第3話 流浪のピアノ弾き


 そのピアノ弾きが部屋へ入ってきたときのことをレメーニは生涯忘れることができませんでした。


 ピアノ弾きは髪とひげを整えてきたのか、先日よりすこしこざっぱりとした外見になっていましたが、古ぼけたシルクハットや、丈の短いズボン、汗じみたシャツの襟元は相変わらずでした。


 男は流浪のピアノ弾きで、町から町に旅をしながらピアノを奏で、日銭を稼いで暮らしをたてているのだと、執事からは聞いていました。


(でもなんだか面白い方だわ……)


 すこし風変わりな人ではありますが、自分のためにここまで来てくれたことが嬉しく、レメーニは貴人に対するときと同じように、スカートの裾を持ちあげて挨拶をしました。


「お会いできて光栄です、どうぞよろしく」


 するとピアノ弾きもシルクハットを脱いで、


「私もです、ご機嫌うるわしゅう…」


 しかしそういい終わらないうちに手をすべらせ、シルクハットを取り落としました。コロコロと床に転がる古びたシルクハット。


「ああ!」


 男があわてて拾いあげようと屈んだとき、薄くなった頭頂部が丸見えになってしまいました。後ろに控えた執事が気まずそうに咳払いし、召使いのベスが思わず吹きだしました。



「私はレメーニ……名をレメーニスクオーレといいます。あなたは?」


「私は、ジョルジョ・モニート……」



 そのとき、二人の目と目が合いました。レメーニはどきりとして目をそらすことができなくなりました。男はとても澄んだ、やさしい目元をしていたからです。包みこむように柔らかく、じっと見ていると吸いこまれてしまうような…。


 思えばこのとき、なにか天啓のようなものをレメーニは受け取っていました。天啓でなければ、予感のようなものだったかもしれません。


」と。


 どのくらい見つめあっていたのか、はっと我に返ったのはベスに袖を引っ張られたからでした。


「そうでした、お茶の用意をしてあるのです。どうぞこちらに」


 レメーニは気を取りなおし、奥のテーブルに案内しました。ジョルジョはひょこっとおじぎをし、大股でテーブルに歩みより、さっと席につきました。ステッキをテーブルの端にかけようとして滑り落ち、大きな音を立てました。


「失礼」


 あわててステッキを拾いあげるジョルジョ。しかしテーブルに頭を打ち付けて、もっと大きな音を立てました。カップが揺れてお茶が波打ち、レメーニは思わずテーブルを押さえました。ベスが前かけで口元をかくしながら笑いを噛みころしています。




「ジョルジョさんは、どこからいらっしゃったのですか?」


「……どこから? どこからともなく。この城の北に広がる、深く黒い森をぬけて」


「では、どうやって来られたんですか?」


「……どうやって? 歩いて来ました。星を見ながら」


「だれか、お友達や家族と一緒に?」


「……だれか? いいえ、ひとりきりで」




 聞けばきくほど、掴みどころのない人です。レメーニの目には、その一風かわった服装も、ふざけているような応答も、まるで異世界から降りたった人のように映りました。


「お聞きになったかもしれませんが、先日の演奏をきき、たいへん感銘を受けました。そこで、あなたにピアノの手ほどきをしていただきたいのですが」


 レメーニは、改めてジョルジョに頼みました。ところが、その依頼をジョルジョはきっぱりと断ったのです。


「私は教えられません」


 まあ、というようにベスが息を飲むのがわかりました。


「なぜですか? 謝礼の話は執事から通しているはずですが……」


 ジョルジョは黙りこくってしまいました。








 何を話しかけても、なぜか何も話さなくなってしまったジョルジョ。どのくらいそうしていたでしょうか。


 とつぜん立ちあがると、部屋の隅においてある小さなピアノに歩み寄り、さっと鍵盤をあけました。一呼吸あって、突然、怒涛のような速弾きがはじまりました。椅子スツールを蹴倒し、立ったまま。体ごと鍵盤に没入するように。


 そこにいた全員が言葉を失いました。言葉を発することすら忘れ去っていました。それほど恐ろしく、どこかぞっとするような気迫に満ちた演奏でした。あの優しげな目元の紳士が奏でているとはとても思えませんでした。


 どんな名前の曲なのか、誰も知りませんでした。聞いたこともない曲でした。ひょっとしたら異国の音楽なのかもしれません。


 ジョルジョが曲を弾ききり、静寂がおとずれたとき、執事が手を叩いて演奏を褒めそやしました。


「すばらしい演奏でした」


 しかしレメーニは拍手をしませんでした。できなかったのです。両目からは、説明のつかない涙が、無尽にこぼれて落ちました。なぜ涙がでるのかレメーニにはよくわかりませんでした。


 息をきらせてピアノの前に立ちつくすジョルジョに歩みより、レメーニは彼のもとにひざまずきました。


「私がまちがっていました。もうピアノの弾き方を教えてほしいなどとはいいません。でも、あなたのピアノを聴きたいのです。どうか……」


 あなたの時間の許すかぎり、できるだけこちらへいらして、ピアノを弾いてくださいませんか? あなたに必要なあらゆる援助を、私は惜しみません。


 レメーニが、ジョルジョという男に隷属した瞬間でした。

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