どうするべきか

 今日は金曜日。斬鴉さんは家庭教師のバイトでいない。斬鴉さんがいない日は僕もあまり図書室の当番を請け負わないのだが、今日は何故か、自然と足が図書室へ向かっていた。

 カウンターに座ってため息を吐く。隣では志津さんが受験生らしく物理の参考書を広げて勉強に勤しんでいる。

 数名の利用者がいるので、僕まで気を抜くわけにもいかないのだが、やはりもやもやしてしまう。ずっと慕っていた相手が実は記憶喪失だった、とか……テキトー人間を自認する僕には重すぎる。

「そういえば――」

 志津さんが思い出したかのように呟く。

「纐纈から聞いたけど、古町って夜坂のことが好きなの?」

 口軽いなあ、あの人。別にいいのだが。

 僕は唸り声を上げてしまった。志津さんに向かって首を傾げる。

「どうなんでしょうね……」

「いや、私に訊かれても知らないけど」

 志津さんは右手で眼鏡の位置を正した。

 確かに僕は斬鴉さんのことを色んな意味で好きではある。特にあの目つきは天下一品だ。最早、斬鴉さんという存在自体が好きと言っても過言ではない。つまり、僕にとって斬鴉さんはラーメンのようなものなのだ。麺もスープも、どこを切り取っても愛おしい。嫌う理由がない。もはや概念として好き。

 昨日の様子を見る限り、斬鴉さんはきっと、過去の自分へ向けられるあらゆる好意を拒絶するだろうな……。僕にも、過去の自分にも、負い目を抱いている気がした。

 ならば、斬鴉さんの記憶を蘇らせる手助けをすれば……いや、違うか。おそらく斬鴉さんが求めているのはそういうのではない。普通に、雑に、卒業したらもう会わない人のような感覚で、接してほしいのではないか。

「夜坂は、容姿は間違いなく良いと思うけど、怖くない?」

 志津さんは何かを思い出してか、苦々しい顔で言った。

「先輩の私たちに対しても容赦も遠慮もないの。図書室でちょっと騒ぐと苦言を呈してくるし、カウンターでジュースを飲むのも許してくれない。当番記録をちょっと書き忘れると即座につっこんでくる……」

「そういうところがいいんじゃないですか」

「それが古町の異性のタイプってことかしら」

 そういうわけでもないのだが……。単に、それが斬鴉さんだからというだけの話だ。

「古町もだけど、月崎も凄いわ。私なんて図書室以外で夜坂と話せる気がしないもの。図書室でもサシでは無理」

 先ほどから斬鴉さん、なかなかの言われようであるが、志津さんの口調からは悪意は感じられない。単に彼女の真面目さに呆れ、雰囲気にびびっているだけのようだ。

 つい苦笑いしてしまう。

「人を狂犬みたいに言っちゃ駄目ですよ」

「私たち、基本不真面目なところがあるから、あいつに目付けられてるのよ。みんな極力話をするのを避けてる……」

 志津さんは苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。

「それも含めてさっき言ったことも全部自業自得ですよね。あれで結構愉快なところもあるんですけどね……」

 そう、僕は現在の斬鴉さんを知っている。本を変な読み方しようとすることも、本が好きなことも、帰るとき校門で待ってくれていることも、ボケたらつっこんでくれることも知っている。……これは、現在の斬鴉さんしか知らないとも言えるのか。

 そんな僕が、あの人に何をしてあげられるっていうのだ。

「どうすればいいんだろう……」

 誰にともなく意味深に呟くと、

「まともに話したのは初めてだったけど、あなたこんなキャラだったのね」

 どんなキャラと思われたのだろうか。


 五時半を過ぎた。途中で帰ってしまった志津さんに代わって、一人で図書室の後始末をしていてやや外へ出るのが遅くなった。

 相変わらずの雨の中、傘をさして校門を抜けた。近くにあるこの坂唯一の街灯の下から、三十メートルほど先にある歩道橋を眺める。斬鴉さんは、あの歩道橋を渡るとき、どんな気持ちだったのだろう。

 一人の女子生徒が坂を下っているのが見えた。何となく背中を見つめていると、あれが梅木さんであることに気づく。遠いのでわからなかった。まあ、特に用はないのでスルーしよう。一人で物思いに耽りたい気分なのだ。

 梅木さんが見えなくなるのを待って、僕も歩道橋の傍まで坂を下った。車道には車が結構な間隔で通っていく。渡れそうではあったが、ここは歩道橋を使うことにした。坂の途中から歩道橋になっているため階段はパスできる。階段自体はもちろんあるが、使おうとなるといちいち坂を下りきる必要がある。この構造にしてくれた業者さんには感謝だ。

 橋を越えて階段から下を見下ろす。スロープのおかげで勾配こそ緩いが、その分長さがある。転がり落ちたらただではすまないだろう。両サイドにある落下防止用の壁は左右の景色が見えない程度には高い。

 階段を下り、何となく振り返る。僕が歩道橋に足を踏み入れた箇所は、橋と重なるのと竹林の一部が被さって見えなかった。下ってきた階段は雨に濡れて不気味に長く伸びている。昨日までは何も気にしていなかった歩道橋が、急に因縁めいた雰囲気をまとってきた。

 周辺のアスファルトをきょろきょろと見回した。……苦笑いが浮かんでしまう。斬鴉さんの記憶が落ちているわけもないのに。

 あるのはただ、日が長いにも関わらず無駄に点灯している背の高い街灯だけだ。

 向かいから法定速度を越えた車がすぐ左を通っていった。風圧がガードレールを抜けて僕の髪を揺らした。


       ◇◆◇


 翌週の月曜日。放課後になってしばらく経つというのに、僕はバッグに荷物を詰めてさえいなかった。悩んでいたのだ。図書室へいくか否かを。

 斬鴉さんが記憶喪失だったからと言って、僕の彼女に対する気持ちが揺らぐなんてことはありえない。斬鴉さんが斬鴉さんであることに記憶の有無など関係がない。記憶があろうとなかろうと、美人でスタイルがよくて髪が長くて目つきが鋭くてぶっきらぼうで声がハスキーで頭が良くて本が大好きな人ならば、それはもう夜坂斬鴉に相違ないのだから。……なんてことを本人に言っても、「あたしは安っぽい記号の集合体か」と突っ込まれることは想像に難しくない。僕が言いたいのはそういうことではなく、僕のイメージは第一印象から現在に至るまで絶対不変だということなのだ。おそらく斬鴉さんは「最初からそう言え」と苦笑いをしつつ、多少は喜んでくれるだろう。ひょっとしたら、それは彼女のためになるかもしれない。

 しかし、斬鴉さんが今後も同じように接してくれるかはわからない。斬鴉さんが落ち込んでいたり、悩んでいるのは嫌だ。力になってあげたいと思う。けれど、勝手な話……本当の本当に勝手極まりない考えなのだが、斬鴉さんと心の距離が開くのが一番嫌だ。

 金曜日にも図書室で思ったことだが、斬鴉さんも同じようなことを考えているはずだ。だからこそ僕に、暗に深入りしないでくれと忠告したのだろうし。

 きっと、僕がこれまでと同じように接していけば、斬鴉さんも普段通りの対応をしてくれることだろう。確かにそれなら僕たちの心の距離が変わることはない。……けど、それでいいのか。僕は別に、彼女の一番になりたいとか、そんな調子のいいことは考えていない。

 だけどもっと親しくはなりたいと、そのくらいは当然思っている。心の距離が変わらないということは、近づくこともないということ。今も十分仲が良い方だとは思う。けれど、今の僕では、仮に斬鴉さんの記憶が戻ったときに、その喜びを何一つ共有できない。それがたまらなく悔しいし、歯がゆさを感じる。

 こうして並べ立ててみて思ったが、心配事のウエイトの八割くらいが自分の都合なのが余計に首を突っ込みづらくさせる。

 ため息を吐いた。こんな僕ができることなんて、あるはずがないではないか。

 悶々と悩んでいると、

「で、さっきから何やってるの?」

 後ろの席に座ってただ僕のことを見ていただけのソーイチ君が口を開いた。うんざりしているような口調ではなく、純粋な疑問といった風だ。

 僕は天井を仰いだ。

「……自分のちっぽけさに、打ちひしがれているんだ」

「説明になってないよね、それ」

 仕方がないので事情を話すことにした。無論、斬鴉さんが記憶喪失だということは伏せた。

 ソーイチ君は何度か頷き、

「ふむふむ。なぁるほどねぇ。夜坂先輩が抱えている問題を知り、どういうスタンスで関わればいいのかわからなくなっているわけだ。おまけに助けたい理由の大半が先輩のためではなく、自分のためって部分に帰結しているせいで、自己嫌悪感に苛まれて自分のことが大嫌いになり、これまで馬鹿みたいな顔してのうのうと生きていた自分をぶん殴ってやりたい衝動を我慢できなくなっていた、と……」

「そこまで自虐的にはなっていないけど、まあ大体そんな感じ。どこにでもいる普通の高校生には、とても受け止めきれない問題でね」

 肩を落として同情を誘ってみる。

「うーん。光ちゃんがそこら辺にいるのはめちゃくちゃ嫌だなあ」

 そこに反応されても困るのだが……。

 ソーイチ君は少しばかり眉をひそめた。

「それにしても、光ちゃんが他人に気を遣うのはらしくないよ」

 ちょっと待てと言いたい。

「他人を気遣うのがらしくない人間って、ただのクズじゃない?」

「そこまで言うつもりはないけどさ。脳天気かつマイペースで絶妙に空気読めないのが光ちゃんでしょ。自分の気の向くままにやればいいさ。僕に言わせれば、光ちゃんが身勝手なのは今さらだしね」

 僕の、気の向くまま……。ソーイチ君の言葉に心が揺れる。

「きっと夜坂先輩だって、光ちゃんのそういうところを気に入ったから、秘密を打ち明けてくれたんだろうし。知らないけど」

 斬鴉さんがそんなことを考えていたかというと、おそらくまったく考えていないだろう。自分を慕ってくれている後輩が、秘密の手前までやってきたから打ち明けてくれただけに過ぎない。それ以上の理由はなさそうだ。

 しかし、それがなんだというのだ。斬鴉さんがそう言ったわけではない。僕がそう解釈しただけではないか。

 天を仰ぎながら、僕はソーイチ君に向かって頷いた。

「うん。そうだと嬉しいから、そう思うことにするよ」

 自分勝手な理屈ではあるが、うじうじ悩んで友人に心配されるくらいならば構わないはずだ。ここはソーイチ君に乗せられておくとしよう。そもそも、考えていても仕方がないことなのだ。僕は僕らしく、自分の感性に従って動こう。

 この登場人物の心情を述べよ? そんなものがわかったところで現実世界ではクソの役にも立たないようだ。問題文を重視して自分の思いを殺していては意味がない。

 国語の授業の欠陥に気づいた僕は、勢いよく立ち上がった。

「図書室いってくる」

 ソーイチ君が爽やかな顔ににっこりとした笑顔を浮かべた。

「うんうん。光ちゃんはそうでないとね。……でも、その前に机に入ってる荷物は持っていった方がいいよ」

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