少納言と愉快な定子様

宵待草

第一話 美しき我が主

「少納言、そう緊張せずとも良いのよ」


 清少納言せいしょうなごんこうべを垂れた御簾みすの先――……中宮定子の座る上座から、鈴の転がるような可愛らしい声が少納言に呼びかける。


 息をつくようにええ、と答えた少納言だったが、内心はそれほど穏やかなものではなかった。


(……緊張するなと言われても無理なものは無理! 二十七になるまで大してなんにもせずに生きてきたのに急に宮仕えだなんて……。いくら身分が天と地ほど差があったって、こればっかりは道隆みちたか様を恨むわ!)


 道隆というのは定子の父親、そして、清少納言をぜひ定子付きの女房に、と取り立てたのは道隆だった。


「……少納言? ブツブツ何か言っているようだけれど、どうしたのかしら」

「いっ、いえ! 特に何もございませんわ」


 そう、と瞬きをするように言葉が落ちる。

 ……沈黙。

 沈黙はキツすぎるわ何でもいいから喋ってくれ、と清少納言がわずかに目を上げたとき。


「少納言、少しこちらにいらっしゃいな」

「――……?」


(え、宮中での〝少しこちら〟ってどれくらい!? 流石に御簾みすの中まで入るのは絶対違うし、ってことは御簾みすのほうに少し寄ればいいのかしら……)


 と、さんざん考えた末、清少納言は一寸ほど御簾みすに寄った。

 これであってるのかな、と御簾みすを上目遣いで見遣る。

 すると中から、ふふ、という笑い声が。


「こちらっていうのはここのことよ」


 そう言ったのと同時に、定子は御簾みすをそっと持ち上げた。


「姫様ッ!」


 傍に控えていた女房の慌てたように立ち上がりかけた姿と、そのひっくり返った声は、清少納言の緊張をわずかにほぐした。しかし、一瞬気が抜けてしまった清少納言は、笑いが漏れてしまわないように袖を口元に当てる。


山吹やまぶき。はしたないわよ、座って頂戴」

「申し訳ありません」


 如何いかにも渋々、といった風に座り直す、山吹と呼ばれた女房。

 生来のものなのか、はたまた先程の定子の発言の所為せいなのか、その丸みを帯びたあごはツン、と上に向けられている。

 年齢をいえば、経験を積んだ者が多い女房にしては若く見え、どうやら十七歳である定子より、いくつか年を重ねているだけのようだ。


「しかし姫様――」

「山吹はちょっとあちらに行っていて。あたしは少納言と二人で話したいの」


 まだ何か言いたそうな山吹だったが、主の命には逆らえず、苦虫を今まさに咀嚼しているような顔でその場を辞した。


「さて、やっとこれで二人っきりね、少納言」

「はあ……」


 すると、定子はするすると御簾みすを掲げ始める。


「ちょっと! 誰か来たらどうするんですか!? 女房だったらまだマシですけど殿方だったりしたら……!」

「あら、結構言うじゃない。それじゃあ緊張は解けたのね?」

「今はそういう話じゃ――……」

「そういう話よ、貴女の緊張が解けないといい関係が築けないでしょ」


 せっかく仕えてくれるのだから、やっぱりお互いに気持ちよく過ごしたいわよね、と定子は手を打ち合わせてにこりと笑う。

 少納言は、~~~~っ、と、相手が相手のためピシャリと言えないもどかしさを歯噛みした。

 半端に巻き上げられた御簾みすからは、幾重にも重ねられた十二単と艶やかな黒髪が覗いている。それらを見るだけでも、定子は美しくたおやかな女性なのだろうと容易に想像がつく。


(定子様がこんな方だとは思わなかった……。この中宮、自由過ぎる!)


「それより、誰か来たら困るのは貴女のほうではないの?」


 御簾みすから聞こえてきたのは、感情の読めないそんな声。


 ――……なぜですか、と問いながらも、少納言は内心どきりとした。

 空気が読めないような素振りはあるけれど、かと言って鈍いわけではない。

 この中宮はいったい何者なんだ、とちらりと御簾みすを窺う。


 ふふっ。

 視線を向けた先からは、相変わらず感情の読めない笑い声がした。

 笑い声だというのに何故だか不気味さを感じるその雰囲気に、清少納言は根負けして小さく溜め息をついた。


「……そちらから私が見えますかしら、定子様?」

「もちろんよ。御簾みすってものは、外側からは見えないというのに、内側の座っている側からしたら意外と見えるものね」


 そう思わない? と鞠を手渡すように問いかける。

 ええ、全くの同感です、と答えた少納言は、とある苦い思い出を思い起こしていた。


 有名な歌人である父や祖父に勧められ、何度か弟子だという男と見合いをしたことがあるのだが、一人目の男というのがそれはそれは気取ったところのある、どこか人を見下しているような男だった。

 御簾みすの内側に座った少納言の前に連れてこられた男は、御簾みすで隔てられているから、と安心していたのか、気怠そうに肘をついたり、隠そうともせず欠伸をしたりしていたのだ。

 

「あまり良くない思い出があるようね?」

「どうしてお判りに――……!」

「ただの勘。そういう殿方は一定数どこにでもいるってことよ」


 どうやら、そう言う定子も、同じような男を見たことがあるらしい。


「……そうなのですか。それでその時の殿方にも言われたのですけれど、私の髪や顔……、美しくないではないですか。……それをほかの女房方に見られたくなくて……」


 自分で言いながらも恥ずかしくなってきたのか、少納言はうねった毛先をきゅ、と握りしめた。


「そうかしら……。あたしにはよくわからないけれど。もっとこちらにいらっしゃいな。そうしたらきっと、あたしにも判るわ」

「止めておきますわ」


 あらそう、と答えた定子から目をそらし、目を伏せる。


「それに……。若くて美しくもないというのに、経験を積んでいるわけでもない。きっと皆さまから目障りだと疎まれるだけですわ」

「そんなこと、あたしはあまり気にしないわよ。まあ、でも女房達にしか判らない悩みもあるでしょうけど」


 貴女って、結構卑屈なところがあるのね、と悪気のない言葉が少納言に飛ぶ。

 見事少納言の一番の悩みにぐさりと刺さったため、表情はさらに暗くなった。


「ええそうです、わたしは何もできない卑屈な役立たずなんです! でも道隆様に言われたから。私みたいな身分が道隆様に意見できるはずもないし、だとしても何をすればいいのか判らないし――……! だからどうか、どうか私にお暇をください!」

 

 頭を床に打ち付ける寸前まで頭を下げた清少納言は、定子の言葉を待った。

 それを察した定子だったが、掛けるべき丁度良い言葉が見つからず、口を開いては閉じ、閉じては開くことを繰り返している。

 やっと捻り出した言葉がこれだった。


「……お暇をくださいと言っても、貴女まだあたしに仕え始めていないじゃない。だからあたしが貴女に暇を出すことは無理よ。強いて言うならあなたを取り立てたお父様に言って頂戴」


 お暇をくださいと言われてはいと答えるわけにもいかない定子は、わざと道隆の名前を出すことで少納言を諦めさせようとしたのだ。


(でも、やっぱりちょっと言い過ぎたかしら……)


「定子様ー? 少し宜しいですか」


 定子付きの女房だろうか、定子を呼ぶそんな声と、歩くたびにする衣擦れの音がだんだんと近づいてくる。

 ビクリとしたのは少納言だ。


「少納言! こちらに来なさい!」

「こちらって、」


 どちらのことですか、と言い終わる前に、定子に腕をつかまれ、御簾みすの中に引っ張り込まれる。定子はそのまま勢いよく御簾みすを下ろした。

 ちょうど少納言は定子に抱かれているような体勢になり、反射的に身を引こうとしてしまう。

 それを定子は腕に力を入れて止めた。


「誰にも見られたくないんでしょ。それなら黙ってここにいなさい」


 そこで初めて少納言は顔を上げた。

 影が落ちるほど長いまつ毛、それにふちどられた気の強そうな瞳。

 そして無造作に単に流されてはいるが、丁寧に梳られていることが一目でわかる髪。

 初めて見た定子の姿は、噂や想像の何倍も美しく、少納言はその横顔に見惚れたのだった。

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