第三話 あなたの名前は……
「
「先を急ぎすぎ、という気もしますけれど、まあそうですわね」
何がいいかしら……と、
「こればかりは本人にも聞いた方がよいかもしれませんよ?」
「今までそんなことあった?」
「……ありませんでしたわね。わたくしの名も、他の女房の名も、全て定子様がお決めになりましたわ」
「皆気に入っているのだから良いでしょう?」
まあ、それもそうですけれどね、肩をすくめる
「やはり、才を受け継いだ清原家の〝清〟の字は残したいわよね……。〝清〟と言えば水かしら。――〝
「語感は良いですし、悪くはないのですけれど、それでは地名になってしまいますわ。それに、あまりにも安易な気が致します」
「あら、そうね」
地名を言ったのか清少納言を呼んだのか分からなくなってしまうのはややこしい。
「水にこだわるのでしたら……〝
「〝清雨〟ね……。何だか〝雨〟って陰気で嫌な感じがしない?」
「……あなたが〝藤時雨〟と名付けた女房の前でそれを言うのですか?」
あらそうだったわ、と慌てて口を噤む。
幸い、藤時雨はそこまで気に留めているわけでもなさそうだ。
「雨がいけないのでしたら川や湖はどうです?」
「〝
「あら、わたくしは清少納言殿に〝清湖〟という名は似合うと思いましたけれど」
定子は、何て言えばいいのかな、と、どう伝えたらよいか考えている様子。
「えっとね……。少納言はさっきは緊張していたけれど、本当は明るくて、あたしに対しても物怖じしない性格な気がするのよ。初めての宮中で萎縮してしまっているだけだと思うの」
「そうなのですか?」
「あたしの勘よ、勘。でもそういえば、あたしが御簾を上げようとしたときにもすごい勢いで止められたわね。
なんだ、勘ですか、と藤時雨は溜め息をつく。
「定子様の勘はよく当たりますけれどね。それにしても、御簾を上げようとしたのなら止められても仕方ありませんわよ?」
「そうだ! 〝
「少しは話を聞いてください……。御簾を巻き上げた状態の時に殿方が通りかかりでもしたらどうなされるおつもりです」
「そのときはそのときね。それより〝清和〟ってどう?可愛くない?」
藤時雨は頭を抱えたが、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「お待ちください、〝清和〟はやめたほうが良いかもしれません。以前――と言っても百年近く前ですが――
「百年も前なら大丈夫じゃない? 読み方も違うようだし」
「畏れ多いことを! 今上陛下の御先祖様にあたる方ですよ」
え~、もう百年も経っているのだから許してくださるわよ、その方も。
定子は「清和」という名を気に入ったようだ。
「いえ! 清和天皇陛下が許しても私が許しませんわ!」
「じゃあ仕方ないわね。その代わり藤時雨ももっと考えて頂戴よ」
(もう二つ案を出しましたけれどね!)
心の中では文句を言ったが、口に出そうになるのを我慢して、藤時雨は頷いた。
「やはり水に関する名がいいわ」
「そうですか。それでは水に関する言葉を考えてみては」
「そうねぇ……」
露、梅雨、流、霧、海、五月雨、氷雨――……。
「良いのがないわ。いっそのこと、貴女とかぶせて〝
「その名自体はわたくしも良いと思うのですけれど……。そのうち定子様が呼び分けるのが億劫になって〝藤〟〝清〟と呼び始めるのではありません?」
「あらよく分かったわね。最初からそのつもりよ」
「ですので嫌です」
つまらなそうに唇を尖らせる定子。その一つの仕草を取っても可愛らしさが存分に滲み出る。
「じゃあほかに何かあるの? もう藤時雨が考えてよ」
「今までも女房名は定子様がお考えになっていたのですから、少納言殿だけわたくしが決める、というのも申し訳ないでしょう」
「いいわよあたしが許すわよ!」
無茶苦茶言わないでください……、と藤時雨が嘆く。
「あっ、思いついた!」
「今度は何ですか、わたくしはもうそれで良いと思いますわ」
「何よ、まだ何も言っていないじゃない。それより、〝瀬〟よ!」
「〝瀬〟?」
「そう!〝
有無を言わさない勢いに、どうせ私に決定権はないのでしょう、と藤時雨は苦笑する。
(でも、確かに〝清瀬〟なら……)
「今までで一番良い名ですわね」
「でしょ! じゃあ少納言の女房名はこれで決まりっ!」
定子は手をパチンと打ち鳴らした。
「夜に来るだなんて私も正気じゃないわね……」
時は戌の刻。
寝殿造の御所を見上げ、清少納言はそう呟いた。
供の女童もなく、ついてきたのは牛車を引いてきた
この時刻に牛車を御所に乗り付けるなど何事だ、と宮中の警護にあたっていた数人の
(面倒くさいわ……。定子様が既に説明しておいてくれると有難いのだけれど)
供の二人を労い、丑の刻頃に迎えに来るように言うと、清少納言は自ら地面に降り立った。
「こんな時刻に女が御所に何の用だ!」
ほらきた面倒くさい。
内心では文句を呟いたが、そんなことは表情にも出さず、愛想笑いを浮かべる。
「私にもわかりませんわ。何故こんな時刻にここにいる羽目になっているのでしょうね」
「言い逃れをするな」
少納言にしては珍しく投げやりな言い方だ。
「そうですね、では本題を。私は中宮定子様に仕える身なのですが、いろいろと事情がありまして、夜にくるように、とのことなのです」
定子の名前を出すと、舎人は慌てたようにお互い顔を見合わせ、その場にざわりと動揺が広がる。
(やはり知らなかったのね……。すぐに納得してくれると良いわ)
「本当なのか」
「ええ、本当ですわ。疑われるのでしたら
清少納言……? 誰か知ってるか?
ほら、
うわ、清原家の方か。
おいお前……っ、本人が目の前にいらっしゃるんだぞ。
うわ、そうだった。
「どなたか、お伝えくださいませんか?」
コソコソ話していた舎人たちに笑顔を向けたまま、少納言はもう一度言った。
誰かいないのか、とでも言うように、それぞれがそれぞれに他の者を窺っている。
その空気に耐えられなくなった一人が、分かった、俺が行く、と頷き、駆けていった。
「残った方々は私と世間話でも致します?」
「……」
清少納言が、有名歌人の血をひき、かつ中宮定子の女房らしいと知って、呑気に世間話をできる者などその場にはいなかった。
「おーい、確認が取れたぞ」
程なく、宿直所へ向かった舎人が帰ってきた。
「本当に清少納言殿なのか」
「何度も言ってるが、ご本人がおられるんだぞ。あんまり失礼なことを言うな」
「ああ、申し訳ございません」
清少納言は失言を繰り返す舎人に、お気になさらず、と微笑みかける。
「もとより大した地位にいるわけでもございませんし。――ところで、疑いは晴れたようですわね?」
「はい。ちょうど宿直所に
それはよかった、と清少納言は手を合わせる。
「それでは通していただけますね?」
「もちろんです。……ああ、私が護衛につきましょう。途中でどなたかとすれ違ったときにも説明ができるでしょう」
「護衛だなんて、そんな大層な……」
「いえ、中宮定子様の女房であるというのならこれくらいしなくては」
それではご厚意に甘えて、と承諾し、清少納言と先程確認を取ってきた舎人は、中宮定子の住居、
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※定子と藤時雨が清少納言の女房名を考えている描写がありますが、実際には「清少納言」というのが女房名です。
ちなみに、女房名は、父・兄弟・夫などの官職名を用いることが多かったそうです。
清少納言の場合は、清原氏の「清」に、兄弟に少納言になった者がいた、ということから「少納言」で「清少納言」らしいです。
少納言と愉快な定子様 宵待草 @tukimisou_suzune
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