第4話 恋わずらい



「とてもきれいな指だった……」



 ひとりベッドに仰向けになり、自分の手のひらを明かりに透かし、まじまじとみつめながらレメーニは独り言をいいました。


 ジョルジョの演奏を目の当たりにした夜、レメーニは胸の鼓動がうるさくて、なかなか眠りにつくことができませんでした。


 目にも止まらぬ速さで、縦横に鍵盤を泳ぎまわったジョルジョの手は……固く大きく、指も太く、がっしりとしていました。ただその手を、ピアノを弾くジョルジョの指を思い浮かべるだけで、レメーニはとても幸せな気持ちに浸ることができるのでした。


 ジョルジョがつぎにお城にやってくるのは、水曜日。レメーニは水曜日がくるのを指折り数えて待っていました。


「ようこそ、よくいらっしゃいました。ごきげんよう」


 そしてついに待ちにまった水曜日、ジョルジョは約束どおり、お城にやってきました。戸口まででて歓待したレメーニに、ジョルジョは古ぼけたシルクハットをちょっっと持ちあげて返事をしました。


 ジョルジョは、折り目の美しい白いシャツを着て、ワイン色の蝶ネクタイをしめ、先日よりもよい風体になっていました。


「とても素敵です」


 レメーニは素直にそれを褒めました。するとジョルジョは照れたようにうつむいて、小さな声で「風呂にはいってきました」といいました。


 ベスが小さく吹き出しました。レメーニはそんなベスを目でとがめ、ジョルジョには「それはようございました」と、ほほえみ返しました。


 この日、ピアノの前に座ったジョルジョはおだやかに一呼吸つき、ゆったりした曲を奏でました。先日の、没入するような弾き方ではなく、ゆったりとした大きな波が、あたり一帯に広がっていくような響きでした。


 どこか、懐かしい旋律……。


 レメーニは目を閉じ、波に揺られるような心地よさに身をゆだねました。レメーニは、何年か前にお父さまに連れていってもらった海、みわたすかぎりの青い海を頭のなかに思い浮かべていました。



 ―――青い海と、晴天に恵まれたあの日の遊覧船。


 人懐こいが舞いおりては、人からパンをもらってまた舞いあがる光景。かもめは何度も下降し、やがてレメーニの白いハンカチーフをエサと間違えてくわえて飛んでいきました。


 かもめとともに空へまいあがっていった白いハンカチは、やがて波にたゆたう白魚のように風になぶられながら、上空からゆっくりとくねりおちていきました―――…



 ……レメーニ自身も忘れていた古い記憶。それが一瞬で、鮮明に脳裏に蘇ってきたことにレメーニは驚きました。そして、なんとも不思議な気持ちになりました。


 曲が終わると、レメーニの目にはうっすらと涙が滲んでいました。なぜだろう、とレメーニは思いました。この方の奏でる曲を聴くとなぜか涙がでてしまう……。


「とても素敵でした、まるで青いアドリア海の、ゆたかな波間をただよっているような、このうえない心地よい気持ちでした」


 胸のうえに組んだ手をふるわせながら、彼のピアノを讃えたレメーニ。ジョルジョはレメーニの方を驚いたように振り向き、まじまじと彼女の顔をみつめました。


「光栄です」


 ジョルジョはただ一言だけ小さくつぶやき、シルクハットのつばに軽く手をかけました。







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「なにか、お金になるものはないかしら」


 ジョルジョが帰っていったあと、レメーニは思いついたようにベスにいいました。「なにを唐突にいいだしたんだ」とでも言いたげに、ベスは目を剥いています。


 白い目ばかりをぎょろぎょろと光らせているベスがおかしくて、レメーニは声を立てて笑いました。いつになく楽しげな様子に、ベスはほっとしました。ちかごろのレメーニはどこか憂れわしげだったのです。


 しかし金になるものなどと突然にいわれても、見当もつきません。


「お嬢さまのお部屋にあるものは、みなお金になるものでございます。みなとても価値あるものでございます」


 実際、レメーニの部屋にある家具や調度品、カーテンや絨毯にいたるまで、どれも品質がよいものを揃えられていました。それはレメーニ一家の裕福さのみならず、両親から与えられる愛情の深さをも物語るものでした。


「なにがいいかしら」


 レメーニはしばらく腕組をして考えました。高価なもので、なお且つなくなっていてもだれも気づかないようなもの。なくなったことがばれないもの。そんなものがいいと思いました。


「ですがここにあるものをお金に変えて、いったいどうするつもりなんですか? お金がほしければ旦那さまにお願いすればいいではありませんか」


「私、欲しい物があるの。でもお父さまに言ってはだめよ、きっと反対するから。ベス、あなたわね?」


「知りませんよ、わたし!」


 ベスは口止めされていることに気がつき、嫌そうな顔をしています。


 ふと思い出して、レメーニは宝石箱からひとつのブローチを取りだしました。何カラットものまばゆい宝石がたくさんはまった高価なブローチでした。18歳の誕生日に贈られたものですが、ずっと長いあいだ使われることもなく、宝石箱のなかにしまわれたままだったのです。


 しかしこれではまだ足りないと感じたレメーニは衣装棚のなかから何着か、ドレスをひっぱりだしてきました。どれも絹のレースにふちどられた豪奢なドレスでした。


「これを町に売りにいかせましょう。ベスはなにも知らなかったことにしてね。これを売ったお金で、わたし買いたいものがあるの」


 そういって、レメーニはまるで子供にもどったかのような笑顔で歯を見せて笑いました。






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