第18話 ある雪の日のできごと





 外は雪が降っています。


 暖炉の火が燃え、ときおり薪がはぜる音がするほかは、静かな冬の夜でした。


 冬が過ぎれば、レメーニはタッチート家に嫁がなければなりません。もちろんそこには愛するジョルジョの姿はどこにもないことでしょう。


 ……それは、先日多くの人々の前で披露したジョルジョの演奏が、目も当てられないほどの惨憺さんたんたる結果だったのですから。


 ピアノ奏者としての力量を大勢のまえで披露できなかったばかりか、レメーニの家の名前にドロを塗るような演奏でした。


 そのためレメーニの婚家に一緒に連れて行くことなど、到底ゆるされることではなくなっていました。


 父も母も、もう誰も、レメーニの味方になってくれる人はいませんでした。


 ジョルジョも、ピアノを弾かなくなってしまいました。ピアノの前に座ることも、ピアノにふれることすら、しなくなってしまいました。


 いまも魂が抜けたように、ただぼんやりと暖炉の前へ座っています。


 あの美しい月の船のようなグランドピアノだけが、あるじを失った犬のように、大広間のいっかくにぽつんと取り残されています。










 レメーニは、ジョルジョにピアノを弾くようにうながすことはしませんでした。


 ピアノなど弾いても、弾かなくても、どちらでもいいと思いました。


 ただそこにジョルジョがいるだけで、ただそれだけで、レメーニはよかったのです。


 レメーニは、ピアノを弾いているジョルジョが好きだったわけではなく……――


 ピアノの音色を通じて、ジョルジョの感性、ジョルジョの心のあり方が手に取るようにわかりましたから、その無垢な心を愛していたからです。


 レメーニにとって、ピアノはただ彼の心の形をうつす道具にすぎず……たとえピアノを弾かなくなっても、彼の心は彼のものであり、レメーニがかけがえのないと感じた、彼の心のままなのでした。








 レメーニは、どうしたらいいかわかりませんでした。


 このままではジョルジョを失ってしまいます。


 悲しいとかつらいとかそんな言葉ではいいつくせない、暗く、重たいモヤに胸をふさがれているような気持ちでした。


 ジョルジョとともに生きられないなんて、考えるのもイヤで、想像すらできないのです。


 それほど、ジョルジョの存在とは、すでにレメーニの半身のようなかけがえないものになっていました。


「ジョールジョ」


 レメーニは、暖炉の前にごろりと横になっているジョルジョの横に、ぴったりとよりそい、楽しげにいいました。


「わたしと一緒に、旅にでましょう」


 暖かなまどろみの中にいるジョルジョは、目を閉じたまま、返事をしました。


「うん」


「こんな窮屈なところから出て、自由な大空の下で」


「うん」


「ジョルジョは街でピアノを弾いて、お金を稼いで。私もなんでもするから」


「うん」


「わたしこう見えてお菓子を作るのが上手なの。マフィンやタルトや、サラティーニの焼き方だって知ってるわ」


「うん」


「ジョルジョは曲を弾いてお金を稼いで、わたしは街でお菓子を売って、お金を稼ぐの」


「……うん」


「ねえ、この雪がやんだら」


「………うん」


「ジョルジョ、あなたを愛してる」


「……ぼくも、君を愛している」


 ジョルジョは、そう答えました。














 どれくらいの時が流れたでしょう。


 レメーニは、ふと目をさましました。


 いまなにか、扉が閉まる音がしたような気がしたのです。


「ジョルジョ?」


 さっきまですぐそばにいたジョルジョの姿がありません。


 部屋のなかは物音もなく、暖炉にはしずかな熾火おきびが灰に埋もれるようにして燃えています。


 窓の外には、まだ雪が降っていました。


 ふと見れば、ジョルジョの黒いトランクケースも見当たらなくなっていました。


 イヤな直感が、レメーニの胸を貫きました。


 小屋の扉をあけて外へ出ると、降り積もった雪の中を、点々と足跡がつづいているのが見えました。


「ジョルジョ!」


 レメーニはなにも考えていませんでした。いいえ、考えられませんでした。


 雪が降りしきるなか、コートもブーツも身に着けず、ジョルジョの跡を追いかけて外へ飛びだして行ったのです。










 レメーニの住む城はぶどう畑をはさんで、黒く、深い森に面しています。


 峻険しゅんけんな山道は冬のあいだ雪に閉ざされ、どんな旅人も山越えすることはできません。


 それなのに、ジョルジョはこの深い森に、雪の降りつもる中、なぜ入っていったのでしょうか。


 あれだけ約束したにもかかわらず、なぜレメーニをおいて、一人で行ってしまったのでしょうか。


 山などではなく、街へ行こうといったのに。


 一緒に行こうといったのに。


 なぜ、なぜ、なぜ………。


 レメーニは雪の冷たさも、風の激しさも忘れ、必死になって深い雪の中をかきわけて走りました。


 雪に足をとられ、何度も転びました。


 その度に雪にうもれ、身体も顔も、髪の毛も、雪まみれになりました。


 それでも走りました。


 ここで命が尽きてもかまわないから、この足跡を見失いたくないと思いました。


 しかし雪はどんどん降り積もり、容赦なくジョルジョの残した足跡をかき消していきます。


 レメーニの目から涙がとめどなく溢れました。


 悔しいのかもしれず、悲しいのかもしれず、しかしそのどれとも違うような気もしました。


 ただひとつ、自らの片割れを失ったような喪失感だけは本当でした。


「ジョルジョ! ジョルジョ! ジョールジョー!!」


 声を限りに叫びましたが、渦を巻くふぶきのなか、声は無惨にちぎれ、雪の中にかき消えていきました。


 レメーニはもう一歩も動けなくなりました。


 ここがどこなのかもわかりませんでした。


 絶望に胸をふさがれたまま気を失い、その場にうずくまりました。


 その上にただ純白の雪だけが、こんこんと降りつもりました。




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