第16話 見はてぬ夢





 一騒動あったものの、グランドピアノは職人たちの手によって組み立てられ、ぶじ納品されました。


 本当はグランドピアノをジョルジョの住まいに置きたかったのですが、すべてレメーニの思惑どおりにはいかず、大広間に置くことが決まりました。


 ピアノはやはり高価な買い物だったので、レメーニの青いブローチだけでは費用が足らず、足らない分をお父さまが支払いました。その負い目もあり、これ以上はわがままを通すことができなかったのです。


 それでもレメーニは幸せでした。


 グランドピアノは、レメーニがこれまで見たこともないほど素晴らしいできばえだったからです。


 優雅な曲線をえがく側板は船のように大きく、まるで、おとぎ話にある夜空のはてまで漕いでいく「月の船」のように美しいのです。


 そして中を開けると、ピアノ線が日光に透かした葉脈のように繊細に並び、響板やフレーム、駒が精巧に入り組み、見ても見ても見飽きることのない精緻なつくりになっています。


 そしてジョルジョは……


 このピアノを見たとき、ジョルジョは少年のように瞳を輝かせました。そのなんともいえない笑顔を、レメーニは生涯わすれることができません。


 ジョルジョは朝から晩まで大広間に引きこもり、寝食もわすれ、このグランドピアノを弾いて、弾いて、弾き続けました。


 レメーニはこの精巧な美術品であるピアノを眺め、それを弾くジョルジョを眺め、そして日がな一日を送りました。


 レメーニはベス以外、使用人さえ大広間に近づくことを禁じていましたので、本当に、ふたりだけの時間だったのです。


 ピアノを弾き疲れたジョルジョは、ばったりと椅子からくずれ落ち、そしてピアノの下まで這いずっていって、そこで眠りました。


 レメーニも、そんな彼の横に身をよせ、あおむけに転がりました。


 ふたりは同じ方向を向いていました。


 ふたりの目の前には、グランドピアノの底があり、まるで大きなクジラのお腹の下にもぐりこんでいるように幻想的でした。


「わたし、結婚するけど。ジョルジョ、あなたはついてきてくれるわね?」


 レメーニは、弾き疲れ、朦朧もうろうとしているジョルジョに話しかけました。


「このグランドピアノと一緒に、私についてきてくれるわね?」


 目を閉じ、ジョルジョは頷きました。


「わたしね、結婚したら、あなたと一緒に旅に出るつもり。世界のいろいろなところを回って、いろいろな人にあなたのピアノを聴いてもらうの。そうして楽しいことだけをして生きていきましょう。夫のもとに帰るのはときどきでいいから」


「………………」


「いろいろな場所のいろいろな物を見て、聞いて、体験して、そうしたら、あなたはそこからインスピレーションを受け取って、もっと素晴らしい演奏ができるわ」


 ジョルジョは、聞いているのかいないのか、やがて寝息をたてはじめました。


 眠っている彼の指先が、小刻みに揺れていました。


 レメーニはほほえみました。きっと夢のなかでもピアノを弾いているのだと思ったのです。











 レメーニとジョルジョの幸せな日々は、長くはつづきませんでした。


 顔色は青白くなり、頬はやせこけ、大きなグランドピアノに生気を吸い取られていくように、ジョルジョは次第に衰弱していきました。


 ジョルジョの、血管が浮きだした細い指……


 その指先がとつぜん振戦しんせんをはじめるので、彼は大きく震え始める指先をかかえこむようにうずくまることがしばしばありました。


 そんなとき気を紛らわせるように、ジョルジョは強い酒をあおりました。


「ぼくは病気だ」


 ジョルジョはそういい、その酒に薬をまぜて飲みました。


 薬を飲んだ直後は、ジョルジョは非常に幻想的な曲を弾くのです。


 どこからそんな力が湧いてくるのか、海を泳ぐシャチのように強い生命力がほとばしる曲を弾き、レメーニを驚かせました。


 しかしふたたびパッタリ生気を失い、死んだように眠りにつき、悪夢にうなされて飛び起きる……ジョルジョの様子は、そんな繰り返しでした。


 レメーニは心配し、ジョルジョを医者に診せました。


 しかし医者も原因がわからないのか首をかしげるばかり。瀉血もしましたが、あまりよくなりませんでした。


「疲れやすいのも、手足がいうことをきかぬのも、年をとっているからでしょう」


 と、医者は言いました。


 ジョルジョは白髪のぼさぼさ頭、顔も手足も深いシワが刻まれ、背中はちぢこまり、ここ数日のうちに何年も老けこんでしまったように見えました。












「わたし、見ました」


 ある朝、ベスがレメーニに小声で耳打ちしました。


 レメーニが自室に帰ってしまった夜遅く、ジョルジョのもとに紙袋にはいったなにかを手渡す人物がいたというのです。


 紙袋の中身はジョルジョがいつも飲んでいる薬にちがいないと、レメーニはピンときました。


 なにかあやしげな薬なのではないか、とレメーニは心配していたのですが、ジョルジョには正面から聞けずにいたのです。


 しかし彼の体調が急に変化した原因が、その薬にあるとしたら…? そんなことを考え始めたらいてもたってもいられませんでした。


「その人の顔は見えませんでしたが、おそらく……」


 ベスは言葉をにごしました。


 真偽を確かめるべく、その晩、レメーニは自室にひきあげたふりをして、大広間のカーテンの影に隠れ、が現れるのをまちました。


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