考察 その四

 僕はもう、疑問を口にしていけばいいだけかもしれない。

「持ち去ったのは犯人なんでしょうか。犯人が逃げた後、第三者がやってきて……というのもあるのでは?」

「絶対にないとは言い切れないが、無関係の人間がそんなことするか? 人間の有無は見回せばわかるだろうが、車が通るタイミングはわからない。階段の下で倒れている人間のバッグを漁っているところをドライバーに見られたら、最悪の勘違いをされるぞ」

 五時半なら、あの道は結構交通量が多い。流石にそんな愚かな真似はしないか。

 事件当日、斬鴉さんは私物である謎の文庫本を読んでいた。帰る途中、何者かに歩道橋の階段から突き落とされて、犯人は謎の文庫本とそれを包んでいたブックカバー、そして中にあった栞を持ち去った……ということだろうか。意味不明な記憶から、随分と推理が進展したものだ。真実かどうかはさておいて。

「謎の本についてはもう考えることはなさそうですね」

「何を言っている。タイトルを憶えていない理由が不明のままだ」

 そうだった……。それがまだ残っていたか。

「ここであたしが納得できる推理を組み立てられないと、これまでの時間がパーだな」

 それは避けたい。……たまたま謎の文庫本だけタイトルを忘れてしまった。それで済む話ではあるかもしれない。しかし、重要なのは斬鴉さんが納得するかどうかだ。それに、

「他に、本のタイトルだけ欠落した記憶はないんですか?」

「ないな。おかしな記憶は謎の文庫本と『乱世の怪盗団』だけだ」

 やはり、謎の文庫本だけタイトルを憶えていないのには、理由がある気がしてならない。記憶喪失になっても本のことを忘れないほど、本を愛している人が、一冊だけ、それも直前に読んでいた本のタイトルを偶然忘れた? あり得ないね。あるわけがない。

 理由……本のタイトルを憶えていない、理由……。何も思い浮かばない。『乱世の怪盗団』と謎の文庫本に何か違いがあるのだろうか。案外、特殊な事情ではなく、シンプルな理由かもしれない。ちょっとした違いで保有する記憶に差が出るなら、他の記憶にも差異が表れる気がする。規則正しい記憶ばかりにはならないだろう。

 頭を捻った末、雑巾の絞りカスのごとき推理が漏れてきた。

「実は、忘れたんじゃなくて、最初からタイトルを知らなかった……とか。すみません。何でもないです」

 言ってて恥ずかしくなり顔を伏せた。

「普通に考えて手にした時点でタイトルを見ますし、タイトルも知らない本を読もうとするなんて――」

 初めてだ。初めて斬鴉さんが図書室で大きな声を発した。

 僕は勢いよく立ち上がった斬鴉さんをぽかんと見つめる。彼女は興奮したような面持ちで見下ろしてきた。

だよ! 手にしてもタイトルを知らない。タイトルを知らないけど読もうとする。文庫Xなら説明がつく!」

 斬鴉さんが何を言っているのかさっぱりわからない。

「文庫Xって、なんですか?」

 途端に落胆の表情を向けられた。

「どうして記憶喪失のあたしよりものを知らないんだ」

「す、すみません。……何なんですか、それは?」

「文庫Xは数年前に、ある書店が特殊な方法で売った文庫本だ。店員のコメントが書かれたブックカバーとビニールで包んで、本のタイトルと中身を隠して売る。これがかなり話題になった……らしい」

 らしい、という言葉が妙に物悲しい。

「じゃあ謎の文庫本は、その文庫Xってことですか?」

「いや、本物の文庫Xは読んだことがあった。謎の文庫本の正体ではない。可能性としては、体裁を真似した手製の文庫Xだろうな」

「なるほど……。でも、文庫Xも買う段階でタイトルがわからないだけで、読むときにはわかりますよね?」

「当然わかる。ブックカバーを外せば表紙が見れるし、扉にはタイトルが記されているからな。けど、そこが付箋か何かで隠されていたとしたら?」

 そ、それってまさか! この前、枯木さんと話していた……、

「小説の、ですか?」

 斬鴉さんはこくりと頷いた。

「自前で作るのは無理がある。書店が客にそんな酔狂なことさせるために本を売るわけがないから、誰かに作ってもらったんだろうな。けど、母さんも夏凛も家庭教師をしている子も、謎の文庫本の話をしても心当たりはなさそうだった。他にしてくれそうな相手は誰もいない……。違っていたみたいだな」

 自分の人間関係の薄さに斬鴉さんはため息を吐いた。興奮していただけに反動があったのか、がっくりと椅子に腰を落としてうなだれている。

 しかし僕には、一人だけ、心当たりがあった。

「天海連介さんじゃないですか?」

 去年の文化祭前に転校した、斬鴉さんの一学年上の図書委員。学校にはいないが、郵送で本を送ることはできる。

 斬鴉さんはきょとんと首を傾げた。

「誰だ、それ……?」

 思わず、目を見開いてしまった。…… 記憶喪失なのだ。そりゃ面識はなくてもおかしくない。けど、名前も知らないのか。

 これは、どういうことなのだろうか。一つの疑念が浮かんだが、ここはひとまず天海さんの説明をすることとしよう。

 天海さんについて知った斬鴉さんは非常に驚いたようだった。

「仲の良い先輩がいたのか……あたしに……?」

 未だ半信半疑のようだが、

「まさか!」

 次の瞬間、斬鴉さんは弾かれたように手元の単行本の表紙を捲った。本のそでで折り返された布製ブックカバー下部を指差す。先日気になった、白い刺繍がそこにはあった。『K.Y』とある。

「なんですか、これは? 空気読めない……って、とっくに死語ですよ」

「あたしのイニシャルな」

 あ、そっちか。気を取り直して、

「これがどうかしたんですか?」

「重要なのはこっちだ」

 斬鴉さんは本をひっくり返すと、裏表紙を開いた。同じ位置に『R.A』という刺繍がある。……これは、もしや。

「ずっと疑問だったんだ。このブックカバーの送り主。プレゼントをくれたのに、まったくコンタクトを取ってこなかったからな。今、合点がいった」

 天海さんからのプレゼントだったのか……。転校しているから会うことがなかったんだ。そうなると、どうなる? 偶然なのか、これは。

 困惑しながら口を開く。

「斬鴉さん、このブックカバーは単行本用ですけど、文庫本用のはありますか?」

「いや、持ってない」

「じゃあ、謎の文庫本と一緒に、盗まれたのかもしれません。栞もそのときに……」

 斬鴉さんが顔をしかめた。

「どういうことだ? どうしてそんなことがわかる?」

「僕が初めて斬鴉さんを見たとき、文庫本にこのブックカバーと同じデザインのものを付けていたんです。それから、同じ布を使っている栞も持っていました」

 斬鴉さんは頭を抱えた。それから大きく息を吐き、

「だからか……。さっき言った気がするが、記憶喪失になったとき、家にブックカバーと栞が二、三枚しかなかったんだ。最近発売されたばかりの文庫本は、何冊もあったのに」

 確か斬鴉さんは、文庫本を買う度にブックカバーを貰っているんだったか。にも関わらず数が少なかったのは、

「劣化しにくく、優先して使いたいブックカバーを他に持っていたってことですね」

 犯人にブックカバーを持っていかれたことは間違いなさそうだ。栞だけ事件の前に紛失したとも考えにくいので、おそらくこちらも。

 謎の文庫本が天海さんからオススメされた特製の文庫Xかどうかは、何の証拠も根拠もない。……いや、可能性はかなり高い。記憶の中で、斬鴉さんはブックカバーのずれを何度も直していたらしい。その理由はおそらく、本の装丁カバーと文庫Xにするための紙のブックカバー、そして私物のブックカバーを

 通常、ブックカバーは装丁カバーとそれを隠すブックカバーの二枚重ねまでしかしない。斬鴉さんは作品のタイトルを見ないために、文庫X用のカバーを外さず、その上に布のブックカバーをつけたのだ。それによって本のサイズが微妙に変わったり、単純にカバーが増えたこともあって、カバーがずれる機会が増えたのだろう。

 文庫本と同時に天海さんからの贈り物と思しきブックカバーや栞も持ち去られたとなると、推理に奇妙な説得力が伴った気がする。

 全てが天海連介さんに帰結しているのだ。僕も斬鴉さんも、推理がそこへ向かうよう調整していたわけではない。しかし、偶然にしては、あまりにも……。

 口を開きかけたところ、先に斬鴉さんが力なく呟く。

「謎の文庫本は、天海って人から貰ったものじゃない。文庫Xは、あたしの早とちりだ」

「え?」

 まさかのちゃぶ台返しに二の句が告げなくなった。

「あたしが何度もブックカバーのずれを直していたのは、単純に天海とやらのブックカバーが本に合ってなかったからかもな」

 急に、どうしたのだ? そんなことはないはずだ。僕が初めて斬鴉さんを見たとき、そのブックカバーを付けた文庫本を片手で優雅に読んでいたではないか。それに、三百ページなんて小説によくあるページ数だろう。これに合わなかったらブックカバーの意味がない。天海さんだって読書家だったらしいから、贈る前に確認くらいしそうなものだ。

 僕はそれを言おうと口を開きかけたが、タイミングが悪くチャイムが重なった。気が抜けて、何も言えなくなる。

 僕たちの推理は、ここで打ち止めとなった。


       ◇◆◇


 翌日の昼休み。僕は三年生の教室へ向かった。青野さんから、天海さんについて詳しく訊くためだ。斬鴉さんの様子が急変した理由も気になるが、どうしてももう一つ、調べなければならないことがある。

 上級生がひしめく廊下を進んでいく。よく上級生の教室がある階層には近づきにくいという人がいるけれど、僕はその質ではないようだ。思えばこれまで、放課後でもないのに上級生に会いにいくことはなかった気がする。

 三年B組の教室を覗く。大体、クラスの半分くらいの生徒が残って弁当箱を広げていた。青野さんの姿を探すが見当たらない。

 間が悪くトイレにいってしまっているのか、はたまた学食にいるのか。後者だとしたら探すのが面倒だなあ……。

 昼休みに会いにきたのは失敗だったかもしれない。出直そうと思ったところ、

「古町? どうしたの?」

 背後に丹羽さんがきょとんとした顔で立っていて驚いてしまう。

 そうか、彼女もこのクラスか。……ちょっと気まずい質問をしてしまうけれど、この際気にしていても仕方がない。

「すみません。ちょっと、去年転校した天海さんのことで訊きたいことがあるんです」

 その名を出した途端、丹羽さんは寂しげに目を伏せた。感情の抜けた声音で、

「どうして知りたいの?」

「それは……まあ、色々と……」

 足だけ急いでいて、頭が追いついていなかった。尤もらしい理由を用意するのを忘れた。事情を正直に話せるわけもない。

 硬直していると、丹羽さんが自身の短い前髪を撫でる。

「大方、夜坂と仲の良かった男子が気になるってところかしら?」

 おいおい。

「……まさか、纐纈さんや志津さんから聞きました?」

「どうしてそこであの二人が出てくるのかはわからないけど、見てればわかるでしょ。同じ穴の狢なんだから」

 ……そういうものなのか。僕は誰の目から見てもそう映っているのだろうか。怖いと称されることの多い美人の先輩に付きまとっているのだから、そう思われても仕方のないことだが。

「まあ、大体そんな感じです」

 実際、二人がどんな関係だったのか気にしていないといえば噓になる。

 丹羽さんは壁に背を預けて遠い目になった。

「連介君のことだけど、もうあなたには関係ないと思うわよ」

「どうしてですか?」

 首を傾げると、丹羽さんは僅かに言い淀むも、意を決したようだった。

「連介君は去年、

 全ての思考が吹き飛んで、頭が真っ白になった。

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