最終章 誰も知らない物語
当番記録
周りが騒がしかった。ゆっくりと目を開けば霞んだ視界に、見知らぬ天井と見慣れない機材の数々、救急隊員と思しき人の姿が映った。
視線を右に流すと、小柄の女子高生が小さなリュックを膝の上に乗せ、紺色の傘を握り締めて不安そうにあたしを見つめている。身体がびしょ濡れだった。
腕に妙な圧迫感を覚えた。何事か見ようと首を動かしたところ、頭部に痛みが走る。それでも、血圧計のベルトが巻かれているのは見えた。また、身体に何かが吸着しているのがわかった。おそらく心電図を取られているのだろう。
どうやらあたしは救急車で運ばれているらしい。……何があったんだったか。
「自分の名前言えますかー?」
救急隊の男性が顔を覗き込んで尋ねてきた。ぼうっとした頭で考える。
名前……。あたしの、名前は、確か……。
「家の住所はわかりますかー?」
住所……? あたしは、どこに住んでいた。
あたしは……あたしは、どこの、誰だ……?
自問自答の答えは出ず、意識が再び黒く落ちていった。
◇◆◇
放課後。いや、正確にはまだどの学年どのクラスもホームルームの途中なのだが、僕はサボって図書室にやってきていた。厄介なことにうちの担任は話が遅いので、もたもたしていたら斬鴉さんが先に図書室に来てしまう。……まあ、別に斬鴉さんがいちゃいけないということもないのだが。
それでも、一人の方が気は楽だ。常木先生がいたらどうしようかと思ったが、幸いなことに見当たらなかった。……あの人、普段何してるんだろうか。図書室に頻繁に顔を出すことはないし。好都合だからいいのだけれど。
僕はカウンターを通り過ぎて資料庫へ赴く。棚を開けて、去年の『図書委員当番記録』を取り出した。
昼休みの出来事を思い出す。
「亡くなった……って」
衝撃のあまり絶句してしまう。それと同時に思い出す。そういえば、青野さんが天海さんのことを話すとき、一瞬だけ言い渋ったようだった。あれは、こういうことだったのか。
「去年の、いつですか?」
亡くなった人について根ほり葉ほり尋ねるのは良い気がしないけれど、今さら引くわけにもいかない。
丹羽さんは目を伏せ、抑揚のない声で、
「去年の十一月九日よ」
その日付に、またもや思考が吹き飛びそうになるも、どうにか踏ん張って堪えた。……十一月九日は、斬鴉さんが記憶喪失になった日ではないか。
「登校中に小学生を庇ってトラックに轢かれたらしいわ。昼休み頃、彼の一つ下の妹から何人かに連絡が着て、この学校の生徒にも伝わったの」
僕は軽い放心状態に陥っていたように思う。とある疑念に対する反論になり得る事態だったというのもあるが、やはりシンプルな驚きの方が大きいかもしれない。
「天海さんと、斬鴉さんは……どのくらい仲が良かったんですか?」
「本人に訊けば?」
どこか悔しそうに目を逸らす丹羽さん。本人が憶えていないから訊いているのだが、記憶喪失の事実を知らないのなら仕方がない。
「第三者的な視点の意見を訊きたいです」
丹羽さんが不服そうにため息を吐く。
「少なくとも、私たちよりかは確実に仲良しだったわ」
「斬鴉さん、天海さんのこと好きだったんですかね」
「だから本人に訊きなって」
つい無関係なことを尋ねてしまった。
「好きだったかは知らないけど、楽しそうではあったわよ。くれはと話してるときみたいな感じだったし」
枯木さんと同じ……ならば、あくまで同じ趣味の者同士ということなのだろうか。わからない。斬鴉さんが誰かに好意を抱くところなど、想像もつかないが。……いや、そうじゃないだろ。僕の知らない斬鴉さんを知るコーナーじゃないんだ、これは。
質問を考えていると、丹羽さんは憐れみのこもった口調で、
「でもまあ、相当なショックではあったと思うわよ。彼が亡くなったのと同じ日に夜坂、歩道橋の階段から落ちたらしいから」
僕が漫画の住民だったら、ぎくり、という擬音が身体から発せられていたことだろう。
「に、丹羽さんは、斬鴉さんが後を追って……と考えているんですか?」
「流石にそんなタマではないでしょ、あいつは。けど、呆けていて転んだ可能性はあるんじゃない?」
斬鴉さんは突き落とされたのでそれは違う。しかし、逆に犯人側に強烈極まりない動機がありそうな気配が漂ってきた。ここまで天海さんが関わっているのを、偶然と断じることはできない。
丹羽さんからの話で、僕が抱いている疑念がやや弱まったような気がしている。しかし、それでも不自然に感じてしまう。
「すみません。ちょっと話は変わるんですけど、もう一つだけ、訊きたいことがあります」
以前、別の人から教えてもらったことを、丹羽さんに尋ねてみた。まったく同じ答えが返ってきて、僕の疑念はより深まった。
『図書委員当番記録』を読み漁る。斬鴉さんは、去年の四月の第二週の段階から図書当番を務めていた。しかし、今のように金曜日の放課後以外毎日というわけではないようで、大体三日に一回くらいのペースだ。
当番記録に天海さんの名前を発見して何とも言えない気持ちになる。……この人はもう、この世にいない。一度も会ったことないし、顔も知らないのだが、妙に悲しい。斬鴉さんと関わりがあった者として、同族の感情を抱いているのだろうか。
当番記録を読み進めると、法則性が見えてきた。斬鴉さんが当番をするときは、基本的に一人か三人なのだ。斬鴉さんと二人きりは気まずいので一緒になりたくないのと、天海さんと斬鴉さんとを二人きりにしないように女性陣が立ち回っているのだと感じた。そういえば志津さんがサシでは無理だと言っていたか。
九月上旬を過ぎると、天海さんの名前がめっきり見えなくなった。転校したのだろう。それ以降は、女性陣の睨み合いが減ったからか、斬鴉さんは金曜日の放課後以外、毎日出席するようになっている。たまに複数人になるが、やはり三人だ。
そして、十一月九日から一週間休み、翌週の月曜日から復帰していた。そのときは夏凛さんと二人で当番を担当している。
これを見る限り、やはり……。
当番記録を手に苦々しい思いで資料庫から出ると、
「うわっ」
カウンターに斬鴉さんが座っていたのだ。彼女の方も急に資料庫から出てきた僕に面食らっている。……どうやら当番記録の確認に結構時間を使っていたらしい。
「びっくりしましたよ」
「それは、全面的にあたしの台詞だな」
斬鴉さんは胸を撫で下ろしながらつっこんだ。……そりゃそうか。僕より彼女の方が驚いたのは間違いない。
僕は咳払いをして真面目な顔を作る。斬鴉さんが眉をひそめた。
「どうした、変な顔して?」
「真面目な顔のつもりなんですけど」
「もっと真面目な顔の練習した方がいいぞ」
毎日お風呂上がりに鏡の前で練習することにしよう。それはともかくとして、
「話があります。昨日の続きの」
斬鴉さんがさっと目を逸らした。
「あれは、もう――」
「まだ終わっちゃいませんよ。斬鴉さんだって、本当は昨日の推理に納得していたんでしょう?」
彼女は何も答えなかった。構わない。今話したいことは、昨日の続きではあるが、また少し異なる話題なのだ。
僕は彼女の正面に回り込むと、片手をカウンターに着いて身を乗り出した。面食らう斬鴉さんに構わず口を開く。
「斬鴉さんは、天海連介さんを本当に知らなかったんですか?」
「あ、ああ。知らなかった。昨日、古町の口から初めて聞いた名前だ」
僕は斬鴉さんが先ほどまで読んでいたらしい、昨日と同じ文芸雑誌に目を向ける。
「そのブックカバーの送り主のこと、ずっと疑問に思っていたって言っていましたよね。その送り主に心当たりがないか、誰にも訊かなかったんですか? そう、例えば――」
斬鴉さんが手で制してきた。
「お前の言いたいことは、大体わかった」
そう、か……。考えてみれば当たり前か。僕が気づくようなことを、斬鴉さんが気づいていないわけがなかったのだ。
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