心理テスト
「突き落とされた……って、誰にですか⁉」
図書室においては不適切なほど大きな声を出してしまった。利用者はいないが普段の斬鴉さんなら窘められるところだ。しかし彼女は気にする素振りは見せず、
「わからない。……謎の文庫本を探していて、唯一思い出した記憶だ。歩道橋の階段を下りていると、さしていた傘に後ろから何かがぶつかった。それとほぼ同時に誰かの右手が背中を押し出してきた」
斬鴉さんは首を後ろに向け、目線を自身の背まで下げた。
「嫌なことで、押される感覚まで思い出している。犯人の右手は、たぶん素手だったな。これといった特徴もなさそうだ。その後身体が浮遊して……一瞬、背後に誰かが立っていたのが見えた気がするんだが、ここでぷっつりと記憶が途切れている」
彼女は一旦言葉を切ると、
「……このことは、警察にも話してない。どうにも、怖くてな」
憔悴したような表情で呟いた。僕はゆっくりと口を開く。
「……記憶を取り戻したとき、再びその何者かに襲われるのが、ですか?」
自分で尋ねておいて、ないな、と思う。やはり、斬鴉さんはふるふると小さく首を振った。
「記憶喪失のことは一部の人間しか知らないんだ。あたしの記憶なんて、犯人には関係がないことだよ。もう一度襲うつもりなら、とっくにやっているだろう」
「……じゃあ、一体?」
斬鴉さんが自身の長い髪に僅かに触れる。
「過去の自分が、人から突き落とされるほどのことをしたんじゃないかって……あたしは、それを知るのが怖い」
極端な例が頭に浮かんだ。人を殺しました。色々あって記憶喪失になりました。お前人殺しなんだよと言われました。……絶対、嫌だな。人を殺したのが確定ではなく、あくまでも容疑者の立場だったとしても……絶対に嫌だ。果たして、記憶のない自分のことをどこまで信用できるだろうか?
……少し意外だ。斬鴉さんでも、そんな人並みの感情を抱くのだと。どうやら僕は彼女のことを少々神格化していたらしい。神どころかラーメン扱いしておいてなんだそれはという話だが。
思っていた彼女と違うからと言って、別に失望したなんてことは断じてない。むしろ親近感すら抱く。彼女も、一人の弱い人間なのだと。
……彼女の言うそれは、自分自身の中での話だろう。斬鴉さんには、僕がいる。
お気楽に笑って見せた。
「斬鴉さんは、そんなことしませんよ。悪戯に人を傷つけたりしません。確かに、苛烈なところはありますけど、傷つけるつもりで傷つけないでしょう。きっと真面目な斬鴉さんを犯人が逆恨みしただけです」
ありそうなことだとは思う。本絡みのことで人とトラブルを起こしていても不思議ではない。けど、そういう場合は必ず相手に非がある。斬鴉さんは悪くない。と、考えてしまうのは流石に盲目的すぎるだろうか。
当の斬鴉さんは自嘲するように笑った。
「だといいけどな」
僕は強く言う。
「現在の斬鴉さんがそんなことをするはずないんですから、過去の斬鴉さんだってしませんよ。性格は変わってないんですよね?」
「それでも……自分を信じ切れない。家中のものを引っ張り出して、過去のあたしの人となりがわかるものを探したが、何もなかった。あるのは大量の本と二、三枚のブックカバーと栞だけだった。わかったのは生粋の文学少女ってことくらいだな。それだけの情報で、自分を盲信なんてできない」
斬鴉さんは悔しそうに吐き捨てた。
僕も考えてみる。自分の部屋にどれだけパーソナルな情報があるのかを。そして、家族や友達が記憶を失った僕になんて言うかを……。無趣味人間なので部屋には何の情報もないだろう。では、家族や友人が話す古町光太郎という存在を信じることはできるだろうか?
たぶん、できない。というか信じたくない。お前はこんないい加減な人間だったよ、なんて言われたら嫌だし。……これは斬鴉さんの悩みとは、まったく方向性が違うか。
斬鴉さんは頬杖を着き、
「記憶は本、思い出は栞……」
突然妙にポエミーなことを呟いた。僕にも聞き覚えがある。
「夏凛さんが言ってましたね、それ」
斬鴉さんの目元に笑みができる。
「お前も聞いたか。記憶を失って、あたしがグズグズしていたときに言われた言葉だ。誰かの受け売りらしいが」
「え、あの人どうしてそんなことを斬鴉さんに言ったんですか?」
どこをどう汲み取っても記憶喪失の人に投げかける言葉じゃない気がする。
「さあな。夏凛のことだから、深いこと考えずにそれっぽい言葉で励まそうとしたんだろう」
雑な推測ながら、夏凛さんなら十分考えられる。傷口に塩塗ってるよ……。
「積み重なった記憶の中で、簡単に開ける――思い出せるところに栞が挿まっているらしい。それが人生なんだと……。あたしの中の栞は、意味不明なものと、最悪な瞬間だけだ。栞がこれじゃ、それが挿し込まれている本の方もまともか怪しくなる」
一冊の本があって、そこには二枚の栞が挿まっている。その栞があるページ以外は開くことができない。栞があるページには、少女が読書をする様と何者かに突き落とされる様しか記されていない。この情報で、本の内容を推測するとどうなるだろう? 確かに、あまり前向きな内容にはならないかもしれない。
けれど、その本には欠けているところがある。
僕は大きく息を吸った。
「思い出は、自分一人のものだけじゃありませんよ。少なくとも、僕の本にある斬鴉さんの栞は、とても最高のものです」
怪訝そうな表情を浮かべる斬鴉さんを尻目に、あのときのことを思い出してにやける。そんな僕を、斬鴉さんは気持ち悪そうに見つめてきた。実際気持ち悪い顔をしているだろうから、そういう目で見られても仕方がない。むしろご褒美だ。
僕は斬鴉さんに笑顔を向けた。
「ちょっとした心理テストをしましょう」
「はあ?」
突然話が切り替わったからか、斬鴉さんが眉根を寄せた。僕はそれを無視してつらつらと語っていく。
「大勢の人間がいる祭りの場で、一人の男が屋台の売上金の五百円硬貨一枚を掴み取ってポケットへしまいました。もちろん、その屋台は男が一人で運営しているものではありません。その一部始終を唯一目撃していた少年がそれを本人に告発しました。しかし、男のポケットを叩いても硬貨は入っておらず、男がジャンプして見せても何の金属音も鳴りません。告発した少年は周りから熱に水を差す厄介者という目で見られました。そのとき、斬鴉さんが現場に居合わせたらどんな行動を取りますか?」
斬鴉さんは意味がわからないとばかりに訝しげに首を傾げた。
「なんだ、その状況説明が具体的すぎる心理テストは……」
「まあまあ。細かいことはともかく、ちょっと考えてみてくださいよ」
斬鴉さんは釈然としていなさそうに顔を歪めていたが、しかしすぐに腕を組んで頭を捻ると、すぐさま答えを出した。
「とりあえず容疑者の男に、パンツを脱げ、と言うな」
僕は吹き出しそうになるのをどうにか堪える。
「その男が、ポケットの内側を切り取っている可能性もある。ポケットに穴が空いていれば下着にアクセスできるから、その中に硬貨を隠しておけばいい。男がぴっちりしたボクサーパンツでも穿いていたら、硬貨を何枚盗んでいても金属音も鳴らないだろう。そもそも、少年は男が五百円玉一枚をくすねたところしか見ていないんだろ? それなのにジャンプするなんて、硬貨を何枚も盗んでいると自白しているようなものだ」
僕は我慢できずに爆笑してしまった。おかしさのあまり涙まで浮かんでくる。ひーひーとお腹を押さえる僕に、斬鴉さんが冷たい眼差しを向けてきた。
目尻の涙を指で拭い、半笑いのまま断言する。
「やっぱり、斬鴉さんは斬鴉さんですよ」
初めて会ったときと寸分違わぬ答えだった。
あの加藤という男子は、手に握った五百円玉を内側が切り取られたポケットを経由してパンツの中に隠していたのだ。結局彼はパンツを脱ぐことはなかったが、斬鴉さんがポケットが大きくカットされているのを暴いたことで、犯行が露呈することとなった。
僕は大きく、そして力強く頷く。
「確信しました。斬鴉さんは今も昔も、変わっていない。悪戯に人を傷つけたりしませんよ。やっぱり、犯人の逆恨みか何かです」
流石に斬鴉さんは気づいたらしい。
「もしかして、今のが、あたしたちの出会いか?」
首を傾げておく。
「さあどうでしょう。それは記憶を取り戻したときのお楽しみです」
斬鴉さんは不愉快そうに口をへの字に折り曲げたが、やがて諦めたように全身を脱力させた。
「……まあいい。わかったよ。自分が信用ならないなら、古町を信じるだけだな」
できることなら自分自身を信じてほしいけど、これはこれで嬉しいから、まあいっか。
何はともあれ、これでようやく、推理の準備が整った。
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