第5話 ライラックの輪舞曲




 その日やってきたジョルジョは、なんだかずいぶんと憔悴したようすをしていました。顔色もよくありません。


 ピアノの前に座り、やがて弾きはじめたものの、その響きにはいつもの覇気がやどりません。


 なにか物思いにふけるように、同じフレーズを何度もいったりきたりしています。どうしたのだろう、具合でも悪いのだろうかと、レメーニは気をもみました。


 小さく繰りかえす「レ」と「シ」と「ラ」と「ド」の音。その音がだんだんと大きくなり、狂気を帯びるほどのフォルテシモに変化したとき、たまりかねたレメーニはジョルジョの手を掴み、その奇妙な曲を止めました。


 二人の間に、沈黙がおりました。


 そのとき「どうしたのですか?」とか「少し休みませんか?」とか、なにか間をもたせる言葉を言おうとしたのですが、レメーニは頭がまっしろになってしまい、口が固まって動かせなくなってしまいました。


 同じく、とつぜん曲を止められたジョルジョも、その体勢のまま固まっていました。驚いたようにレメーニの顔を見つめました。


 同じところをぐるぐるまわる思考の堂々巡りから、ふと我に返ったのかもしれません。


「あ………」


 夢中だったとはいえ、無作法に手を握ったことを激しく後悔したレメーニ。放り出すように、ジョルジョの手を放しました。


 気まずい二人…―――


 しかしそこでなにか言わなければと次の言葉をさがしあぐね、やっと思いついた提案は、ジョルジョを驚かせるものでした。


「庭に、ライラックの花が満開になっています。とてもきれいなので、お友達に見せたいと思っていたの。いっしょに見にいきませんか?」


 ……―――お友達。


 ずっと険しかったジョルジョの顔が、すこし和らいだように感じましたが、それはレメーニの気のせいだったのでしょうか。


 ふたりは庭に出て、そこで満開の白いライラックの花を鑑賞しました。


 酔うほどの強い芳香が風に乗ってあたりに漂い、高貴なかおりで景色を塗りこめているようでした。


 ジョルジョは手が届くところに咲いていた花の一房を摘みとり、レメーニの髪に飾りました。ちょうどその日、レメーニが身に着けてた白いモスリンのドレスに、白いライラックの花はたいそうよく似合いました。


 レメーニはドレープのあるスカートの端をすこしつまんで、くるりと回ってみせました。ひだのあるレースのがやわらかく風に揺れ、かげろうのはねのように優雅に見えました。


 まばたきもせずそれを眺めていたジョルジョですが……、なぜか一瞬後にはレメーニに背をむけ、すたすたとその場から立ち去ったのです。


 レメーニはなにがなんだかわけがわからず、ただその背中を追いかけました。なにか彼の癇に障ることでもしたかもしれないと思いつつ。


 しかしそれは杞憂でした。


 早足で部屋に戻ったジョルジョは、すぐさまピアノの前に座り、何も言わずに「その曲」を弾き始めました。


 小刻みに、繊細に、揺れる音と音の連続。それは、風に揺れる葉ずれの音。そこにくるりくるりと円を描くような三拍子のワルツが重なります。まるで、可憐でちいさな妖精が輪になって踊りをおどっているような。


 レメーニにはすぐにわかりました。ジョルジョは、さきほど見たライラックの花房をイメージしてピアノを弾いているのだと。


 澄んだ音は、かぎりなく無垢で、高貴なライラックの薫りを表現していました。ちらちらと木漏れ日が揺れるさままで目に浮かぶようで……でもどこか甘く、懐かしいのです。


 それにしても見たもの聞いたもの、感じたものをその場で曲にしてしまうジョルジョという男は、なんという才能のもちぬしでしょうか。


「すてき……」


 曲がおわり、十分に余韻に浸ったあと、レメーニは夢見るようにつぶやきました。


「これは、あなたのための曲です」


 ジョルジョは、鍵盤をみつめながらきっぱりといいました。額には汗がにじんでいました。さっきまで額にただよっていたもやもやとした雲はその汗とともに消えさり、なぜか晴ればれとした顔色になっていました。


「あなたのために、作った曲です」


 真剣な目で、そんなことを言われ、心を奪われない乙女がいるでしょうか。







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