小さく魔王を手招きした。
魔王は耳と尻尾を垂れ下げながらおずおずと足を踏み出す。
「███」
魔王の知らない言葉で巨人は何かを言った。
言葉の意味はわからないが、敵意は感じられない。
魔王が何か言葉を返そうとしたそのとき、彼よりも先に彼の腹の虫が声を上げる。
くぅぅ……と大きく響いたそれに、魔王は思わず顔を赤くした。
巨人は優しげな顔で笑っていた。
魔王のわからない言語で、またいくつか言葉を並べ、巨人は台所と思しき場所へと向かう。
見上げるほど巨大なカウンターの上でどのような作業が行われていたのか、魔王には推しはかることもできない。
やがて、巨人は作業を終えたのか、巨大なザルの上に細切れになった野菜をのせて鍋の方へと近寄った。
再び巨人は魔王を手招きした。魔王はまた一歩巨人へと近寄る。
巨人は魔王に座椅子をすすめる。
魔王はやや警戒しながらもそこに座った。
巨人用であろうそれは魔王には巨大だったがとても柔らかく魔王の体を優しく支えた。
その様子を見て巨人は目を細め、鍋の中身をカップに注ぎ、大きな——巨人にとっては小さなスプーンを魔王の前に置いた。
それは野菜で満たされた黄金色のスープだった。
「███」
巨人はまた何かを言った。何かを言って巨人はスープを食べ始める。
……どうやら毒は入っていないらしい。
魔王はそう判断して、カップの中身に口をつける。
野菜の旨みが溶け出してそれは温かく優しい味をしており、魔王の体を温めた。
「おいしい」
魔王の口から声が漏れる。
声とともに涙が溢れた。
温かく優しいそれが、勇者に傷つけられた魔王の体に深く染み渡った。
魔王様は空腹 いりさん @tabinoleo
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