身分の違い/彼女の初仕事

 002



「すみません、ご主人様」

「なんだ、まだ風呂に入っていたのか。石鹸の香りがないが、ちゃんと洗ったのか?」



 ボロの代わりにバスタオルを体に巻いたティカルがしっとりと濡れた髪のままで、薄汚れたキッチンにて夕飯の準備をするアイロニに話しかける。



 封を開けて缶のまま温めているのはチリビーンズ。隣にはオイル漬けの鯖缶。ワインが一本。バケットが半本。とても貴族とは思えない食事だ。



「石鹸は、高級品と聞きます。私のようなが使ってよかったんですか?」

「……ちょっと来い」



 言って、アイロニは強引にティカルの手を掴んだ。彼女は暴力への怯えに身を縮めて震えたが、そんなことには構いもせずズンズンと廊下を進んでいく。



 そして、無理やりティカルを座らせてワイシャツとスラックスの裾を巻き短くして、シャワーヘッドから流れる湯で彼女のブラウンの髪を濡らす。



「今日は洗ってやる、覚えろ」



 アイロニは、湧き出す温泉を使った特注の浴室を持っている無類の風呂好きである。文化とは本能の範囲外に贅を尽くすことだと、彼は定義しているからだ。



「すみません」

「俺は文化人なんだ、文化人の家の使用人が文化的でなくてどうする」

「文化とはなんですか?」

「な、何て愚かな奴なんだ。奴隷の身であっても、空想や夢想に想いを馳せるくらいはしただろうが。文化とは心の富の事だよ」



 しかし、やはりティカルには分からない。反応を見て、彼女は自分とは常識が根本的にズレている人間なのだとアイロニは思った。



 ならば、考えることに違いが生まれても仕方ない。生命の安全、温かい布団、腹いっぱいの食事。大方、ティカルの考える幸せとはそんなところだろう。



「お前は、浅過ぎる」



 まるで、死んだ両親と同じような思想だ。生きるための辛さと、出自に囚われない平等を貴ぶなど人として最も愚かだと彼は思う。飢餓に苦しむ子供だって、例えば食いきれないほどの馳走を出されれば残すだろうと考える。



 瞬間、思い出したのは偉大なる父の言葉だ。



 ――お前が強く生まれたのは、この国と人に尽くすためだ。アイロニ。



「……クソ」



 嫌なことを思い出したから、どうせ雇うなら彼女の思想を根本から支配してやろうと思った。彼の心の奥底には、ティカルとはまた違う形の闇が潜んでいるようだ。



「お前がやるべきことは、まずたくさん食べてそのやせ細った見窄らしい体を肥やす事だ。せっかくのメイド服が似合わん」

「あ、あぅ」

「口の聞き方もてんでダメだ。よくそれで奴隷が務まったモノだな」

「あの、私は、その」

「あぁ、言わなくてもいい。お前のような女が出来るのは変態の下の世話くらいだ。どんな生活をしていたのかは察する」



 何故か、申し訳ない気持ちでいっぱいになるティカル。



 ただ、以前に自分を飼っていた主よりも強くキツい物言いなのに、髪を洗ってくれる手付きが優しくて。あまりにも乖離している言動と行動のギャップに、戸惑って考えがおぼつかない。



 しかし、どうせ自分の知っている言葉では彼に何も伝えられないと悟って、ただ黙って温かく気持ちのいい頭の感覚に身を任せるしかなかった。



 感情は、既にメチャクチャだ。



 死んでしまった母の最期の顔を思い出す。最愛の人は、あんなにも酷い目にあって死んでしまったのに。自分だけがこんな幸せにあっていいのだろうかと、彼女はひどく悩んだ。



 アイロニは、気づかないふりをした。



「口の聞き方からもまったく知性を感じない。字は読めるか? 数は数えられるか?」

「申し訳ございません。その、何も……」

「クソ。ケルトの奴め、図りやがったな」



 あのお節介焼きの友人の目論見を、流石のアイロニも理解した。ケルトは、最初から彼女をメイドとして仕上げさせ、自分に責任感を植え付けるつもりだったのだ。



「そのうち学校へ行くことにもなるだろうし、ケルトはお前の出来上がりを確認するために無理矢理にも俺を社交場へ引きずり出す事だろう。まったく、お前のせいでお前を雇うための金を余計に稼がなければならない」

「が、学校ですか? 私が学校に行けるんですか? それに、お金って……」

「当然だ、お前はまだガキだろうが。奉公に出たって、学びくらいはやるべきだ」

「奴隷なのに、ですか?」

「当たり前だろ、お前は奴隷を何だと思っているんだ」

「……ご主人様を怒らせないようにして、パンを貰うだけのゴミです」



 アイロニは、ティカルの頭の泡を洗い流して艶を出すオイルを塗り込み、今度はモコモコと立てた石鹸の泡で彼女の体を手の先から洗い始めた。



「あのなぁ、そんな奴隷を飼っている貴族なんてまともな奴相手にナメられるだろ。隣を歩かせるのにみっともなくてどうする」

「は、はい」



 どうやら、隣を歩かせるらしい。秘書でも兼任させるのだろう。



「そもそも、俺がやりたくない事をお前にやらせるのに、お前が失敗してしまったら何も楽にならないだろうが」

「そうでした、すみません」

「そんな教育しか出来ないから、お前の前の雇い主はお前を手放す事になったんだ。どこのどいつだ、そのボンクラ貴族は」

「レイゼル国王様です」



 聞いて、アイロニは手を止めた。それはまさしく、彼も参加した一週間前の戦争において滅びた国の王の名前だった。



 アイロニが首をハネた、この世で最も滑稽な男の名前だった。



「……お前以外に、ウチの国の貴族に引き取られた奴隷はいたか?」

「6人、みんな私と同じ年の女の子です」

「なるほど」



 つまり、こいつは二世であり魔力を有している貴重な人材だ。そして、奴隷の母から生まれた奴隷の子。奴隷としての生活しか知らないから、何一つ文化的な想像が思い浮かばない。



 そんな絶望以外に何も知らない純な少女たちを、国は戦争において成果を上げた人間に充てがったのだ。ケルトが「奴隷」と言って真の目的を隠したのも、真実を言えばアイロニが確実に断ると知っていたからだろう。



 彼女たちが魔術師の家で働けば、生活から自然と魔術を学ぶこととなり新たな魔術師がこの国に生まれる。そして、一番の理由は彼女たちの出自だろう。豊かで恵まれたこの国には見られない純粋な憎悪と恐怖こそが、何よりの強力な魔術の根源となり得る。



 だから、少女たちはこの国へとやってきたのだ。



「どこまで行っても操り人形だな、俺もお前も」



 もちろん、ティカルには何も察せられない。ただ、脇を擽られてむず痒くてピクリと腕をくねらせるだけ。



 まるで、自分の体じゃないかのように白く綺麗になっていく。ティカルは、生れて初めて自分の肌の色を見た。



「……いい匂い」



 003



 ブカブカのメイド服を着させたかと思うと、アイロニは袖とスカートをちょうどいい高さでピンで止めて再び脱がせた。



「後で仕立ててやる、教えるから今後はお前が俺の衣服の直しもするんだぞ」



 ティカルは、アイロニの姉の遺品である服を着させられて、缶詰を適当に並べたテーブルについていた。言われたからと言って、自分が主人より先に座っている今の状況が彼女にはサッパリ理解出来ない。



 アイロニの、姉の服。それが自分にピッタリな理由も、ティカルには分からなかった。

 


「なぜ、私がご主人様と同じテーブルに座るんですか?」

「お前は俺に飯を食ってる姿を見せびらかされたいのか?」



 そういうことではない。



 ティカルが伝えたいのは、こんなにも身分の違う男と自分が同じテーブルについて食事を取ることが許されるハズがないという疑問だ。



 しかし、アイロニは全く気にする素振りもなく缶詰のサバとオリーブをワインで流し込んだ。毎日こればかり食べている、そんな事情がありありと伝わるスムーズな所作だった。



「ほら、お前はパンを食え、パンを。バターをたっぷり塗るんだ。スモークしたサーモンとクリームチーズも乗せてやる。こいつを毎食二つも食えば、あっという間に太って文化的になれる」



 一体、自分は何を目の前にしているのだろう。



 こんがり焼けたパンの上に、白いニ種類のペーストとオレンジ色の切り身が乗った、見たこともない綺麗な食べ物が手を伸ばせば届く場所にある。



 この鼻をくすぐる香りはなんだろうか。涎が止まらない。口の端から溢れるそれを拭ってアイロニに目を向けるが、彼はとっくに自分の食事に戻って、しかも新聞を読んでいた。



 食べた瞬間に、殴られる事はないだろうか。即座に取り上げられて頬張られ、床に這いつくばる事はないだろうか。靴についたチーズを舐めさせられ、ここから追い出される事はないだろうか。



 考えてしまえば、ティカルの手はサンドイッチに届かない。なんの興味も無さそうに新聞を捲るアイロニの表情を伺って、出来るだけ我慢が続くようにサンドイッチを視線の外に持っていくのが精一杯だった。



「何をしてる、お前は俺の作った飯が食えないのか?」

「そんなころ!」



 涎のせいで、もう呂律が回っていない。しかし、どうしても最後の一押しが出来なくて、吹きこぼれる欲望を堪えるために唇を噛み締めた。



「ティカル、お前はここに何をしに来たんだ?」

「ど、奴隷です」

「違う、お前は俺のために働きに来たんだ。奴隷は身分であって役割じゃない。犬を飼って虐待する奴もいれば、芸を仕込んで狩りに連れて行く奴もいるだろう。俺は後者だってことだ」



 アイロニの理路整然とした説明も、ティカルには理解出来ない。まず、人として扱われている時点で置いていかれているのに、同じ目線で教えられるだなんて彼女が付いていけるハズがないのだ。



 彼は、彼女の事情に気が付いている。気が付いていて尚、慰みも無しに接しているのだ。



「椅子を持ってこっちに来い」



 言われ、アイロニの隣に椅子を引きそこに座る。疑問は晴れないが、少なくとも一つだけティカルには分かりかけている事があった。



「こいつはな、人が活動するためのエネルギーの素だ。お前が俺のために働くには、まずこいつを食わなきゃならないんだよ」

「でも、今まではカビの生えたパンでした」

「それじゃお前は俺のメイドになれん。俺はお前のパフォーマンスを引き出すためにお前に投資する、お前は俺のために身を粉にして働く。それが俺の家での主従関係だ。理解出来るか?」

「しゅじゅうかんけいってなんですか?」

「俺の言う通り、このサンドイッチを食べることだ。ほれ、口を開けろ」



 不思議なのは、この男が手を上げない事だ。



 ティカルは、自分の要領が悪いことを知っている。だから、以前の主人の側に着くことは一度もなかったし、同じ奴隷の中ですら使えない物扱いをされて母が死んでから虐められていた。



 今回の戦争で生き残ったのだって、城のメイドに扱き使われて遠くの川で洗濯物をしていたからだ。川の上流でないと澄んだ水でなくて染め物に嫌な色が付くと、わざわざ何十キロも歩かされていたからだ。



 だから、今だってそういうモノだと思って従えばいいのに、無意味にアイロニに意味を問いて勝手に恐れている。納得しようとする彼女の謎のクセが、またしても嫌な方に働いて彼な迷惑をかけていることは承知している。



 それなのに、この男は何でも答えてくれる。暴力という最も手っ取り早い方法を取らず、答えを自分に与えてくれる。



 ……だから。



 だから、彼が自分の知らない事を知っている頭のいい人間だからなのだと、頭のいい人間にはそんなことをしない理由があるのだと、ティカルは分かり始めたのだ。


 

「はい、ありがとうございます」



 言って、恐る恐る口を開けると不意にアイロニがサンドイッチを遠ざけた。やはり、何かの罠だったのかと勘繰るが、しかし。



「飯を食う前は『いただきます』だ、外で恥をかく事になる」

「い、いただきます」



 そして、ティカルは一口頬張った瞬間。サンドイッチに大きく心臓を揺さぶられ、ありとあらゆる苦悩が脂と旨味に溶けていく。

 耐えきれず、口を伸ばすと優しく手渡されたそれに、主人であるアイロニなど目もくれずガツガツと頬張った。



「おいひいれす。ほんとうに、おいひぃれす」

「味なんてどーでもいい。もう一つ食え、食えるなら別の食い物もあるだけ食え。特に油と炭水化物を食え」

「ひゃい……っ、ひゃい……っ」

「泣くな、鬱陶しい」

「ずび、ずびばせん……っ。ひぐ……っ」



 次に、オニオンとエビとオリーブを敷こたま乗せたサンドイッチをアイロニの目の前に置くと、彼女は涙を流したまま嗚咽を上げて食事を続けた。



 その涙が、決して味ののよさに感動して流れているモノなのではないとティカルには分かっていた。しかし、そんなことを言えばこの人に嫌われてしまうかもしれないと思うと、無理矢理に疑問を押し殺してまたサンドイッチを食べた。



「作り方は覚えたか? 手順を言ってみろ」

「は、はい。『パンを焼く→バターとクリームチーズを塗る→オニオン、エビ、オリーブの順で乗せる』です」

「よし、明日の朝からお前が同じモノを作れ。いいな」

「はい……っ!」



 そして、更に流し場に置いた食器類を洗って拭き棚に直す事を教えると、アイロニは自慢の蓄音機にレコードを挟んで針を下げ、置きっ放しになっていたミシンを使ってティカルのメイド服を仕立て始めた。



 流れているのは、スローなジャズミュージックだった。この世界で生まれた始めてのまだ無名なジャズバンドを、彼は心から応援しているのだ。

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