第3話 情けも過ぐれば仇となる? ―小さな親切は大きなお世話?―

 日本の病院では、一人の医師が一人の患者を一対一で対応する「主治医制」が取られている場合が多い。患者の主治医となった医師は、外来では定期的にその患者の診察を担当し、またその患者が入院すれば日々の外来の合間を縫いながら退院までの治療方針を立てる。患者側もできることなら同じ医師に診てほしい者が多く、「主治医制」は現在の日本の医療体制に根付いているといっても過言ではない。


 「主治医制」では、その患者の病状を最も把握しているのが主治医となるため、何かあれば全て主治医が対応することになる。患者が入院していれば、帰宅した後でも休日であっても主治医の対応が求められる。


 実はこの「主治医制」が日本の医療制度において医師の長時間労働に拍車をかけているのだ。「主治医制」で入院患者を受け持つ医師は、病院にいない時でも病院に拘束され、患者に行う医療行為の責任は主治医が全て背負っていると言われている。


 この「主治医制」に対して、一人の患者を複数の医師で構成されるチームで担当する「複数担当医制」もある。担当チームに所属する医師それぞれがその患者の情報を共有し、担当医の一人が休暇中は他の医師が対応することができるというものだ。また、「主治医制」では独善的な治療になりがちであるが、「複数担当医制」ではチーム内でディスカッションすることができるため、常に他の医師からのチェックが入り治療が独善的になりにくい。加えて、患者側としても来院できる曜日・時間の選択肢が増えるというメリットがある。


 確かに「複数担当医制」では患者に対応する時間と医療行為に対する責任を複数人の医師で分散することができるが、問題は医師、医療スタッフ間で緊密な連携や連絡が取り合え常に情報を共有しうることができるかどうかである。入院下であれば、患者数も限られており、時間的余裕もあることから、カンファレンスなどでうまく行かない症例を検討することができる。また、病棟内では医師どうしの距離感も近いため、方針を共有しあう事も可能であろう。


 ところが外来となるとそうはそうはいかない。外来診療はパーテーションで区切られた空間のため医師同士で相談し合うことは極めてまれである。しかも、多くの押し寄せる患者の待ち時間などを考慮すると、診療内容を一字一句電子カルテに残すなど到底不可能である。電子カルテに記載されている情報は限られてくることになる。そうなると医師間の情報共有は極めて薄いものになりかねない。結局、「主治医制」の主治医の頭の中に膨大な情報が詰まっており、それを共有することは困難であろう。


 とはいうもの医師だって人間である。休暇を取って外来を閉じることもある。しかしそんな日に限って、担当患者が急患でやってくるものだ。救急対応に当たる医師は数少ない情報を電子カルテから抽出し、目の前の臨床症状から診断し、処置を下す。ただし、医師の治療方針は十人十色。担当医が好んで行っている処置を他の医師も採用するとは限らない。時には救急対応に当たった医師が、担当医の好まざる処置を行い、お互いが険悪になることもそう珍しくもない。診断にしてもそうである。担当医が診断した結果を他の医師がうのみにせず、より丁寧に検査を行った結果、かくれていた病魔が発見されることがある。患者としてはうれしい限りであるが、プライドの高い医師の中には「出し抜かれた」、「揚げ足を取られた」と妬む者もいる。


 さて、昨日の救急搬送から一転、今朝は少し落ち着いた空気が医局内に流れる。耳を澄ますと、かかっていないはずの長調のクラシック音楽が聞こえてきてもおかしくないようなのどかさだ。ヘラ子も昨日の重だるい疲労感からくるまどろみに飲み込まれそうになるのを、重厚なコーヒーの薫りで打ち消しながら今日の予約患者のカルテに目を通していた。そんな朝の一時を肌で感じながら、ヘラ子はマグカップのふちに唇を当てた。その刹那、クラッシック音楽が急に停止ボタンを押されたかのように医局の扉が大きな音を立てて開いた。その扉の音はヘラ子の聞き慣れた上司のものとは違い、ややかん高いものだった。


「面目先生、おはようございます。あの患者さん、胃癌だったって本当ですか!」


クラシック音楽は突然、不協和音を交えながら短調へと変化した。


 ヘラ子は万羽医師の勢いに押されそうになるのをぐっと耐え、マグカップをそっと机に置き椅子から立ち上がり答えた。


「おはようございます、万羽先生。昨日、先生が担当されている患者さん、急を要したので市立病院へ搬送しました。一応、先生には連絡をしたのですが、つながらずに事後報告になり申し訳ありません。」


 ヘラ子は精一杯の敬語であいさつと報告をした。実際には院内カルテによって報告は行っていたが、直接報告するのはこれが初めてになる。


 「申し訳ありませんじゃないよ。どうして、先に言ってくれなかったの?言ってくれたら…」


そこまで言いかけて、万羽医師は口をつぐんだ。


「すみません。一応、連絡は入れたのですが、電話がつながらなくて。」


 言ってくれたら、どうしたというのだろうか。他に手があったのだろうか。少なくとも胃の疾患に対しては内視鏡検査くらいしかできないこの病院で出来ることが他にあったのだろうか。


「そんな日はとりあえず投薬だけして、後日、僕の外来に来てもらうようにしたら良かったのに。そしたら僕から説明して市立病院に送ることができたのに。」


万羽医師はヘラ子の顔を直視できずに、斜め45度左下を向きながらつぶやいた。


「しかし、一刻を争うそうな状態でしたので。」


ヘラ子は毅然とした態度で言い返した。


「家族さんは、最初はびっくりされていましたが、病状を説明すると、見つけてくれてありがとうと感謝しておられましたよ。」


 ヘラ子がそこまで言った途端、万羽医師はこれ以上にないくらいの膨れ上がった表情を浮かべたかと思うと、今度は急に肩を落とし、踵を返しゆっくりと医局の外へと出て行ってしまった。その後姿を見ながらヘラ子は思う。


 「最初から検査の1つでもしとけば、こんなことにはならなかったろうに。病状に向き合うことを面倒臭いと思った結果、大事なことを見落とした。確かに最初は胃潰瘍だったのかも知れないけど、その後、惰性的に同じ薬を処方し続けて胃癌を見落としたわけだ。消化器内科の専門医が胃癌の末期を見落とすなんて、本人としては恥ずかしい事だろう。もし、当日連絡がついていたら、万羽先生は患者や家族に何て説明していたんだろう。むしろ私が見つけた方が丸く収まったのでは。」


 ヘラ子は自分のしたことで万羽医師の信頼を失墜させてしまったのではないかと、一瞬、後ろめたい気持ちになった。


「知らぬが仏とはよく言ったもんだけど、自分の病気について知らなかったら、仏にもなりきれないわ。」


 やはり自分のしたことは間違っていない。そう自分に言い聞かせるヘラ子であった。ただ、残念なことは胃癌患者がヘラ子と出会うタイミングが遅かったことと万羽医師にとって都合が悪かったこととである。


 その日の午後、病棟内は荒れていた。荒れていたというのは、容体が悪くなる患者がいつもより多いということだ。忙しくなったり思い通りにならなかったりすると、切れ出すのがヘラ子の上司戸村医師だ。彼がひとたび切れ出すととにかくヘラ子やスタッフに当たり散らす。怒号や罵声はもちろん、ものを投げる、壊す、机をたたく、こんなことは日常茶飯事である。これまでもヘラ子や医療スタッフの前で、戸村医師自身のスマホや眼鏡を叩き割られたり、ボールペンをバキバキと折られたりということが何度もあった。ひどいときは自動販売機でジュースを買っては投げつける行為を何回も繰り返していた。ヘラ子はある程度慣れているが、入職してすぐの医療スタッフはビクビクしながら戸村医師の周りで業務をこなすようになる。こんなときヘラ子はいつも思う。


「この人は、何のために、そして誰のために仕事をしてるんだろうか。」


 ヘラ子は度重なる戸村からの高圧的な態度に心身ともに疲弊しきっていた。実は過去にこのことがきっかけで、一度辞表を書いたこともある。しかし、それは受理されることなくうやむやにされてしまった。事務方に辞表をもっていったら「病院長に提出しろ」といわれ、病院長にもっていったら「上司の戸村医師に提出しろ」、戸村医師に持っていったら「ふざけるな」と終始こんな具合であった。それならば、病棟での班編成を変えるか部署を変更し、戸村医師から距離を空けることを申し出たこともあった。これも聞き入れられることなく葬り去られた。申し出ても、「君たちはもめても次の日は仲良くしてるから、本当は仲良しなんでしょ。病気としてはこれは深刻な問題と受け止められない。」「決定権は戸村医師にあるため、病院は介入不可能」など、申し出に対して建設的な意見が出てくるわけでもなく、その場しのぎの対応をされるだけであった。ヘラ子も半ばあきらめかけたように毎日を過ごしていた。


 後日、市立病院から連絡があり、患者は一命を取り留めたが、その数日後、病状が急変し亡くなったとのことだ。


「家族の方は感謝しておられましたよ。」


 市立病院の医師の一言でヘラ子は何となく救われた気がした。


「私がしたことは、結果的に患者の命を数日のばしただけ。この数日に患者さんは思い残すことなく旅立つ準備ができたのだろうか。いや、きっとできたのだろう。」


 後で聞いた話だが、この胃癌患者、実はあるスポーツ団体の会長をしていて、その世界では結構、有名だったらしい。万羽医師ともそのつながりで診察を受けていたらしいのだが、なあなあとした医師患者関係の結果として大きな見落としにつながってしまった。


 その後、どういう経過かはわからないが万羽医師は退職していった。ヘラ子にとって万羽医師の退職はあまり興味を引く内容ではなかったが、それでも、医師が1人欠けると、ヘラ子の業務は増えてしまう。ヘラ子は忙しい日々がさらに忙しくなるなと覚悟を決め、今日も外来へ向かっていった。忙しい日々の中、時折口の中に万羽医師からもらったチョコレートの味がよみがえってくるが、その味はすぐに砂のような味に変わっていく。そんな時、ヘラ子は思う。


「医者が医者であり続けるためには、命と向き合い続けること以外には何もない。」

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