怪しい人

 五時半が近づいてきた。今日もさほど利用者はおらず、返却された本は一冊もなかった。時間になればすぐにでも帰ることができる。

 雨の降る量はいつもと変わらない気がするが、心なしか今日は雨音が大きく感じた。もしかしたら、図書室が普段より静かだからかもしれない。

 僕も斬鴉さんも、黙ったままカウンターに座っていた。お互いに読書などもしていない。あれから互いの考えをいくつか照らし合わせた。見解が一致するところもあったが、相違がある箇所もあった。

 そして、それっきり、現在に至るまで会話がない。ギスギスしたとか、気まずいだとか、他に話題がなかったとかではなく、僕は今日これから大きく体力を消耗する気配を感じ取り、エネルギーの温存を図ったのだ。おそらく斬鴉さんも。

僕たちははっきり聞こえる雨の音に耳をすましつつ、ただ二人で人を待っている。

 時間的にもうすぐ来るはずなのだが……。そわそわしていると、ついに扉が開いた。

「うぃーす。こんな時間に呼び出して、何かあったの?」

 怪訝そうに首を傾げながら夏凛さんが入ってきた。

 僕と斬鴉さんは顔を見合わせると、立ち上がってカウンターから出る。二人で夏凛さんと向き合った。

「ど、どうしたの……?」

 物々しい雰囲気を醸し出す僕らに、夏凛さんはやや身構えた。

 前置きも必要ない。重要なことだけ尋ねていこう。

「夏凛さん、斬鴉さんに隠していることがありますよね?」

 睨む……というほどのものではないが、力強い視線を夏凛さんにぶつける。彼女はすぐに察しがついたようでやや目を伏せた。

「もしかして、天海くんのこと……? 光太郎くん、丹羽ちゃんに彼のこと訊いたんだってね」

 口止めしたわけではないので、おそらく丹羽さんから漏れたのだろう。……それにしても口軽いが。

「それもあります。斬鴉さんには、もう話しました」

 夏凛さんは斬鴉さんを真っ直ぐ見据えると、深く頭を下げた。

「ごめんなさい。本当は言うべきだったんだけど、記憶を失った日に仲の良かった人が亡くなっていたなんて知ったら、きっとキリちゃん混乱すると思ったの……。教えるタイミングを見計らってたけど、言えずにズルズルここまで来ちゃって……」

 それは、至極納得できる理由である。僕のある疑念に対しての、圧倒的なまでの反論だと言える。……しかし、付け入る隙はあった。

 神妙な面持ちで黙り込む斬鴉さんに代わって僕が言う。

「教えるタイミングならあったはずです」

 カウンターに置かれたままになっていた斬鴉さんの文芸雑誌――に被せられたブックカバーを手に取る。裏表紙を開き、『R.A』のイニシャルを指差した。

「このイニシャルの持ち主を、斬鴉さんに訊かれたはずです。 斬鴉さんと関わりのあった『R.A』なんて、流石に察しがつきますよね」

 夏凛さんは慌てたように目を泳がせた。

「そ、それは……天海連介だから、イニシャルは『A.R』だと思って……」

 うん、まあ、夏凛さんなら有り得なくはないか……いや、んなわけあるかい。

 僕はため息を吐き、

「もうそれでいいです。……僕が言いたい隠し事の主題はここじゃありません」

「じゃあ、他に、何を……?」

 ここからさらに追い詰められることを察したのか、夏凛さんの声がやや裏返っていた。やや心苦しいが、引くわけにはいかない。

「夏凛さん。斬鴉さんと仲良くなったの、去年のいつ頃からですか?」

「……え? 何を、言いたいの?」

 夏凛さんは困惑の表情を浮かべる。僕は深呼吸をした。

「夏凛さんは元々、

 目の前の三年生はきょとんと首を傾げると、すぐに口に笑みをたたえた。

「嫌だなあ、光太郎くん。何言ってるの? 私と斬鴉ちゃんは……そう、去年の九月からの付き合いだよ。どうしてそんなこと訊いちゃうわけ?」

 あまりにも自然な口調に、推理が間違っているのではないかと、自信がなくなってくる。けど、もうやるしかない。

「青野さんと丹羽さんから聞きました。斬鴉さんと夏凛さんはいつの間にか仲良くなっていたと、二人は言っていましたよ。みんな驚いていたって」

 昼休みに丹羽さんへ最後に尋ねた質問がこれだった。

 夏凛さんは不満そうに目を細める。

「みんなが知らなかっただけでしょ」

「そうですね。青野さんから聞いたときはそう思いました。二人が仲良くなった過程を見ていないんだ、って。……けど、斬鴉さんが記憶喪失だと考えたら、別の可能性も見えてきます。文字通り、いつの間にか仲良くなった……過程をすっ飛ばして友達になったという可能性です」

 つまり、記憶喪失の人間に対する、俺お前と付き合ってたんだよね、というあれの友達バージョンである。周りは斬鴉さんの記憶喪失のことは知らないので、いつの間にか仲良くなったようにしか見えない。

「そんなの、何の根拠もない推測でしょ? 私たちの友情にケチ付けようだなんて、いくら光太郎くんでも怒るよ?」

 ぷくりと頬を膨らませる夏凛さん。その姿からは、言い逃れをする詐欺師のようなみっともなさは見られない。……もしかして、本当に僕の間違いなのではないか。この期に及んでそう思ってしまう。

 いや、自分の推理を信じろ。この推理に頷いてくれた斬鴉さんを信じろ。

 僕はカウンターに置いておいた去年の当番記録を手に取った。

「二人は去年の九月に仲良くなったと言いましたよね。そのきっかけは確か、斬鴉さんが夏凛さんの好きな推理小説のシリーズを読んでいたから」

「そうだよ」

 夏凛さんはよどみなく頷いた。僕は続ける。

「その後も度々一緒に当番を重ねて、仲良くなったと言っていましたね。……けど、この当番記録を見る限り、そうは思えません。だって、

 ようやく、夏凛さんの表情が引きつった。手応えを感じつつ、九月のページをめくる。

「確かに、九月に夏凛さんと斬鴉さんは何度か一緒になっていますけど、必ず間に誰かいます。目撃者がいたら、いつの間にか仲良く、にはなりません。ただでさえみんな口が軽いのに」

「キリちゃんが一人のときに、実は私もいたんだよね。当番記録に名前を書くのを忘れていただけで……」

「斬鴉さんがそんなことを許すわけがないでしょう。過去の斬鴉さんも、そういうところがあったと志津さんが言っていましたよ」

 僕に気圧されたのか、夏凛さんが半歩下がった。目を伏せ、ほとんど泣きそうな顔になっている。しかし、

「違う……。私は、本当にキリちゃんの友達だったもん」

 決して認めようとしなかった。……こうなると、最後のカードを切るしかない。

 僕はバクバクとうるさい心臓を落ち着かせるべく深呼吸をして、

「実は、斬鴉さんは以前からとある記憶を思い出していたんです」

「とある……記憶?」

 夏凛さんがちらりと斬鴉さんを見た。訝しげに眉をひそめている。

 僕の口調は、自然と厳かなものになった。

「何者かに、歩道橋の階段から突き飛ばされる記憶です。もしかして――」

 夏凛さんが犯人なんじゃないですか? と、訊こうとした。しかし、目を見開いて衝撃を受け、表情を硬直させる彼女を見て、自分の考えが間違っていたことを瞬時に悟った。

 これは、どう見ても演技の表情ではない。その事実を初めて知った、という顔なのだ。

……違ったのか。そうだよ。夏凛さんが、そんなことするわけがなかったのだ。

 ほっとしたのも束の間、

「そうだよ」

「……何が、ですか?」

 毅然とした口調で頷く夏凛さんに、僕は首を傾げた。

「光太郎くんが言おうとしたことで間違いないよ。……キリちゃん――夜坂さんを突き落としたのは、私だよ」

 嘘だ……。声が震えていて、やや上擦っている。目線もあちこち動いている。先ほどの反応と合わせて、これを信じる者はいないだろう。

 夏凛さんは目を泳がせながら、

「私も、天海くんのこと、好きだったから。亡くなったって聞いて、混乱してて……ちょうど前を夜坂さんが歩いてたから、それで、押して……」

 僕と斬鴉さんは顔を見合わせる。これは一体、何が起きているのか。

 事態がさっぱり飲み込めないが、とりあえず話に乗ってみよう。

「じゃあ、斬鴉さんから持ち去ったも何かわかりますよね?」

「え、ああ。うん……あれね、あれ。何だっけ……?」

 ……駄目だ、この人。次いで斬鴉さんも口を開く。

「持ち去られたのは本なんだが、それと一緒に盗んだものも教えてほしい」

「そ、それは……えっと、忘れちゃった、けど……」

 斬鴉さんが大きくため息を吐き、僕に呆れたような目を向けてくる。

「だから言ったろ。夏凛は犯人じゃないって」

「そうみたい、ですね。安心しました」

 斬鴉さんは、夏凛さんが友達ではないということには納得しつつも、彼女が犯人であるということには否定気味だったのだ。

 夏凛さんが弾かれたように顔を上げた。

「ち、違う! 本当に、私が――!」

「あの記憶が蘇った時点で、最初に疑ったのは夏凛だった。……前々からの友達って嘘にも、何となく気づいていたからな。そのときに違うと確信したから、今まで一緒にいたんだ」

 力強い斬鴉さんの言葉に、夏凛さんは瞳を潤ませて口を噤んだ。

「あたしは右手で背中を押された。夏凛はあの日もリュックだったから、両手はフリーのはずだ。自分の非力を自覚していれば両手を使っただろう。あの歩道橋の階段はスロープがあるから、勾配が緩く段差が低い。力が弱いと、押し出されるだけで転げ落とすことはできない」

 夏凛さんが犯人とはもう思っていないが、一応反論しておくことにする。

「雨が降っていたなら、片手に傘を持っていたんじゃないですか? 確か、斬鴉さんの記憶では押される直前に、傘に何かがぶつかっているわけですよね。これは、犯人と自分の傘が接触したと考えるのが自然では? だから勝算が低くとも右手一本で実行した」

 斬鴉さんは頷き、

「同意見だ。犯人は傘をさしていたと、あたしも思っている。けど、傘を盗まれて雨が小降りになるのを待っていた夏凛は、傘を持っていなかったんだ」

「でも、そんなの何とでも――」

「救急車で少しだけ目を覚ましたとき、夏凛は傘を一本しか持っていなかった」

 話が見えなくなる。

「いや、持ってたならおかしくないですか?」

「おかしくない。あの傘は、あたしの傘だったんだからな」

 なるほど。そういうことか。最初からそう言えばいいのに。

「それに……」

 斬鴉さんは柔らかい笑みを浮かべ、呆然と立ち尽くす夏凛さんの傍へ歩み寄った。その右手を、両手で優しく握り締め、

「夏凛の手は小さすぎる。お前が犯人じゃないことは、すぐにわかった」

 夏凛さんの顔が歪み、瞳から涙が溢れてきた。頬を伝う雫を左手で拭い、

「ごめん……ほんとに、ごめんなさい。でも、気付いてたんなら、言ってよ……」

 確かに。悪いのは夏凛さんだけど、意地が悪いのは斬鴉さんだ。友達というのが嘘だと悟っていたらしいのに。

「でもまあ、キリちゃんなら、すぐにわかるよね……。あんな咄嗟についた嘘」

「すぐにわかったわけじゃない。あの後、何度も体感したからな」

 咄嗟についた嘘……というのは、おそらく記憶喪失になった斬鴉さんに友達を騙るときのことだろうか。果たして、体感とは?

「それって、どういうことですか?」

 首を傾げながら尋ねると、斬鴉さんは呆れたようなため息を吐いた。

「古町は妙なところで鋭いくせに、肝心なところで鈍いな」

 ……それって、ただの役立たずでは?

 呆然としていると、斬鴉さんは指を一本立てて教えてくれる。

「夏凛は校門の前から、歩道橋に足を運ぶあたしの姿を遠目に見て、後を追ったって話だったよな。けど、十一月の、雨の降る日のことだぞ? 調べたけど、当時のこの市の日の入りは四時半だった。学校前の坂は西側が竹林に覆われているから、町の明かりも届かない。街灯も校門のすぐ手前にしかない。真っ暗な五時半に、遠くにいるのがあたしだと気づけるわけがないんだよ」

 そうか……。僕はまだ日の長い期間しか学校に通っていないのであまり想像つかないが、記憶喪失になって以降も日が落ちた坂を歩いていた斬鴉さんには、それがよくわかるのか。

 いや、日が長くとも、昨日僕は遠くを歩いていたのが梅木さんだと、すぐには気づかなかった。単純に距離があるだけでも、わからないものである。

「見えたとしても、ぼんやりとした人影だ。女子が傘をさして歩いている、くらいはわかるかもしれないが、それが夜坂斬鴉だとは認識できない。たぶん、咄嗟に事実と反対のことを言ってしまったんだな。本当の友達だったらわざわざそこを偽る必要はない」

 事実と反対のこと……見てないものを見たと、友達でないのに友達だと言ってしまったわけか。

 夏凛さんは頷いた。俯きがちに呟く。

「私が本当に目撃したのは、傘をさして歩く二人の女子の人影だったの。前を歩いていた女子はたぶんキリちゃん。そのちょっと後ろをもう一人が歩いてた。坂を下りて、車の通りが激しかったから私も歩道橋を使ったら、階段の下でキリちゃんが倒れてて……。ほとんど話したこともなかったし、雰囲気で怖がってたんだけど、天海くんのこともあったからほっとけるわけがなかったんだ。救急車を呼んで、救急隊の人に友達って言って同乗させてもらったの」

 彼女は斬鴉さんから目を逸らし、

「友達って言った手前、治療が終わるまで帰るわけにはいかなくて、おまけに記憶喪失とか言われて……。お医者さんが私のことを友達って紹介しちゃったから――」

 後に引けなくなったわけだ。

「友達って嘘を吐くときに、反射でキリちゃんは一人で歩いていたって言っちゃったんだ。まさか、突き落とされたなんて思わなかったし……。親しい人もいそうにないし、本当に仲の良かった相手は亡くなったばかりで、一人にするのは可哀想だから、このまま、私が友達になろうかなって……」

 夏凛さんは再び涙を流す。

「騙してて、ごめん。……正体がわからない敵がいるより、敵が私の方が、安心できると思って、犯人だって嘘ついた」

 斬鴉さんはゆっくりとかぶりを振り、

「あたしは騙されたなんて思ってない。そもそも、夏凛に騙されるあたしじゃないからな」

 強気に笑う彼女に、夏凛さんは苦笑した。

 しかし斬鴉さんはすぐに穏やかな笑みを浮かべ、

現在いまのあたしの友達は夏凛だけだ。……だから、どこの誰かもわからない奴が犯人より、お前が犯人の方が、よっぽど傷つく」

 夏凛さんが斬鴉さんの胸に飛び込んだ。斬鴉さんは、優しく彼女の頭を撫でていた。

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