少納言と愉快な定子様
宵待草
第一話 美しき我が主
「少納言、そう緊張せずとも良いのよ」
息をつくようにええ、と答えた少納言だったが、内心はそれほど穏やかなものではなかった。
(……緊張するなと言われても無理なものは無理! 二十七になるまで大して
道隆というのは定子の父親、そして、清少納言をぜひ定子付きの女房に、と取り立てたのは道隆だった。
「……少納言? ブツブツ何か言っているようだけれど、どうしたのかしら」
「いっ、いえ! 特に何もございませんわ」
そう、と瞬きをするように言葉が落ちる。
……沈黙。
沈黙はキツすぎるわ何でもいいから喋ってくれ、と清少納言がわずかに目を上げたとき。
「少納言、少しこちらにいらっしゃいな」
「――……?」
(え、宮中での〝少しこちら〟ってどれくらい!? 流石に
と、さんざん考えた末、清少納言は一寸ほど
これであってるのかな、と
すると中から、ふふ、という笑い声が。
「こちらっていうのはここのことよ」
そう言ったのと同時に、定子は
「姫様ッ!」
傍に控えていた女房の慌てたように立ち上がりかけた姿と、そのひっくり返った声は、清少納言の緊張をわずかに
「
「申し訳ありません」
生来のものなのか、はたまた先程の定子の発言の
年齢をいえば、経験を積んだ者が多い女房にしては若く見え、どうやら十七歳である定子より、いくつか年を重ねているだけのようだ。
「しかし姫様――」
「山吹はちょっとあちらに行っていて。あたしは少納言と二人で話したいの」
まだ何か言いたそうな山吹だったが、主の命には逆らえず、苦虫を今まさに咀嚼しているような顔でその場を辞した。
「さて、やっとこれで二人っきりね、少納言」
「はあ……」
すると、定子はするすると
「ちょっと! 誰か来たらどうするんですか!? 女房だったらまだマシですけど殿方だったりしたら……!」
「あら、結構言うじゃない。それじゃあ緊張は解けたのね?」
「今はそういう話じゃ――……」
「そういう話よ、貴女の緊張が解けないといい関係が築けないでしょ」
せっかく仕えてくれるのだから、やっぱりお互いに気持ちよく過ごしたいわよね、と定子は手を打ち合わせてにこりと笑う。
少納言は、~~~~っ、と、相手が相手のためピシャリと言えないもどかしさを歯噛みした。
半端に巻き上げられた
(定子様がこんな方だとは思わなかった……。この中宮、自由過ぎる!)
「それより、誰か来たら困るのは貴女のほうではないの?」
――……なぜですか、と問いながらも、少納言は内心どきりとした。
空気が読めないような素振りはあるけれど、かと言って鈍いわけではない。
この中宮はいったい何者なんだ、とちらりと
ふふっ。
視線を向けた先からは、相変わらず感情の読めない笑い声がした。
笑い声だというのに何故だか不気味さを感じるその雰囲気に、清少納言は根負けして小さく溜め息をついた。
「……そちらから私が見えますかしら、定子様?」
「もちろんよ。
そう思わない? と鞠を手渡すように問いかける。
ええ、全くの同感です、と答えた少納言は、とある苦い思い出を思い起こしていた。
有名な歌人である父や祖父に勧められ、何度か弟子だという男と見合いをしたことがあるのだが、一人目の男というのがそれはそれは気取ったところのある、どこか人を見下しているような男だった。
「あまり良くない思い出があるようね?」
「どうしてお判りに――……!」
「ただの勘。そういう殿方は一定数どこにでもいるってことよ」
どうやら、そう言う定子も、同じような男を見たことがあるらしい。
「……そうなのですか。それでその時の殿方にも言われたのですけれど、私の髪や顔……、美しくないではないですか。……それをほかの女房方に見られたくなくて……」
自分で言いながらも恥ずかしくなってきたのか、少納言はうねった毛先をきゅ、と握りしめた。
「そうかしら……。あたしにはよくわからないけれど。もっとこちらにいらっしゃいな。そうしたらきっと、あたしにも判るわ」
「止めておきますわ」
あらそう、と答えた定子から目をそらし、目を伏せる。
「それに……。若くて美しくもないというのに、経験を積んでいるわけでもない。きっと皆さまから目障りだと疎まれるだけですわ」
「そんなこと、あたしはあまり気にしないわよ。まあ、でも女房達にしか判らない悩みもあるでしょうけど」
貴女って、結構卑屈なところがあるのね、と悪気のない言葉が少納言に飛ぶ。
見事少納言の一番の悩みにぐさりと刺さったため、表情はさらに暗くなった。
「ええそうです、わたしは何もできない卑屈な役立たずなんです! でも道隆様に言われたから。私みたいな身分が道隆様に意見できるはずもないし、だとしても何をすればいいのか判らないし――……! だからどうか、どうか私にお暇をください!」
頭を床に打ち付ける寸前まで頭を下げた清少納言は、定子の言葉を待った。
それを察した定子だったが、掛けるべき丁度良い言葉が見つからず、口を開いては閉じ、閉じては開くことを繰り返している。
やっと捻り出した言葉がこれだった。
「……お暇をくださいと言っても、貴女まだあたしに仕え始めていないじゃない。だからあたしが貴女に暇を出すことは無理よ。強いて言うならあなたを取り立てたお父様に言って頂戴」
お暇をくださいと言われてはいと答えるわけにもいかない定子は、わざと道隆の名前を出すことで少納言を諦めさせようとしたのだ。
(でも、やっぱりちょっと言い過ぎたかしら……)
「定子様ー? 少し宜しいですか」
定子付きの女房だろうか、定子を呼ぶそんな声と、歩くたびにする衣擦れの音がだんだんと近づいてくる。
ビクリとしたのは少納言だ。
「少納言! こちらに来なさい!」
「こちらって、」
どちらのことですか、と言い終わる前に、定子に腕を
ちょうど少納言は定子に抱かれているような体勢になり、反射的に身を引こうとしてしまう。
それを定子は腕に力を入れて止めた。
「誰にも見られたくないんでしょ。それなら黙ってここにいなさい」
そこで初めて少納言は顔を上げた。
影が落ちるほど長いまつ毛、それにふちどられた気の強そうな瞳。
そして無造作に単に流されてはいるが、丁寧に梳られていることが一目でわかる髪。
初めて見た定子の姿は、噂や想像の何倍も美しく、少納言はその横顔に見惚れたのだった。
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