第二部 斬鴉さんと謎の文庫本の話
第四章 記憶の栞
夜坂斬鴉の秘密 その二
図書室のカウンターにて、あたしは文庫本を開いた。表紙は黒っぽいような青っぽいようなモヤに包まれていてわからない。文庫本のページ数は厚みや重さからして、三百といったところだろうか。
開いたページは序盤も序盤、二十ページいくかいかないかくらいの位置だ。同じサイズの活字が等間隔で配置されているのはわかるが、何が書かれているかまではぼやけていて判然としない。
あたしは何の迷いもなく読み進めてページを捲っていった。手首まで伸びた制服の袖が目に映り、そして、チャイムが鳴った。読みながら、頻繁に本の地をカウンターに押し付けていた気がする。
あたしは文庫本を読んでいた。
◇◆◇
英語の
昨日からずっとこんな調子だ。晩ご飯を食べているときも、風呂に入っている間も、宿題をしているときも、寝て起きても、情報が何も入ってこない。朝も母親から「しゃんとしろ」と言われた。……これはいつも言われているか。
僕がこんな調子になっているのは、言うまでもなく昨日斬鴉さんたちから衝撃の事実を聞いたが故だ。
「記憶喪失って……どういうこと、ですか?」
僕が呆然と呟くと、斬鴉さんは肩をすくめた。
「そのままの意味だ。去年の十一月九日の月曜日。時間は夕方の五時半過ぎ。学校の下に歩道橋があるだろ? あたしはそこの階段から転げ落ちて頭を打った。……雨が降っていたから階段が濡れていて、滑りやすくなっていたらしい」
夏凛さんが言葉を引き継ぎ、
「それを発見したのが私だったの。傘を盗まれちゃって、雨が弱まるまで学校で待ってたんだ。でも、なかなか小降りにもならないから諦めて帰ろうとしたとき、校門前の坂の上から、歩道橋へ向かうキリちゃんの姿が遠目に見えてさ。傘に入れてもらおうと思って追ったら、キリちゃんが頭から血を流して倒れてて……。急いで救急車を呼んだの。意識はすぐに戻ったんだけど……」
記憶が失われていた、ということか。
突然のことに頭が追いつかない。言葉も出てこない。十秒ほど経ってようやく捻り出した質問は、
「何も、憶えてないんですか……?」
という、記憶喪失っつってんだろ、と自分につっこみたくなるものだった。
斬鴉さんはゆっくりと首を横に振り、
「思い出は何一つない。一般常識や勉強したことの一部は残っていたが、それを得た過程は忘れていた。……ただ、本に関しては読んだ記憶こそないが、タイトルや内容は憶えていたな。読んだのが印象深い日なら、それがいつだったかもわかった」
「流石、斬鴉さんですね。記憶を失っても、それとは……」
「馬鹿にしているようにしか聞こえないぞ」
「感嘆してるんですよ」
記憶を全て忘れたところで、本の虫なのは変わらないということか。
斬鴉さんは目を伏せ、神妙な面持ちになった。
「けど、一つだけ、しっかりと映像として残っている記憶がある」
「それは……?」
ごくりと唾を飲む。
「本を読んでいる記憶だ」
またもや、本?
「この図書室で、文庫本を読んでいた。いつのことかも、それが何てタイトルの文庫本なのかもわからないけどな」
思い当たることがあった。真壁の一件が終わった後のことだ。
「以前、探している文庫本があるって言ってましたけど、もしかしてそれって……」
斬鴉さんは小さく頷いた。
「あの文庫本を見つけ出せば、記憶が戻るんじゃないかって思った時期もあった。見つからなくて、もう諦めたけどな」
「私も、まったく心当たりがなくって」
申しわけなさそうな顔で肩を落とす夏凛さん。
「別に夏凛が気に病むことじゃない。……記憶喪失のことは、学校関係者では夏凛以外には一部の教師しか知らない。広まると面倒そうだからな」
俺お前に金貸してたんだよ、俺お前の彼氏なんだよ、的な連中が現れるかもしれないからだろうか。違うか。
斬鴉さんは僕から目を逸らした。
「記憶喪失のせいで、家族のことはもちろん、夏凛との日々も忘れた。……当然、古町と初めて出会ったときのことも憶えてない」
……そうか。再会したときのあの反応は、本当に正真正銘、僕を忘れていたためだったのか。
「記憶がないだけで趣味趣向や性格は変わってないらしい。それでも、あたしは
斬鴉さんのその声は、酷く、寂しそうに感じた。
「お前があたしのことを好いてくれているのは嬉しい。……けど、お前が好きになったのは過去のあたしだ。お医者さん曰わく、今後も記憶が戻るかどうかはわからないらしい。だから……あまり、期待するな」
こんなに弱々しく自嘲気味に言葉を吐き捨てる彼女の姿を、僕は初めて見た。
そして、僕は僕で、斬鴉さんと話していて軽口や冗談の一つも浮かんでこなかったのは、これが初めてだった。
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