僕の中の斬鴉さん

 雨音が静かに聞こえてくる廊下を通り抜け、僕は図書室の前までやってきた。扉に手をかけようとするが、なかなか手が前に出ない。いつもより大分遅い時間になってしまっている。斬鴉さんからしたら、昨日のことがあって気まずいのだと思うだろう。間違ってはいないけれど、そういう理由ではないのだ。とか、こんなことを考えているうちに余計に図書室へ入る時間が遅くなる未来が見えた。

 そういうんじゃ、ないですからね? と、心の中で言い訳しつつ扉を開ける。

 図書室には例によって斬鴉さん以外誰もいない。読書をしていた斬鴉さんが一瞬だけ視線をこちらに向け、すぐ本に目を落とした。藍色の布製ブックカバーに包まれていて、四六判の本であることしかわからない。

 当番記録に名前を書き込んで、僕はいそいそと斬鴉さんの隣へ座る。ちらりと本を覗くと、文芸雑誌のようだった。

 斬鴉さんは何も言わず淡々とページを捲っている。普段から口数が多い人ではないので、入室前に僕が危惧していた事態になっているのかは定かではない。僕も僕で、普段から斬鴉さんに絶えず話題を提供しているのかというと、全然そんなことはない。むしろ図書室では沈黙を楽しんでいる。まあ、図書室では静かにするものだし。

 だからこそ余計に気まずい。この時間がいつも通りのものなのか、それともお互い木曜日のことを引きずっているが故に黙っているのか判然としない。

 どんな声音で話しかければいいんだろうか……。

 お互いに沈黙が続き、しばらく斬鴉さんがページを捲る音だけが響いていた。いつも多少は現れる利用者も、時間がやや遅いためかさっぱり現れない。不定期にやってくる夏凛さんも、気まずくなるのが目に見えているからかやってこない。賑やかしこそが彼女の一番の得意技だろうに。

 斬鴉さんに僕の気持ちを伝える言葉を考えた。僕はどんな斬鴉さんでも好きですよと、ストレートに伝えなければならない。けれど、これをそのまま言ってしまったら、色々と誤解を招くだろう。僕は斬鴉さんを女性としても魅力的だと思っているけれど、人間的魅力を一番に感じているのだ。

 頭の中で浮かんできたいくつかのワードを整理する。状況に適していて、それでいて僕らしく、斬鴉さんの心に響くような単語を構築する。

 数回深呼吸をして、いざ、口を開いた。

「これは、愛の告白ってわけじゃないですけど――」

 斬鴉さんが瞳だけをこちらに向けてくる。

「やっぱり僕にとって、斬鴉さんはラーメンなんです」

「それを愛の告白と勘違いする奴はいないぞ」

 めちゃくちゃ大きなため息を吐かれた。……いきなりまずった。五分くらい出だしを考えていたのに。時間を無駄に使った気がする。

 取り繕う言葉を探す。

「あ、えっと……要は、僕は斬鴉さんのことをラーメンのような感覚で好きということです」

「意味は図りかねるが、馬鹿にされているのはわかった」

「してないですって。とにかく、僕は斬鴉さんのことが好きということです。だから、今後もあらゆる期待をしまくります」

 結局、そのまま伝えてしまった……。

 斬鴉さんは苦笑し、

「最初からそう言え……」

 しかし、すぐに自嘲するような笑みに変わる。

「気持ちはありがたいけど、そういうのはあたしが記憶を思い出したときにでも取っておいてくれ」

 ……性格は変わっていないらしいが、やはり記憶を失っていると過去の自分との乖離を感じてしまうものなのだろうか。間違いなく自分であるはずの過去の自分が、他人のように感じるなんて……想像もつかないが。

 頭の中で考えていた会話プランは無に帰した。もうライブ感に身を任せることにしよう。

「記憶とかは関係ありません。僕が好きになったのは間違いなく過去の斬鴉さんです。けど、現在の斬鴉さんと親交を深めた今も好きでいます。ということは、ですよ? 最初に出会ったのが現在の斬鴉さんだとしても、斬鴉さんのことを好きになっていたということになります」

「なるのか?」

「なるんです。むしろ過去と現在、二人の斬鴉さんと出会えて二度美味しいまであります」

「美味しいというのはラーメンともかかっているんだな?」

「そのつもりはありませんでしたが、もうそれでいいです。……とにかく、過去と現在の斬鴉さんにどんな違いがあるかはわかりませんが、僕は現在の斬鴉さんも好きなんです。だから、記憶が戻ったら……なんて、寂しいこと言わないでください」

 自分の語気がどんどん弱くなっていったのを自覚する。斬鴉さんは呆気に取られたように目を見開いて硬直していた。

 僕はなんか凄く恥ずかしいことを言ってしまった気がして、慌てて目を逸らして話題を変えた。

「……それで、結局のところ、斬鴉さんは記憶を取り戻したいんですか?」

 斬鴉さんの顔が威圧感のあるものに戻る。

「当然だろ。昨日も言ったけど、古町との記憶もそうだが、何より十七年も育ててくれた母さんや他界した父さんの思い出がないのは、二人に申しわけがなさすぎる」

「だったら、斬鴉さんが憶えている謎の文庫本の記憶について、今一度考えてみませんか? 僕も微力ながら力を貸しますよ」

 斬鴉さんは眉間に皺を寄せ、難しい顔になった。

「その記憶が、失われた記憶と関係している保証はない」

「でも、斬鴉さん自身は、何かあると直感してるんですよね?」

「している。……けど、その何かが失った記憶のことなのか、あるいはもっと重要なことなのかは自分でもわからない」

 その言葉に首を傾げる。記憶以上に大切なものなんて、あるのだろうか?

 斬鴉さんは伏し目がちに言う。

「そもそも、これは全部あたしの願望にも似た直感にすぎない。確信なんてあるはずもない。考えようと言ったって、進んでいるのが正しい道なのか、間違った道なのかも不明だ。残った記憶に、論理的な理屈が通るかも怪しい」

 これまで斬鴉さんは、いくつかの不自然な事案を推理の力で解き明かしてきた。しかし、記憶の中の文庫本にそれが通用するかはわからないということか。記憶自体が不確かで、考えるべきことも手探りで、ゴールがあるのかも怪しい。そもそも何を持ってゴールとするのか。文庫本を見つけ出すこと? 記憶を取り戻すこと?

 全てが歪で混沌とした謎だ。ならば、一本の筋を通せばいい。

「自分の魂信じなきゃ、何も始まりませんよ。何かあると思うなら突っ込むべきです。正しい道かわからないなら、道に看板を立てるしかないでしょう」

「看板?」

 力強く頷いて見せる。

「斬鴉さんが納得できるか否か、という看板ですよ。斬鴉さんが納得できれば、それは正しいんです。論理性がある……ということにする。この謎は、斬鴉さんが全てに納得することがゴールになります」

 斬鴉さんは文芸雑誌に栞を挿んで閉じた。背もたれに体重を預け、目をこちらに流す。

「古町のそういうところは嫌いじゃない」

「僕のことが好き⁉」

「鼓膜が無事か、耳鼻科を勧める」

 彼女は大きくため息を吐いた。……しかし、頷かなかった。僕の言葉に納得できていないようではない。

 何か、また別の不安があるような……。

「もしかして、まだ僕に言ってないことがあるんですか?」

 まさかと思って尋ねると、斬鴉さんは小さく頷いた。彼女はテーブルの上で両手を組んだ。

「これは、正真正銘誰にも言っていないことだ。……あたしが記憶喪失になったのは、雨の中、歩道橋で足を滑らせて転倒したからって話したな。でも、これは事実じゃない」

「……と、いうと?」

 嫌な予感がして、頬に冷や汗が伝うのを感じた。

「あたしは……

 木曜日以来の衝撃が、僕の脳に響き渡った。

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