第6話 愛する人
「レメーニ? 聞いていますか?」
とつぜん現実に引き戻されたように、レメーニは顔をあげました。
「どうしたのですか、さっきから。ずっとスプーンで紅茶をかきまぜてばかりいて。ティーカップの底に穴があきそうだ」
アザルトは、冗談をいいながらおおげさなため息をつきました。アザルトは家同士が決めたレメーニの婚約者で、いつだったかのパーティー以来、ちょくちょくレメーニの邸宅を訪れるようになっていました。
「ぼくの話は退屈ですか?」
アザルトの問いかけに、レメーニはあわてて首を横にふりました。退屈だなんてとんでもない。ただ……
ただ「ある方」のことが頭からはなれないだけ。そして私のためにつくってくれたという「あの曲」が、ずっと耳の奥で鳴っているだけ。
「レメーニ姫が、名もなき流れのピアノ弾きを寵愛していると、風のうわさに聞きましたが」
アザルトのその言葉を、レメーニはまったく予測していませんでした。いきなり図星を突かれ、さっと顔色がかわるのが自分でもわかりました。
しかし婚約者にたいしてきっぱりと否定すべきところなのですが、喉になにかがつまってしまったように言葉がでてきません。
「そんなことはまったくのデタラメですよ!」
そこで全力で否定したのは、たまたま給仕にやってきたベスでした。
「やあ、おかわりをもらおうか」
アザルトは笑顔をつくり、ベスに空のティーカップを持ち上げてみせました。
「いやその前に、きみの主人に新しい紅茶をいれてやってくれ。すっかり冷めて、苦くなっているからね」
アザルトは、ベスが部屋から出ていったのを見計らって、顔をふせて固まってしまったレメーニに向き合い、おもむろに口をひらきました。
「僕は構いませんよ、あなたが誰を寵愛しようと」
レメーニは意外すぎる答えに、「え?」といったきり、二の句がつげませんでした。
「なぜですか? 貴族の世界ではむしろよくあることです。
アザルトはレメーニの家の家格よりずっと上の伯爵家の御曹司です。貴族とはそういうものだろうか、とレメーニは小首をかしげました。
……とそこまで考えて、レメーニはなぜ自分の気分がこれほど晴れないのか、婚約者と対峙しているのに別の人のことばかりを考えてしまうのか、その理由がようやくわかりました。
自分は、ジョルジョを愛していること。
そしてほかに愛する人がいながら、別の男性と結婚しなければならない未来を、受け入れがたく感じていること。
そもそもこの感情に、自分よりアザルトのほうが早く気がついていたことは、レメーニにとって驚きでした。
「それは当然ですよ」
そのときはじめてアザルトはレメーニから視線をはずし、恥ずかしそうな素振りをしました。
「自分の愛する女性が見つめるさきには誰がいるのか、気が付かないほうがおかしい」
(まさか婚約者のひとことで、自分の恋心を知るだなんて……)
アザルトが帰ったあとも、レメーニの気持ちは晴れません。むしろこれを境にもっと悩みは深く、複雑になっていったかもしれません。
「僕は、あなたが妻になってくれれば何も文句はありませんよ。あなたが誰のパトロンになろうが、自由にすればいい」
帰り際、アザルトはそういってレメーニにひざまずき、貴婦人にするように手の甲に唇をよせました。
(アザルトさまは、ああおっしゃったけれど……)
はたして彼の言葉を真に受けていいものか、レメーニにはよくわかりません。
たしかに貴族の社会で芸術家を「お
(でも、もし結婚してもジョルジョとともにすごしていたら、夫がある身でありながら、私はジョルジョへの欲望をおさえられないだろう)
そこでジョルジョへの情動が突きあげるように湧いてくると、「よこしまな妄想」までがつぎつぎと頭に浮かび、レメーニはひとりで赤面しました。
その妄想は消しても消しても脳裏にうかび、どこにいても、何をしていてもレメーニに付きまといました。
レメーニにとってジョルジョは、ピアノが上手だから好きなのではないのです。彼が奏でる曲の一音一音からにじみでる、その心のひだに刻まれた情緒のすべてが、自分の心のひだにぴったりと符合すると感じたからでした。
悲しみ、喜び、思い、叫び……彼が奏でる音楽は、自分がずっといいたかった、表現したかった感情そのものだと感じました。胸にしみいるような懐かしさが、その証拠なのです。
(きっとジョルジョと私は、あわせ貝のような存在なのだわ)
今だからわかる……これほど強く惹かれあうのだから、身も心もきっと貝殻の模様すら同じ、あわせ貝に違いない、と。
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