第二話 夜に来ればいいじゃない

定子ていし様、主上おかみがいらっしゃいました!」


 定子への挨拶もそこそこに、部屋に飛び込んできた女房は主上おかみ――一条いちじょう天皇の来訪を告げた。

 えぇ? と面倒くさそうに顔をしかめる定子。天皇の妻、中宮とは思えない反応だ。


「〝えぇ?〟と言われましても……。お会いになりますわよね?」

「お会いになんないわよ! 今あたしは忙しいのっ。一条様にも帰っていただいて!」


 今度は女房がえぇ? と顔をしかめる番だった。


「あんなひょろひょろした権威のかけらも見えないような方ですけど一応帝ですのよ?」

藤時雨ふじしぐれ、あなたもけなしてるわよ……」


 あら私としたことが本音が出てしまいましたわ、と、笑って誤魔化す女房、藤時雨。おほほ、と笑う三日月形に細められた涼やかな目元は、三十代も半ばでありながら、年齢を感じさせない。


 ああ、やはり定子様付きの女房ともなるとどなたも美しいのね、と、清少納言せいしょうなごんはまた表情を曇らせる。


「でも、本当にいいんですの? 追い返してしまって。清涼殿からわざわざお越しくださったのに」

「わざわざも何も、あたしの部屋、清涼殿から全然遠くないじゃない……」

「当たり前ですわ、中宮様ですもの」

 

 天然なのかわざとなのか、藤時雨は首を傾けてにっこりと笑う。

 いや、あたしがしたいのはそういう話じゃなくて……、と定子は首を振った。

 呆れたようなその姿さえも絵になり、清少納言は、こんな方に私なんかが仕えることになるなんて想像もできないわ、と唇を噛む。


「あたしは忙しいんだってば! 本当に帰しちゃっていいから!」


 それであなたも早く出て行って! と、身を乗り出した勢いで御簾みすが揺れる。

 でも定子様……、となおも続けた藤時雨。

 しかし、御簾みすの内側から滲み出る定子の圧を感じたのか、途中で言葉を切り、誤魔化すように微笑んで部屋を出て行った。


「もうっ、藤時雨ったら。一条様も間が悪いんだから」

「あの、本当に良かったのでしょうか……」

「何が?」

「帝が会いにいらしたのでしょう?」

「そのようね。でも今は貴女との話が先だわ」


 そこまで言われてしまうと、少納言は黙り込むしかない。


「話を戻すわね。一つ提案があるのだけれど」

「……何ですか」


 自分に暇を出す以外の解決法があるはずもない、と思い込んでいる少納言は、無意識に不貞腐れた声を出してしまう。

 そんな少納言に苛立つこともせず、笑いかける定子。


「いいわよ、そんなに警戒しなくても」

「そんな、警戒だなんて……」


 少納言の否定をさらりと無視し、定子は口を開いた。


「そんなに他の女房達に姿を見られるのが嫌なら、夜だけ来てもらうっていうのはどうかしら」

「夜……?」

「ええ。夜、あたしが御帳に入れば、女房達は放っておいてくれるの。皆が寝静まった――……そうね、戌の刻から亥の刻にかけて、そのあたりの時間に来てくれれば、貴女の姿は誰にも見られないわ」

「でも、それでは定子様のお休みになる時間が――」

「そんなの、あたしが日中に大人しくしてればいいことよ。貴女には心置きなくあたしに仕えてほしいもの」


(なぜなの、この方が私にこんなにもいろんなことをしてくださるのは――……)


 嬉しいと思う反面、なぜ、と疑問に思う気持ちも混在している。そんな複雑な気持ちを抱えながらも、少納言は夜に通ってくることを約束した。





 少納言が帰ると、今度こそ定子は御簾みすを一番上まで巻き上げ、脇息きょうそくに頬杖をついた。

 手元の鈴をちりんと鳴らす。

 

「はぁい、今行きますわね~」


 のんびりとした声は藤時雨だろうか。

 程なく衣擦れの音と共に、透き通るような白い肌の女房が姿を現した。


「あら、はしたないですわよ、御簾を下ろさないなんて。――わたくしをお呼びになったということは、少納言殿はもうお帰りになりましたのね?」

「御簾なんて邪魔なだけよ――って、なんっで知ってんのよ!」


 当り前でしょう、と言うように、藤時雨は、その切れ長の瞳を細めた。

「御簾の内側に二人もいましたら流石に外から見ても気が付きますわよ」


 もぉ、気付いたなら言ってよ……、と薄紅色に染まった頬を膨らます定子。


「その場で言っても定子様は怒りますでしょ」

「まあ、そうね……」


 むしろ、少納言もいる場で指摘されたなら、怒りのほどは今のと比べ物にならなかっただろう。


「そんな前置きは置いておきまして。――なぜ定子様は、清少納言殿にあんなにも執着されるのですか」

「人聞きが悪いわね。好いていると言って頂戴」

「それは失礼致しました。慎んで訂正致しますわ」


 定子はぷい、とそっぽを向いた。


「こんなこと、貴女くらい信用できる女房にしか言わないけれど――……」


 そして意味ありげに藤時雨に視線を送る。

 藤時雨はその意味を悟り、定子にとっては幼い頃から見慣れてきた、安心できる笑みを浮かべた。


「ええ。誰にも他言致しません」

「……お父様にも?」

「もちろんですわ」

「一条様に命令されても?」

「ええ。たとえ主上であったとしてもです」


 定子は満足そうに微笑んだ。


「清少納言は清原深養父の曾孫、そして清原元輔の娘よ。知ってた?」


 清原深養父と清原元輔は、のちに三十六歌仙、中古三十六歌仙と呼ばれる歌人の一人だ。ちなみに中古三十六歌仙には清少納言も含まれている。


「有名な話ですものね。耳にしたことはありますわ」

「こういう噂話に疎い藤時雨にまで知られているって、相当な事よね……」


 それがどうかしましたの、と先を促され、定子は上目遣いで首を傾けた。


「ずっと狙ってたのよ」

「……清少納言殿を、ですか?」

「そう。初めて噂を聞いたのは、お父様からだったかしら―――……。歌人で有名な清原家の清少納言はどうやら和歌や漢詩にも造詣が深いらしい、とね」

「ああ、私が聞いたのもそういう内容でしたわね」


 宮中では、噂話など火事よりもすぐに広がる。

 清少納言の噂は、祖父や父が既に有名な歌人であったことも手伝い、いたるところで囁かれていたものだ。


「女性でそこまで才能を持っている人って本当に少ないわ。なのに田舎に閉じこもっているなんて勿体ないじゃない?だから絶対にあたしの女房になってほしかったのよ」

「でも、女房に取り立てるというお話は道隆様のご指示とばかり……」

「噂を聞いた時から目をつけていたんだもの、あたしが結構無理やりに頼んだの」


 てへっ、と舌を出す定子。

 藤時雨はため息をついたが、すぐに呆れたような笑みに変わる。


「欲しい物は全て手に入れる。それが定子様ですものね」

「ええ、そうよ」


 自信たっぷりのその笑みは、定子の性格そのものを映し出したかのようだった。

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