不思議/懐

 004



「……はっ」



 数日後の明け方。



 悪夢にうなされて、びっしょりになったパジャマを見てからティカルはベッドを出た。

 アイロニに言われ使うことになった、彼の姉のベッドとパジャマ。ここに来た日は考えられなかったぴったりサイズの理由を、ティカルは仕立ててもらったメイド服に着替えながら少しだけ考えた。



 少し太ってからも着られるようにと、ややゆったりと保たれた裾とスカートは内側に通した紐で縛れるようになっている。

 なぜ、こんな仕掛けを貴族家の長男でありグータラと揶揄される彼が出来るのか、またしても新しい謎が生まれてティカルは首を傾げる。



 心地の良い謎だった。生きる為の事以外を考えた経験は今までになかったと、彼女は何となく思った。



 それから、仕事をこなして数時間。そろそろ、主人の起床の時間だ。



「おはようございます、ご主人様」

「……うん」



 言われ、ティカルは彼の部屋を後にする。そして、既に掃除が終わった部屋の中を見渡して、暖炉の上にかかっているアイロニの絵を見上げた。



 この数日で、ティカルは簡単な言葉遣いと仕事を覚えた。と言っても、言葉遣いはまだまだであるし、メイドとしての仕事も掃除と洗濯とサンドイッチを作ることくらいで覚えるのに大した手間は掛かっていない。



 やがて、廊下を歩く音がした。朝の入浴に向かったようだ。彼女はバスローブではなく仕事着とタオルケットを脱衣所に置いて、扉の外で彼が出てくるのを待った。



 ――俺の入浴を邪魔するな。



 他の仕事もそうだったから、てっきり教えられたとおりに彼の体も洗わなければならないのかと考えて扉を開けた時、そうやって命令されたから彼女はこうして待つのだ。



 鼻歌が聞こえてくる。彼の大好きなジャズのメロディだ。あんまりにもこの曲のレコードばかりを聞いているモノだから、ティカルも段々とこの曲が好きになっているのだった。



 ガチャリと扉が開く。手伝わせる事もなく、アイロニは既に着替えを終えていた。



「お食事の用意は済んでおります」

「あぁ」

「今日のスケジュールの確認ですが――」

「お前の国だった場所の土地の権利を巡る議会への出席、俺の街の駐屯騎士共の方針会議、それの伯爵への報告、あとは部屋にある書類の始末」

「おっしゃるとおりでございます」



 朝のこの時、ティカルはアイロニが本当に貴族としての仕事を一人でこなしていたのだと痛感する。グータラと揶揄されている彼だが、彼は一つとして仕事を忘れたことはないし、期限を遅れたこともないのだ。



 ただ、あまりにもシステマチックに、そしてオートマチックに仕事を終わらせる為に他人には決して理解されない。

 また、決して他の貴族の仕事を手伝ったりもせず、持ち分が終わればすべてを絵描きに費やすため、それを見た他人から『グータラ』だと言われているのだった。



 もちろん、ケルトだけは彼を皮肉ってそう言っている。むしろ、彼が辺境伯として上に君臨しているからこそ、他人に評価されない上に天涯孤独のアイロニが爵位を剥奪されずに済んでいるのだ。



「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「ご主人様は、歴代でも最高位の魔術師だとケルト様から伺っております。しかし、わたくしはご主人様が魔術を使っているのを見たことがありません。コンロの火を使われますし、ミシンを使って服を直されます」

「あぁ」

「ご主人様程の魔術師であれば、必要のない事ではないでしょうか」



 ティカルは、聞けば何でも答えてくれるアイロニの事を早くも信用し始めていた。



 もちろん、脊髄に埋め込まれた恐怖とフラッシュバックする記憶のせいで身を任せる事は出来ないが、それでも奴隷の彼女が『聞く』事をしているのが、二人の関係を余すことなく表しているだろう。



「嫌いなんだ、魔術は」

「嫌い、ですか?」

「そう、嫌いだ。特に、俺のは人殺しの道具だからな。故に使わない」



 ならば、なぜ魔術が嫌いなのか。それを聞けるほど、今度は自分の立場が許されているワケでもないことをティカルは知っている。魔術とは、この世界においてこの上なく尊き物だからだ。



 だから、小さく「ありがとうございます」と頭を下げると、焼き上げたパンの上にバターを塗り、レタスとトマトとベーコンを乗せサンドイッチを作り席についた彼の前に差し出した。



 魔術嫌いの戦闘魔術師。それが、彼の正体だと納得するしかない。



「いただきます」

「いただきます」



 メイド服を着ていても、ティカルはアイロニと同じテーブルで食事をする。無論、大した会話もなくただ音楽と新聞に神経を費やす主人を見るだけなのだが。



 彼女は、この時間が好きだった。



「行くぞ、ティカル」

「はい、ご主人様」



 馬車を操るのは、まだティカルには出来ない。しかし、これも転移魔術を使って会場まで行けばいいのに、彼はあくまでもアナログな方法にこだわる。だから、こんなにも早く起きなければならないのに。



 これは異常だ。



 他の貴族に訝しまれる理由を、ティカルは少しだけ分かっていた。しかし、そんな奇妙な主人だからこそ、ケルトは彼を信じているのだとティカルはこの家に来る以前の会話を思い出して考えた。



 005



 会議を終え、タバコを吸うアイロニの元へ数人の貴族が近寄ってきた。



 アイロニは頭を下げている。ならば、ご主人様よりも位の高い人物たちなのだと察して、ティカルは出来るだけ主人に恥をかかせないよう丁寧に頭を下げた。



「よぉ、穀潰し」



 開口一番。向けられた言葉の意味は知らないが、ティカルはアイロニが貶されたことを理解した。



「こんにちは、バーレイ様」



 この国の貴族社会において、敬称ではなく実名に『様』をつけて呼ぶ事が最上の経緯の表し方であると教えてもらったのをティカルは思い出した。



 もちろん、国王だけは例外である。そもそも、男爵は国王に口を利く権利がない。



「聞いたぞ、お前も奴隷を飼うことになったんだってな。それか?」

「はい」

「ふん、よりによって亜人か。獣人ならまだ使い道もあっただろうに」

「えぇ」

「一番ハンチクな出来損ないだが、お前みたいな穀潰しにはお似合いか。お手くらいは仕込んだのか?」

「はい」



 聞き流す態度のアイロニに、バーレイと呼ばれた男は明らかに苛ついた。



 その時、アイロニがさり気なく自分の前に立ったことにティカルは気が付いた。バーレイの後ろには、四人の男が立っている。胸の紋章を見るに、何れもアイロニよりも高い爵位の貴族のようだ。



「新しく分け与えられる土地も、お前んところはソバも育たない瘴気の谷だってな。仕事もしねぇで絵描きなんてクソみたいなことしてっからそうなんだよ」

「はい」

「そんな風に生きるなら、とっとと貴族を辞めちまえよ」

「いいえ、申し訳ございません。ケルト様に呼ばれておりますので、そろそろ失礼します」



 タバコを消して、灰皿へ捨てるとティカルを読んで外へ歩いていくアイロニ。そんな姿を見てトサカにきたのか、バーレイは魔術を使ってティカルの足を縛り転ばせた。



「あ……っ!」



 持っていたカバンの中身をぶち撒け、途端にティカルの血の気が引く。魔術で転ばされた事になど気がつくハズもなく、思うのは絶対に恥をかかせてはいけない人に恥をかかせてしまったという事実だけだ。



「なっさけねぇなぁ。お前がロクに教えられないカスだから、そいつは伯爵様の前で無様晒してんだぜ? 恥ずかしくねぇのか?」



 ……ティカルは、腹の底から理解した。



 これが、本物の屈辱であると。



「ティカル、立て」



 アイロニは、散らばった書類を拾いながら言う。彼女もすぐに彼に倣い、風で飛ばされる前に急いで拾い集めた。



「す、すみません。ご主人様」

「気を付けろ、失礼だ。謝る相手も俺じゃない」



 言って、立ち上がったティカルを背中にすると、彼は深々と頭を下げた。



「申し訳ございませんでした。以後、作法を徹底するよう教育致します」

「出来もしねぇ事を言うんじゃねぇよ、嘘つきヤロー。お前みてぇなカスに教育なんて無理だろ」

「申し訳ございません」

「謝って済む問題じゃねぇ、国王様の前なら不敬罪で牢獄行きだぞ」



 言って、謝る彼の頭の上に置いてある灰皿の灰を掛けると、バーレイと取り巻きの貴族たちはゲラゲラと笑った。貴族社会において、目上の人間に失礼であることがどれほどの失態なのかをティカルは思い知った。



「気を付けます」



 結局、アイロニはバーレイたちが満足するまでずっと頭を下げていた。ようやく元の姿勢に戻ってもう一本のタバコに火をつけたのは、相手が踵を返して数秒後の事であった。



「ご主人様。あの、私、なんて言って謝ればいいか……」



 しかし、彼が黙ったまま徐ろに、自分のジャケットの内に手を入れると極わずかに淡く光った。



 次の瞬間。



「ぎえぇぇぇぇ!?」

「いでででででで!!」



 なんと、隣の花壇に咲いていた大きなサボテンが破裂して5人の尻に針をブスブスと突き刺したのだ。

 突き刺さった痛みで、思わず飛び上がり無様を晒す5人。それを満足げにたっぷり眺めると、アイロニは再びタバコに火をつけて歩き出した。



 子供っぽいかと思えば急になんの興味もないような姿を見て、ティカルは本当にワケが分からなかった。



「なんでサボテンが!」

「バーレイ様、尻の穴に入りました……っ」

「き、汚いことを言うな! バカタレ!」

「私ではなく、バーレイ様の尻の穴です」

「なにぃ!?」



 阿鼻叫喚の中、バーレイは一瞬だけ後ろを振り返ったがアイロニは既に遠くにいる。魔力の痕跡もなくサボテンが破裂した理由を察することなど出来るハズもなかった。



「ご、ご主人様ぁ」

「ツイてない連中だ。あんな運の細さじゃ、これ以上貴族として成り上がるのは無理だろうな」



 運も何も、そうさせたのは間違いなくあなたではないかとティカルは思う。しかし、魔術を使うにも一体何の作用をどの程度の力量で加えればサボテンを破裂させ狙った場所に硬化させた針を飛ばせるのだろう。



「……あんなふうに出来るのに、なぜ頭を下げるんですか? ご主人様は、ちゃんと仕事もやってるのに釈明も無いですし」

「何を言ってるんだ、偶然あのタイミングでサボテンが破裂しただけだろ」



 アイロニは、深くタバコを吹かしてあくまでも知らんぷり。そんな姿に煮え湯を飲まされ、トコトコ歩くティカルは正面に立つと彼の足を止めた。



「灰を掛けられているのにですか?」

「お前にとっては、灰を被る事が青筋立ててブチ切れるような事なのか?」



 それは、ティカルにとってあまりにも衝撃的な言葉だった。もしも自分がすべてを薙ぎ倒して丸め込める強力な力を持っていたとして、果たして彼のように穏やかでいることができるだろうか。



 きっと無理だし、今まで出会ってきた他の魔術師にも無理だった。だから戦争が起きて、自分のいた国が滅びたのも記憶に新しい。



 とうして?考えるたびに魅入られ、ティカルの忠誠心は深く深くなっていくのだった。



「ところで、靴のサイズがあってないのか? それとも、貧血でも起こしたから転んだのか?」

「い、いえ。急に足がもつれてしまって。申し訳ございません」

「そうか、ならダンスの練習でもしておけ。ステップを覚えて転ばないようにな」



 これがジョークなのか本気なのか分からなくて、もしかすると他と同じように、そのうちダンスをアイロニから教われるんじゃないかと思って、ティカルはただ。



「かしこまりました」



 そういって、期待に胸を膨らませながら頭を下げた。

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