考察
「じゃあ……まずは何から考えましょうか?」
「結局あたしに丸投げか」
「す、すみません……」
確かに、ここまでやる気満々でガツガツ来ておいて、肝心なところで本人に振るというのは情けないかもしれない。
斬鴉さんは肩をすくめ、
「とりあえず、あたしの記憶喪失についてまとめてみるか」
斬鴉さんが語る自身の記憶喪失について。
人や思い出と呼べるものは全て忘れている。例外は謎の文庫本を読む記憶と、突き落とされた際のものだけ。この二つの記憶のみ映像として思い出せるようだ。
一般常識などは憶えており、勉強したことについては憶えていたりいなかったりするらしい。
「まあ、教科書も読書のつもりで読むようなあたしだったから、他の本と同様に憶えていたのかもな。忘れている箇所は、記憶喪失になる前に普通に忘れていただけで」
いずれにしても、その知識を得た過程については憶えていないらしい。
そして、本の記憶について。読んだ本のタイトルと内容は憶えており、それらを一致させることができるが、読んでいる最中の記憶はない。ただし、いつこの本を読んだのか――すなわち本を読了した時期については、憶えているものもあるらしい。読んだのが記憶喪失に陥る直近の日時だったり、誕生日などの印象的な時期に読んでいる本、発売したその日に読み終えた本などがそれにあたるらしい。
「内容を憶えているって、知識として残っているってことなんですか? 大雑把なストーリーと結末を知っている……みたいな?」
「それは違うな。本を読めばストーリーにはもちろんだが、文章にも強烈な既視感を抱くんだ。次にどんなフレーズが来るかも何となくわかる。知識というより、記憶として残っていると考えた方がしっくりくるな……」
「どんだけ本好きなんですか」
「本当にな」
脳が意地でも読んだ本を忘れたくなかったかのようだ。斬鴉さんも自分で自分に呆れている。
「そして、謎の文庫本について。手にした感じ、ページ数は三百前後ってところか。他の本と違ってタイトルや内容も憶えていない。表紙や文章も判然としない。開いたのはかなり序盤……三十ページに達するか達さないかくらいのところだな」
うーん……。ヒントになりそうな情報が何もないな。
「えっと、ここで読んでたんでしたっけ?」
ここというのは、無論図書室のカウンターである。
「ああ。ページを捲るとき制服の袖が手首の下まであったから、着ていたのは夏服ではなかったな。母さん曰わく、あたしは夏服の期間に冬服を着たりはしたりはしていなかったらしい」
この学校の夏服の期間は……六月頭から十月頭までだったか。この間の出来事ではない……と。
斬鴉さんは映像を何度も追想しているのか、目を瞑って呟く。
「途中でチャイムが鳴った……。でも、あたしはまったく焦ってなかったから、おそらく放課後に鳴ったチャイムだろう。四時のチャイムかそこらだ。行事があると図書室は閉まるから、特にイベントのない普通の日だな」
行事があった方が手掛かりにはなりそうだけど、そう上手くいくものじゃないか。
「それから、かなり頻繁に本の地をカウンターに押し当てていた」
「どうしてそんなことをしていたんでしょうか」
「読書中にそれをする理由は一つだけだな。ブックカバーと本のずれを直していたんだろう」
ああ、なるほど。読書をさほどする僕でなくとも実感はある。確かにやるかも。
「でも、百戦錬磨の読書家である斬鴉さんが頻繁と感じるほどそれを行っていたのは、意味ありげですよね」
どんな意味かはさっぱりわからないが。この言葉に対して斬鴉さんは何も答えず、自信なさげにため息を吐いた。
「これらの記憶が完璧という保証はない。憶えている部分は正しいだろうが、欠落している箇所もあるだろう。表紙や文章がその最もたる例だ。表紙は黒いような青いようなモヤに包まれて見えない。等間隔に文章が並んでいたのはわかるが、文そのものは思い出せない」
その欠落しているかもしれない部分も、推理で埋める必要が出てくるのだろうか。
「そもそも、唯一残った記憶というプレミアがついてなかったら、とっくに忘れていそうなほどの何てことのない記憶だ」
「推理が発展するほど、特別なことがあるとは限らない……ってことですか」
しかし、始めてしまったからには引けない。僕は身体を斬鴉さんの方へ向ける。
「事件があった日、本は所持していたんですか?」
「持っていたぞ。ちょっと待ってくれ」
斬鴉さんはスマホを取り出すと、軽く操作して画面を見せてくる。写っていたのは、色んなものが絨毯の上に並べられた写真だ。
「これは、記憶喪失になった十一月九日の所持品の全てだ。絶対確実に関係ないもの以外はここに写っている。それから、財布も家に忘れていたから写っていない。……何かわかるかもと思って撮ったんだが、何の役にも立たなかった」
僕はじっくりと写っている物品を見ていく。……その日の授業で使ったと思われる各種教科書とノート。筆入れ。生徒手帳。弁当箱。水筒。クリアファイルが一枚と綺麗なままのプリントが何枚か。下敷き。ハンカチ。彼女がいつも使っている紺色の傘。そして、厚みのある文庫本。タイトルや表紙的に小説だろう。……化粧品とか持ち歩いてないんだ、斬鴉さん。まあ必要ないくらい綺麗だしね。
画像の一点を指差す。
「この文庫本……『死と鮮血』のページ数は?」
「五百ちょいくらいだ。ちなみにジャンルは医療小説。事件の当日に読んだのは間違いない。記憶はないけど」
「謎の文庫本とは違うわけですね。ということは、謎の文庫本の記憶は当日のものじゃないのか。……ここに写ってない、絶対確実に関係ないものってなんですか?」
何となく尋ねると、斬鴉さんは顔に嫌悪感を露わにして睨んできた。
「す、すみませんでした」
何だろう、と思ったが、そうか。馬鹿だ、僕は……。姉がいるのに忘れてた。
謎の文庫本のことだけを考えるわけにはいかない。斬鴉さんを突き落とした犯人についても知らなければならないだろう。
「事件当日、一緒に図書当番をしていた人はいないんですか?」
「退院してからすぐに当番記録を確認したが、十一月九日にはあたしの名前しかなかったな。後から名前を消したような痕跡もなかったはずだ」
「書き忘れ……もなさそうですよね。斬鴉さんなら、上級生にも名前を書かせる。志津さんが言ってました」
「職員室の先生にも訊いたりしたが、あたしは一人で図書室の鍵を返しにきたらしい。その前後で廊下を歩いていった者はいないとも言っていた」
図書室から職員室まではトイレこそあるも一本道だ。斬鴉さんの後にも廊下を通った者がいないというなら、彼女は一人で当番をしていたと考えてよい。
うーん……。早速、犯人探しも手詰まり感が出てきた。というか、そんな簡単にわかるなら斬鴉さんもここまで苦しんでいない。一体、容疑者が何人いるんだという話だ。犯人が達川高校の関係者だという保証すらないのに。
これは、ひとまず謎の文庫本について探っていった方がいいかな。
「謎の文庫本は、家にはないんですか?」
「ない……と思っている。家にある本は全てタイトルと内容が一致しているし、読んだときの既視感もある。当然ページ数が同じくらいの本も全て読んだが、そのどれも謎の文庫本とはどうしても思えなかった」
「じゃあ、冬服の期間に斬鴉さんが図書室で借りた文庫本を洗い出してみるのはどうですか?」
「とっくに調べたよ。三百ページほどの文庫本は四冊借りていたが、どれもタイトルと内容を憶えていたし、読んだ際の既視感があった。謎の文庫本に当てはまる感じはしなかったな」
僕は指を一本立てる。
「謎の文庫本の記憶と、家の本や図書室で借りた本の記憶とが結びついていないだけというのはあるんじゃないですか? 記憶を失っているわけですから」
斬鴉さんが図書室全体に響き渡るほど大きなため息を吐いた。呆れ果てたような目を向けられる。
「だからあたしは記憶について考えても無駄って言ったんだぞ? そこで古町が、あたしが納得できるかどうか、という指標を提示した。あたしは自分の考えに納得している。あたしが納得できることが真実なんだろ? テキトーな思いつきで前提条件を覆すなよ。普段からノリでしか喋ってないからそういうダブルスタンダードが発生するんだ。わかったか?」
「……はい」
ボッコボコに言われたが、返す言葉もなかった。
斬鴉さんが納得している。彼女が納得できるかどうか。それがこの推理の向かう先だ。必ずしも真実である必要はない。まあ、できれば真実がいいけれど。
気を取り直して、
「えっと、少なくとも謎の文庫本は、家の本でも図書室の本でもないってことですかね。あ、図書室の本は借りなければ履歴が残らないか」
今のところ、謎の文庫本の所在は斬鴉さんの自宅以外ということだろうか? 範囲が広すぎる。ほぼ地球全域だ。
「市立図書館にも確認を取ったが、記憶喪失になる前にそれらしい本は借りてなかったな」
「図書館って、そういうのに厳しいイメージありますけど、教えてくれたんですか?」
「自分の貸出履歴だし、記憶喪失なわけだからいけるだろうと踏んだ。尤も、本が返却された時点で履歴は消えるらしいがな」
「え? じゃあ、どうして借りていた本がわかったんですか?」
「職員の方が何人かあたしのことを憶えていたんだ。それで、あたしが借りた本を思い出してくれた。記憶喪失になるよりずっと前に借りた本までは、流石に憶えてなかったけどな」
つまり、可能性は低いまでも、謎の文庫本が図書館の本であることも考えられるのか。
このまま考えていても埒があかないかもしれない。少しアプローチを変えてみよう。
「文庫本を直接探し出すのは難しいと思います。ですので、謎の文庫本について考えるのではなく、記憶そのものについて考察してみましょう」
斬鴉さんが眉をひそめた。
「記憶そのもの?」
「はい。斬鴉さんは記憶喪失になったにも関わらず、謎の文庫本を読む光景と突き落とされる際の光景、この二つの記憶を例外として憶えていました。けど、実際に例外だったのは後から思い出した突き落とされる記憶だけで、謎の文庫本の記憶については他の本の記憶と同列なんじゃないでしょうか」
僕はカウンターの上で手を組んだ。一つ、昨日から漠然と考えていたことがあるのだ。
「斬鴉さんは、本についての記憶は残っている。タイトルと内容、ものによっては読んだ日付まで。だとしたら、ですよ? 謎の文庫本の記憶もそうでなければおかしい。だって、斬鴉さんは謎の文庫本をちゃんと読んでいたんですから。……まあ、斬鴉さんがこれまで読んだ全ての本を憶えていることが前提になりますが」
「一応、家にあった本、図書室で借りた本、図書館で借りた本は全部憶えていたな」
それなら、可能性は十分あるかも。
「どうして謎の文庫本のことだけ内容とタイトルを憶えていないのか? というより、他の本の記憶と比べてどうして映像という妙な形で記憶が残ってしまったのか? もしかしたら、読書中に何かイレギュラーなことが起こったからなのでは……とか、どうでしょう?」
途中で自信がなくなってきたので、つい当人に尋ねてしまう。
「別に、なくはないんじゃないか? その場合、どんなイレギュラーが発生したのかが問題になるが」
どうやら、納得……とまではいかずとも、一考の余地はあると判断してくれたらしい。
僕はやや身を乗り出し、
「斬鴉さんは読書をする上での拘りがありますよね」
彼女は若干呆気に取られたように身体を反らせた。
「そうだな。いくつかある。自分の本を読むときは必ずブックカバーを付けるし、これも前に言ったが、読み進めている本があるうちは新たに本を読まなかったりな」
「それです」
僕はびしりと指を立てる。趣味趣向が同じなら、過去の斬鴉さんもきっとそうだったはず。
「それは言い換えると、一度読んだ本は必ず読破するということになりますよね」
「それも心がけている。新聞とかは読みたい部分だけ抽出して読むが、その読みたい部分を読み切らなければ次の読書へは向かわない。……古町の言いたいことは何となくわかった」
流石は斬鴉さん。彼女は腕を組み何事か思案するように目を細めた。
「謎の文庫本の記憶だけがおかしいのは、その本を途中までしか読んでいないから……と、考えているわけだな」
「です。記憶喪失に陥った斬鴉さんの記憶保存プロセスが、読了した本の内容とタイトルをインプットする、だとしたら、こういうことも起こり得るんじゃないでしょうか。謎の文庫本は読了していなかったがために内容とタイトルを忘れ、その光景のみが映像として記憶に残った。……まあ、全部勘ですけど」
脳科学的にそんなことがあるのかは知らない。けど、脳なんて科学でわかっていないことの方が多いのだ。あったとて、おかしなことではないはず。
斬鴉さんは組んでいた腕を解く。
「面白いし、納得してもいい。こういうアプローチでは考えたことなかったからな。……けど、問題があるとすれば――」
先回りして台詞をいただく。
「どうして斬鴉さんは本を読むのをやめたか、ですよね? 謎の文庫本を……」
彼女は小さく頷いた。……そう。そこが問題だ。斬鴉さんはどうして読むのをやめた? つまらない、合わない、程度で読むのをやめたりしないだろう。ここで僕が言えることは、
「それがわからないんですよねぇ」
斬鴉さんの身体ががくんと崩れた。
「全部読む前に記憶喪失になった、くらいは言ってくれ」
「あ、その手があったか。でも、所持していたのは『死と鮮血』だけなんですよね。謎の文庫本が図書室の本なら、借りない理由もないでしょうし……」
「お前が言ったら、そう反論するつもりだった」
じゃあ、駄目じゃん。がっくりと肩を落とす。
「良さげな推理だと思ったんですけど……」
「まあ、本の記憶の残り方に法則性があるなら、それが一番らしい理由ではあるかもな」
口調から察するに、斬鴉さんも捨てるには惜しいと思ってくれているようだ。
「他に、謎の文庫本のような……読んだことくらいしか憶えていない本はないんですか? 別のサンプルがあれば、僕の推理の裏付けになるかもしれません」
「難しいこと訊くな……」
斬鴉さんからすると、読んだことくらいしか憶えてない本ってどういうことやねん、という話だ。あったとしても、謎の文庫本が二冊に――つまり考えることが二つに――増えるだけの気がする。
……ちょっと待て。あるぞ。斬鴉さんが途中までしか読んでいない本に心当たりがある。しかもそれは、謎の文庫本ではないことが確定している。
言いたい。言いたいけど、これは斬鴉さんの記憶の問題。自力で辿り着いてこそ、推理の地固めになるというもの。
僕はスマホを取り出してソーイチ君に連絡を取った。
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