古典は読むべき?

 小説家になるには本を何冊読まなくちゃいけないという話題がありましたが、ぶっちゃけ数を読めばいいというものではないと思います。それこそ何千冊と本を読んでいる方々がみな小説家になれるかと言えばそうではないので、その辺は好きにしたらいいと思うのです。


 それだけだとあんまりなので、もし読めるなら古典も読んだほうがいいよという話をします。ここで言う古典とは、教科書に載ってるような作品です。例えば竹取物語や平家物語などの中古日本文学、夏目漱石や芥川龍之介など近代以降の小説家の作品、トルストイやドフトエフスキーなどが執筆した外国文学を指します。教科書には載ってませんが、指輪物語やフォーチュン・クエストなんかも当てはまるかもしれませんね。


 何故古典を読むべきなのかと言えば、単にハズレが少ないからです。昔の人が「面白い面白い」と言っているから今でも面白く読めるもの、それが古典です。「今風の物語が書きたいから今売れてるものをたくさん読む」も大事ですが、その前に普遍的な面白さとは何かを知ることも大切です。


 例えば超有名作品を例に出すと、今大河ドラマの題材にもなっている『源氏物語』は千年前に書かれたお話です。千年間愛されているので、その中でお話の読まれ方がかなり変わります。


 作品の中で主人公の光源氏は義理の母と契って子を成すのですが、後年光源氏は妻に裏切られて自分の子供ではない子を養育することになります。武士の時代、江戸時代などはこの部分を「因果応報、勧善懲悪」と見なしていました。もちろんそういう側面もありますが、源氏物語を知っている方ならこの見方は側面でありもっと違う読み方ができるのを知っていることでしょう。また、現代では「光源氏は10歳未満の娘を誘拐して妻にしたロリコン」という認識もありますが、それも時代による読み取りの側面でしかないこともお分かりでしょう。


 つまり何が言いたいのかと言えば、売れるために当世風のお話を書いたとしても解釈次第でいくらでも読者の受け取り方は変わります。特に「売れるため」だけを追求すると、飽きられたらおしまいです。名前だけ残っているけれど内容が伝わっていない物語も観測されています。名前が残る方がマシで、名前も残らず消えたお話もたくさんあるでしょう。


 その点、教科書に載るような作品というのは「飽きて忘れられる」というところを掻い潜ったエリート中のエリート小説です。文化や時代の差があるので多少の敷居はありますが、源氏物語は本当に現代人が読んでも共感や反発を覚える面白いお話です。そのエッセンスを「難しそうだから」で切り捨てるのは機会の損失ではないでしょうか。


 そしてそれは他の作品にも言えます。別に全部理解しなくてもいいのです。「ロミオとジュリエット」や「真夏の夜の夢」を知らなくても悲恋やファンタジーは書けるかもしれませんが、多少のエッセンスが入ることで物語に深みは増すはずです。


 別に知らなくても何も問題はないのですが、小説家として常にネタはストックしておくべきというスタンスであるなら、こういったものに対する忌避感はない方がいいと思います。


 あと純文学を勝手になにやら難しくて退屈なものと見下すことがありますが、ラノベを見下されたくなければ純文学も見下さないことが大事だと思います。お話の前に貴賎はなし。それは、エロ小説でもまとめサイトのゲスな体験談でもそうだと筆者は考えます。「これはネタ集め、ネタ集め! 」と思いながら「うちの義実家がおかしい!」「私は見た、不幸な結婚式!」「不倫女が友人の自称弁護士を連れてきたぞ!」みたいな話をずっと読んでいるのも、それはそれで勉強ですし、ね?


え、私?


小説より映画のが好きだな……。

映画ならそこそこ見たとは、思う……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る