第2話 診ぬが花、診えぬが花?

 日々の臨床で内科医が診る患者の数は開業したての閑散期で1日30人程度、経営が安定する頃には1ケ月500人程度だと言われている。この人数の患者を1人1人じっくり診て、細かくカルテを書こうと思うと一般的には到底不可能な訳である。しかしながら、彼らはその頭脳を活かし、症状から検査をオーダーし診断を下す。診断がつけば加療する。これを繰り返しながら、毎日大勢の患者を診ている。とはいえ、全ての患者に診断がつくわけではない。何となく頭が痛い、お腹が痛い、関節が痛い、など、診断はつかないが、対症療法で様子を見ることもある。

 診断がつかないとはいえ、「痛み」は何らかの兆候であることに間違いはない。大事なことはその原因が何であるかに医師が向き合えるかどうかである。それを1日何人もの患者に行える医師が一体どれくらいいるのだろうか。また、確かに最初は症状だけで検査しても何もひっかかからない患者も多くいる。ところが、そんな症状を繰り返す中で病状が悪化している可能性もある。そんな時、漫然と対症療法を行い続けることで、病状の悪化を見逃すこともあるだろう。或いは、症状のある場所と異なる場所に原因がある場合もある。このようなケースでは、多角的総合的に病状を考えることが必要とされるが、それを多くの患者にできるものなのだろうか。


 ヘラ子の勤務する飛鳥輪(あすかわ)病院には、内科、外科の他に整形外科、眼科、皮膚科、耳鼻科、泌尿器科がある。内科はもともと一般内科しかなかったのだが、ヘラ子の直属の上司である戸村医師によって昨年、「難病内科」が新設された。新設といっても現在は戸村とヘラ子の2人しかいないわけだが、それでもヘラ子は難病内科の副部長である。ヘラ子が所属する難病内科の他の内科医師は「一般内科」所属になるわけだが、一般内科と言っても、元々は皆それぞれ専門の科があり、例えば循環器内科、呼吸器内科、消化器内科、腎臓内科など様々な医師が存在している。

 ヘラ子は週の内4日を外来日として勤務しており、残りは病棟勤務や救急対応の当番に当たっている。また、週に半日ほど外勤として近隣のクリニックでも勤務しているが、クリニックでの診療が終わると脱兎のごとく病院に帰っていく。すぐに帰らないと上司から怒号をくらってしまうからだ。昼休みなども名目だけで、基本的にはないようなものである。そのため、最近いつ昼ご飯を食べる時間があったか覚えていない。「午前の診療が昼休みにずれ込み、午後の仕事を昼休みに前倒しにしないと終わらない」そんな毎日を過ごしているのだ。

 そんなある日、ヘラ子が救急当番に当たっていると、救急要請の電話がなった。受付の話によると、患者は58才男性で、症状は腹痛。飛鳥輪病院のかかりつけ患者で、普段は消化器内科の万羽(ばんば)医師が診察している。

「先生、万羽先生の患者さんが急患で来られますが、どうしましょう。患者さん、お腹痛いそうで薬が欲しいそうです。今日は万羽先生が不在ですけど……」

「私が診るから、すぐ来てもらって。」

ヘラ子はためらうことなく患者を受け入れた。万羽医師は、普段から気さくな医師で、医局内でも他の医師や医療スタッフからも人望が厚い。少しお洒落なところがあり、学会などに出張すると一粒1000円もするようなチョコレートを買ってきては、医局やナースステーションに届けるなど、非常に気配りの出来る医師である。普段、お世話になっていることもあり、ヘラ子はいつも以上に一生懸命に患者の腹痛と向き合うことにした。

 数分後、当該患者が顔色悪く来院した。とは言うものの、1人で車を運転してきたのでそこまで重傷な感じはしなかった。ヘラ子も少し安堵の表情を浮かべ診察にあたった。

「どれどれ、はあ、なるほど、胃潰瘍の治療をされているんですね。うん、うん。痛みはいつからですか?」

「昨日までは何となく鈍い感じがあったのだけど、今朝から急に痛くなって…」

ヘラ子は患者の病状を聞きながら、以前のカルテをめくった。そこには、胃潰瘍の病名と処方された薬の名前こそあったが、臨床所見や検査の履歴はなかった。腹部を触診し、少し考えてから患者に提案した。

「しばらく検査をしてないみたいなので、血液検査をして、お腹のCTをとりましょう。」

「えっ、いつもの先生は薬出してくれるのに。とりあえず薬だけ出してくれたら良いんだけど。」

「確かに、こうしてみるとあまり重傷な感じは受けません。だけど、私が診察している以上、適当なことはできません。ここ最近、検査もしてないでしょ。申し訳ないけど、薬出す以上、病態を把握してから出しますね。」

 ヘラ子は普段、難病と向き合うことが多く、1つの臨床症状に対し、様々な可能性を探る癖がある。今回の「胃潰瘍」だって何が原因で胃潰瘍なのか考えるべきである。万羽医師はストレスによるものと断定しているが、本当にそうなのか。ヘラ子が普段診ているような疾患にも、それが原因で胃潰瘍になる患者も少なくない。診断が間違えば治療方針もトンチンカンなものになってしまう。

 事実、ヘラ子の患者の中にもヘラ子が根気よく追求した結果、年間国内で100人くらいしかいないような難病を早期に発見したり、他院から不明熱で来院した患者の原因を究明したりとかなりの功績をあげている。ただ残念なことは、功績を上げれば上げるほど上司の戸村は機嫌が悪くなる。戸村医師としてはどこか出し抜かれた気がするのだろう。戸村医師の機嫌の悪さがピークに達した時、ヘラ子への風当たりは相当強くなる。ヘラ子それに屈することなく今日を生きているのだが、時にはそれが暴力に変わるため、ヘラ子としてはたまったものではない。

 今回は消化器内科の万羽医師が長年診ている患者である。見落としなどないであろうが、それでもヘラ子は今まで通りの薬を処方して帰宅させることは避け、基本に戻って検査をすることにした。検査結果が出るまで患者は一時的に院内に待機させ、結果が出次第対応を考えることとした。

 数分後、ヘラ子が他の救急患者を診察していると、放射線技師が血相を変えて連絡してきた。

「せ、先生、ちょっと画像を見て下さい。」

院内PHSを片手に電子カルテに添付された画像をクリニックすると、

「あっ。」

ヘラ子の眉間が一瞬曇った。

「…癌かも、もしそうならかなり進行しているわ…」

「先生、どうしましょう?万羽先生に連絡しますか?」

「んー、いや、まずは転院先を探しましょう。近隣の手術が出来る病院に連絡して、受け入れ可能か聞いてみて。私は患者さんと家族に連絡して説明します。」

30分後、患者の妻が不安そうな表情を浮かべて病院にやってきた。

「先生、どうでしたか?」

少ししんどそうな顔を浮かべ、細くなった声で患者とその妻は聞いてきた。

「胃の中にできものができているようです。詳しくは大きい病院にいってみないとわかりません。しかし、あまり良い状態ではないことは確かです。」

「胃潰瘍ではないのですか?」

「残念ながら、今回の痛みは胃潰瘍ではないようです。少しでも早く検査する方が良いでしょう。転院先には連絡しています。ここから救急車でむかいましょう。私も付いて行き、病状を説明します。」

「…そうですか。ありがとうございます。」

病院の正門から救急車で近くの市立病院へ向かう。道中、患者とその家族は真っ青な顔をしている。救急車はサイレントを道に落としながら最後の信号を曲がり、救急患者搬送口に吸い込まれていった。

「先ほど連絡した飛鳥輪病院から来ました。よろしくお願いします。病状については…」

「了解しました。こちらで詳しく精査いたします。」

患者の受け渡しを終えると、ヘラ子は急にどっと体が重くなるのを感じた。それだけの緊張感と集中力の中で戦っていたのだろう。

「帰ってカルテを書いて、万羽先生に連絡しなくちゃ。」

 行きは救急車、しかし帰りは救急車には乗れないルールとなっている。ヘラ子は重くなった足を引きずりながら近くのタクシーを捕まえ病院へ帰っていく。

 病院に帰るなり、ヘラ子の耳に聞き慣れた怒号が飛んできた。

「回診サボってどこ行ってたんや!」

上司の戸村である。そばにいた救急対応ナースが

「戸村先生、面目先生は救急対応で…」

がっしゃん!

 戸村は自分が怒号を飛ばすことを遮られたことに腹を立て、自分の携帯電話を床にたたきつけた。

「誰に向かって意見してんねん!俺が回診行くときにいないのはアカンやろ!そもそもお前が救急車に乗る必要があるんか?」

 携帯電話をたたきつけた戸村医師だが、これだけでは暴れたりず、今度は目の前のボールペンを折ってヘラ子や周りの医療スタッフに投げつけだした。

さすがにこれにはカチンときたヘラ子。

「ものにあたるのはやめてもらえますか?ガラスの破片が飛び散って他の患者さんやスタッフにも危険でしょ!」

「ぐっ、…」

戸村は一瞬グっと動きを止め、近くのドアを思いっ切り明け、足早にどこかに言ってしまった。その後ろ姿をよそにヘラ子は飛び散ったガラス片を片付けた。

「はぁー、いつもの当たり散らしか。そうだ万羽先生にも連絡しなくちゃ」

 しかし、その日、万羽先生医師には連絡がつくことなく、ヘラ子は伝言メモを電子カルテ内に残し、残りの回診を行うことにした。 

 万羽医師は患者たちから信頼されている医師の1人である。患者の言葉を傾聴し、相手の言葉を否定することなく返答する。言葉にも気を遣い、マイナスの感情を抱かせないことにかけては一流であることは間違いない。今回も、患者の「先生、私は大夫でしょうか?」の問いかけに「大丈夫ですよ。」と返し続け、万羽医師も患者も安心していたのだ。実は大丈夫だと確定したのは、最初の検査のみで、その後は万羽医師の感想に過ぎなかった。そしていつしか、この掛け合いがマンネリ化し、万羽医師は「大丈夫ですよ。」の一言で患者の信頼を得ていた。その間に病魔は進行した。原因がわかっていたなら遅らすことができたかもしれない。だか、腹痛の原因については考えなかった。そこに落とし穴があったのだ。1年に1回でもCTを撮影していたら違った結果になったかもしれない。それでも、万羽医師やこの患者はそれを望まなかったのかも知れない。「大丈夫ですよ。」の一言と胃薬の処方に両者が安心し、何故、痛みがあるのかに向き合わなかったのかも知れない。

 ちなみに、面目(めんもく)とはヘラ子の姓である。名前の通り、真面目な女医、面目ヘラ子は今日も患者の利益のためにためらうことなく行動したのだった。信頼してた万羽医師の誤診を訂正し、改めて病状と向き合うことの大切さを認識したヘラ子であったが、それでも、上司の態度には納得出来ず自分に言い聞かすのだった。

「わたし、悪くないよね?間違ってないよね?」




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