考察 その三
わかったことをまとめてみよう。まず、謎の文庫本の記憶は、事件の直前に斬鴉さんの身に起こった出来事だ。すなわち斬鴉さんは謎の文庫本を記憶喪失に陥る少し前まで読んでいたと考えられる。そして、それは図書室の本でも図書館の本でも、個人間で貸し借りしたものでもない。斬鴉さんの私物であると推測できる。
「考えるべきことはもう残り少ない。文庫本はどこへいったのか……。考えられるのは――そうだ」
斬鴉さんの顔が硬直した。そして次の瞬間には頭を抱え、心の底から自虐的なため息を吐き出した。
「そうだよ。そうだった。もっと早く気がつくべきだったんだ。この馬鹿……! 自分のことをこんなに馬鹿だと思ったのは記憶喪失以来初だ」
「何か、わかったんですか?」
これまで見たことのない斬鴉さんの様子を心配しつつ尋ねる。彼女はスマホを取り出すと、先ほど見せてくれた事件当日の所持品を集めた写真を提示してきた。
「ここに、写っていなければいけないものが写ってない」
僕は画面に顔を近づけて観察する。絶対確実に関係ないものは、関係ないのだから関係ないよね。
そうか。確かに、あるべきものがない。話の流れ的にすぐわからなければならなかったな。
「栞がありませんね」
斬鴉さんが力なく頷いた。この写真には、先ほど話題になった栞が写っていない。『死と鮮血』を読むのにも、謎の文庫本を読むのにも使うはずだろうに。
「栞を持っていなかったということは、まだ図書室の本という可能性が生きているわけですか」
せっかく一、二歩は進んだと思ったのに……。落胆したが、斬鴉さんが言いたいのはそういうことではないらしく、
「それだとあたしの記憶と矛盾するだろ。あたしが読みたいページをピンポイントで捲れた理由に説明がつかない」
「あ、そっか。じゃあ、栞の代わりに何かを挿んでいたってことですかね」
「その代わりになるものがないんだ」
今一度、写真を見る。ノートや教科書は無理があるだろう。文房具――定規とかならいけそうだが。
「斬鴉さん、定規持ってます?」
「当然だろ。けど、あたしが定規を栞代わりに使うような人間に見えるか?」
見えません。定規では厚みがありすぎて、本に変な癖がついてしまうだろう。それに、授業で使う可能性もあるし。
代わりにするなら紙と同等くらいに薄いもの……。それから、授業や生活で使う機会のないもの。下敷きなんかは駄目だろう。ハンカチも使うから栞代わりにはできない。自分が使わないものというと、
「ノートの切れ端や教室のティッシュとかですかね」
「少なくとも、ノートに千切られた痕跡はなかったな。それに、よく見ろ。そんなもの所持品にないぞ」
そうか。ノートの切れ端もティッシュも写真には写っていないのだ。捨てた……というのは、ないか。謎の文庫本は途中までしか読めていないのだ。家に帰る際にも栞として使ったはずなのだ。存在が不確定な謎の文庫本を差し引いても、図書室で新たに本を読み、借りるかもしれないのだから、捨てずに一応は残しておきそうだ。
まさか絶対確実に関係ないものを使ったわけではあるまい。
「このプリントとかどうでしょう」
「折り目も皺もない。文庫より面積が広いから、折らずに本に挿んだらバッグの中で皺くちゃになるぞ」
むむ。ならば折り目のつかないクリアファイル……は頻繁に使うか。
栞代わりになるものも見当たらないが、そもそも、栞を持ってくるのを忘れたとも思えないのだ。『死と鮮血』は五百ページもの大作だ。斬鴉さんはそれを事件のあった日に読み終わったという。朝、登校するまでの時間と学校の休み時間だけで読み切れるとは思えない。となれば当然、昨日からの続きとして読んだはずだ。その際に必ず栞は挿むはずで、忘れるなんてことにはならないだろう。
頭がこんがらがってきた。僕は両手を挙げて降参の意を示す。
「わかりません。斬鴉さんは、何が言いたいんですか?」
「栞も、栞代わりになるものもない。記憶の上ではあったはずなのに、だ。それは、謎の文庫本も同様だな」
「一緒になくなった……ってことですかね」
「栞は本とともにあるものだ。そう考えるのが妥当だろう。……もっと早く気がつくべきだったよ。本を奪われたという可能性に」
……あ、そうか。斬鴉さんは帰り道、何者かに突き落とされたのだ。その人物がただ斬鴉さんを傷つけることが目的だったとは限らないのか。意識を失った斬鴉さんの持ち物から、本を盗んで逃走することもできる。
本を落としたと考えるより、こちらの方が現実的だ。斬鴉さんは再び写真に目を落とす。
「この写真にはもう一つ、他人からしたら別に不自然でもないが、あたしからしたら不自然な点がある。……ブックカバーも写っていないんだ。あたしは自分の本には必ずブックカバーを付けて読むのにな」
そういえば、さっきも言っていたか。本のおしゃれだとかって理由のはずだ。これは決定的と言えるかもしれない。
「謎の文庫本にはブックカバーと栞が付属していて、犯人が斬鴉さんを突き落としたときにまとめて持ち去ったのか……」
おそらく最初は『死と鮮血』にブックカバーを付けていて、読み終えたので謎の文庫本に付け替えたのだろう。以前、斬鴉さんが新しく読む本にカバーを付け替えているのは見た。他に本がなかったら、それらはまだ『死と鮮血』を宿主としたままだったはず。まさか犯人が栞とブックカバーだけを盗んだわけではあるまい。先の開かずの本の際にも議論したが、いちいち取り外すくらいなら本ごと持ち去る。文庫本はもう一冊あったと考えるのが妥当だ。
……斬鴉さんの記憶にある、表紙を隠していた黒いような青いようなモヤは、ブックカバーだったのかもしれない。
となると、あれか……?
謎の文庫本が本当に当日読んでいたものかどうか、可能性が高いというだけで正確にはわかっていなかった。しかし、文庫本がもう一冊あったという事実と、行方不明の謎の文庫本を組み合わせれば、斬鴉さんは謎の文庫本を事件の直前に読んでいたのだと思わざるを得ない。
斬鴉さんがこの事実に気がつかなかったのは、おそらく過去と現在の自分を同一視できていなかったからだ。現在の自分がそうしても、過去の自分がどうなのかはわからない。しかし、僕によって斬鴉さんの考えが少し変わってくれたらしい。それだけで、この推理を始めた甲斐があったというもの。
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