過去 七 不安 1
心の中で不安が膨張する。
どうやって、帰って来たかは記憶にない。あんなに、楽しかった行き道は、
「私、新聞記者だから……。連絡宜しくね。」と、最後に
玄関に雪崩込み、勢い良く扉を閉めると、明継は、窓の布を引っ張った。
斜めに入ってくる光でもカーテンを閉めると薄暗い。
居間の窓際ではなく、入り組まった
人に見られる心配もなく、落ち着いていられる唯一の場所だ。
「先生……。痛い」
紅は、ボソリと
帰ってきてから、今まで、窓際に近づく時以外は腕を握り締めた間々、部屋の中を連れ回していたようだ。
やっと平静を取り戻したが、
「
驚いて急に手を放した。
紅の腕は少し青み掛っている。
「いいえ……。」
紅の言葉に力はない。
此の家に来て間もなく、紅が書斎で遊び、机の書類がなくなってしまい、きつく怒られ、トラウマになって、書斎に入る事を怖く思っていたらしい。
成長し、近頃は明継が居れば、顔を見せる
何とも
「先生。大丈夫ですか。」
心配顔で見詰める紅に精一杯の笑顔を見せるが、引き
「もしかして……。先生は、節さんを気にしているのですか。」
「い否。違うよ。」
秋継の声がうわずる。
否定はした物の、長い付き合いの紅には、やはり見抜かれた。
「節さんと合う前から、様子は変でしたが……。
核心を突つかれ、弁解しようにも、上手い文句が浮ばない明継。
「先生が私の幸せを考えてくれるのは、嬉しいです。でも、負い目を感じているのなら、やめて下さい。私は此の家に来る時も、自分の意志で行動しました。先生が苦しむ理由はないです。」
「良いかい……。君を連れ出したのは、たった十歳の時だったのだよ。自分が選んで決めたなんて、誰も思わないよ。
二人は
「
「では、問題を話して下さい。私は、もう十四になったのです。宮廷では十五歳で成人を迎えます。一人で考えるより、二人で考えましょうよ……。」
涙声の紅に、同情を寄せる明継。
今まで、明継は紅に何も語らず、決定してきた。今、其のしっぺ返しが来たのかもしれない。
しかし、二十六歳の明継に紅は余りに幼かった。其れでも、明継には紅しか頼る相手はいない。紅もしかり。
「ええ。其うですね。」
文章上では頷いた。
明継が本気でないのを理解した紅は、哀しい表情になった。
紅を連れ出した時は、若さ故に、紅の将来を自由がないと錯覚し、世界を見せ様と考えた。
其の後の事は何も予期せず、自分も紅自身の未来も犠牲にしている。
自分が招いた結果なら文句も云えるが、紅は一時期の感情で明継を慕い、
(紅が可哀想だ……)と馬鹿な事をしたと後悔する明継。
其れでも、自分は可愛い。だが社会的地位とかではなく、紅に対する気持である。
多くの犠牲を払って持ち出して、紅には嫌われたくないなど、大の大人が考える事ではないのも分かっている。其れでも、紅との生活を後悔にしたくなかった。若さ故の過ちに思われたくなかった。
明継が前のように思っても、言葉に出すほど器用な人間ではない。不器用に真っ直ぐ生きてきて、道を間違えさせたのは紅だった。きっかけはどうであれ、選らんだのは明継なので、反論は出来ない。気が付いていた。
「では、紅はどう考えているのですか。」
感情のない口調の明継。意見を求められる事になれていない紅は、返答に困り果てていた。
「何を……、です。」
「先程の新聞記者、
明継は、文章上の一語一句を丁寧に述べた。彼に表情がない。
「其れは、どうだか……。」
紅は何も云えず、語尾が
「きっと彼女は私達を追い詰めるでしょう。今まで、其うならなかった方が不思議です。でも……。」
「私達二人とも引き離された方が良いと云われるのですか……。」
「
目の前が真っ暗になる前に、必死で不安材料を忘れ様として、
「先生は、今まで私が重荷でしたか。」
不安は黒い尾を引いて、恐怖心を
「先生……、どうしました。」
紅の声と欲望が交差する。現実がグルグルと覆い隠す。其れでも、明継は普通にしようとして、不快な笑みを浮かべた。冷酷で、尋常ではない微笑。
紅は身震いを起こす。何かが違う明継に、身の危険を感じた。
「先生……。どうしたのですか。」
恐怖に
紅には、悲痛そうに頭を押さえ、堪えているようにも、明継は見えた。でいて、目だけが夜の狼の鋭い光がある。
「どうしたのですか。先生。大丈夫ですか……。」
押さえ切れない絶望と欲望が入り混じる。
明継の精神世界で欠落し始めた物があった。しかし、其れを制御する力は明継にはまだ残っていた。必死に首を振る明継。
紅を側に置いて置きたい。
大きく息をして平静になる。目の鈍い光は奥の方に
まだ大丈夫、まだ、大丈夫、頭の中で
「大丈夫ですよ……。」
額に脂汗を
「忙しかったですものね……。仕事を減らされてはどうですか。」
忙しくて、疲労から来る物だと誤解した紅。
「いいえ。大丈夫ですよ。」
下手に仕事量を減らしては、怪しまれると思い、
事務処理的な職務なので体力に問題はなかったが、精神が疲れを示していたのは本当だった。其の上、紅を
「しかし…。」
紅は言葉を、又、
「本当です。もう大丈夫ですよ。」
明継がしゃんとしなくては、年下の紅が余計不安がると思い、紅のために必死で落ち着きを見せた。
だが、紅が居る事は心の支えになっていたので、先引き
今の明継の生活で、紅がどれだけ占めているかは、分かりきった事であった。
「でも、今日はすみませんでした……。
「いいえ。そんな、先生が悪い訳では……。先生の様子が変だったので、近づいただけで……。」
「近づいて来た時、心臓が止まりそうでしたよ。」
本当に死ぬかと思ったと明継は思い出した。今さっきの事なので鮮明に映像が思い出せる。
明継が考えている計画では、紅を日の目に出さず宮廷に戻し、明継は日本を離れる物だった。
当初は、佐波が紅を戻す事に賛成されると踏んでいたが、意外にも猛反対を受け最後まで話が出来なかったが、順序を追えば、了解を得られると考えていた。
「
紅は明継の側に居る事を望み、外出を避ける。
「
「先生が又……。いいえ。此れ以上先生を苦しませたくありません。」
憂鬱な瞳の紅。
「苦しんでいないよ。其れに、鍵を占めて君を隔離したくない。もっと自由にしていて欲しいのです……。」
三年前頃、紅が家に来た時は、敷居を
久しぶりの外出で、今度は紅が外を恐れた。其れは、紅が明継に捨てられると
昔話だが、幼い時、良く口にした言葉が
『先生に捨てられるのが一番嫌だ。』であった。
紅の周りに良き理解者が一人もいなかった事が、
「
「ええ、先生……。」
大人しく返事をする紅。其れでも、納得は見えない。
「お腹、空きませんか……。先生。」
突然のようにも聞こえるが、明継は紅が声を掛けないと食べ物を、余り摂らなかった。
紅が来るまでに栄養の
「云えば、
其の上、明継は食に対しての
紅は良く理解していた。否定しない時は、明継は問い掛けに肯定的である。
「では、何か食べたいですか……、作りますよ。」
明継は直ぐ
「紅が食べたい物で良いです。」と
紅は、
「そうですか…。」と小さく頷き、台所へ向かった。
所帯用の部屋ではないのだが、此の部屋は台所が付いていた。まだ付いているだけましかもしれない。
時代は、共同炊事場が普通で、井戸端会議の井戸が庶民の普通だった。此の時代には先端な炊事場が部屋がある。
其の癖、一人用にしては部屋数が多く、紅が来る前は閑散とした感じであった。だが、二人で住むには丁度良い具合であり、下手に他の部屋を借りなくて良かったと明継は考えている。
食事の支度は紅の担当になっていた。
世間知らずの紅が、料理を作るのは驚きに思われる。しかし、
事の他、美味しいわけではない腕前であったが、『毎日外食をお土産に持って来るのを思えば、少しは健康的だ。』と紅は云った。
紅が生物には欠かせない食事の支度をするようになった。
明継が
「今日は何かな……。」
紅の前では口にしないが、食事を期待している。
自分のために紅が何かを行なってくれるのが
帰ってくると、猫目の紅が重いドアを一生懸命押して飛び出して来るのは、嬉しいものだった。可愛くて仕方ない。年齢層からは、明継が大人でしかないが、食事に関しては、紅を頼りにしている。
「先生……。備蓄品がありません。買い物に行かないと……。」
其れは、即、外出を意味した。
明継の状態を気にしてか、機嫌を
「そうですか。では、私がお使いに行って来ますよ。」
普通に返事が返り、表情を見てホッとする紅。
神経が研ぎ澄まされた明継の表情は
「では、お願い出来ますか。」
「えぇ……。ついでに、
「
「今日合いに行こうかと……。」
無理もないが、呆れたように口が半開きになっている紅。
「予約もないしに、其れは無理でしょう。手順を追って、正式に行なうべきです。」
紅は仕えていた
「はぁ……。其うですか……。」
其れでも、
明継の考えが見透かされているようだった。
「分かりました。では、少し遅くなるのですね。先生。
明継に紙の切れ端を手渡し、明継に背を向けた。どうやら佐波に合う
しかし、極秘に合うので正装だと目立ってしまい、怪しまれ過ぎる。(仕事の時に来ている外出着で、どちらかと云えば、
普段通りの服装で佐波に合いに行くのが通常であった。紅が人目を気にし、
明継の場合は、例外も例外、忍び込んでも、撃ち捨てられなかった。警備に見付かれば、注意はされるが、
『佐波様が、呼ばれましたので……。』と弁解すれば、何とかなった。
三年前の紅の教師と云う肩書きは伊達ではなかった。第一
しかし、
「はい……。でも、正装はしませんよ。」
部屋の
其れを聞いて、
云い出したら聞かない性格である明継を良く理解している紅。
タイを明継の顔面に見せ付ける。
「今日は、折角のお休みではなかったのですか……。」
紅が少し膨れっ面で、背広を明継の肩に通させた。
紅の思う
「はい。今日は休みでしたね。」
「では、お休みになったらどうですか。」
「すみません。緊急を要する用事が発生してしまったので……。」
「そうですか。でも、明日も仕事ですし……。明日では駄目なのですか。先生。」
先生の語尾に力が入る。口を尖らせて、不機嫌そうにしている紅。
「すみません。」
紅は
嫌みに近い
「先生は、忙しい人ですから……。」
諦めになった紅に、オロオロと視界が動く明継。
其れを見た紅が、笑む。
「いいえ、気にしていませんよ。先生は仕事ですから……。」
ニコリと微笑む紅に、明継が表情が元に戻った。二人して、微笑んだ
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