トリトンの獅子吼

@kinnmokusei6

第1話 医は仁術?忍術?

 「医は仁術」とは「医は人命を救う博愛の道である」ことを意味する格言である。その思想は平安時代にまで遡り、特に江戸時代に盛んに用いられた。近代西洋医学においても、長く日本の医療倫理の中心的標語として用いられてきた。


 蘭医学者の緒方洪庵は天然痘やコレラなど、幕末の日本で猛威を振るった感染症と闘い、医学史上に不朽の業績を残した。洪庵が開いた「適塾」では、医療を仁術として捉えており、彼を現在医療倫理の父と言っても過言ではない。


 しかしながら、時代は令和に突入し、医師を志す者や医療に携わる者の倫理感は大きく変化した。かつての日本医療業界は、医師の倫理観や使命感で成り立っている部分が大きかった。「患者の命を救うためなら」、「患者の健康のためなら」と医師たちは寝る時間を削り、家族との時間を削り、心身共に疲れ切った体に自ら鞭を入れ日夜奮闘していた。ただひたすら、人命を救うために。


 それらはいつしか「自ら率先して行うもの」ではなく、「上から強制させられるもの」に変わっていった。近年、医師の過重労働は大きな社会問題となっている。月200時間以上の残業はザラ。当直で夜通し勤務した後、朝から外来を見ることも当たり前。その合間を縫って研修会や学会発表の資料作り。入院患者の回診もあれば、その患者の家族が説明を聞きたいからこの時間にお願いしますと言われれば、その時間までは病院で待機。このようなことが重なり、病院では医師の過重労働による精神疾患や過労死が後を絶たなくなっている。


 これらの責任感の強い医師が多数いる一方で、高い志を持たずに医師となってしまう場合も多々見られるようになった。特に、コスパならぬタイパを求める現代っ子の若い医師たちは、医師免許取得直後から重労働を避け、比較的時間に余裕のある職場を選ぶようになった。そのため地方では産婦人科医や外科医の数が足りず、お産や手術を取りやめるような病院も数多く見られるようになった。


 その背景に挙げられるのが医師の登竜門である「医学部」への受験体制である。「医学部受験」は受験戦争の頂点に君臨しており、おのずとテストの成績が良いものが医学部を目指す傾向にある。医師の資質の有無や医師を志す熱意に関わらず、受験を突破したものが医学部に入り、国家試験を受けて医師になってしまう。


 そうなってくると、医師の中にも「医は仁術」ではない者が出てきてもおかしくはない。収入や名誉、優越感のために医師免許を取得する者も出てくる。はたまた医師免許を活用して新たな働き方を見出す者も出てくる。このような動きは決して否定されるべきではないが、「人命救助」という高い志や医師としての使命感といった原点を見失うと「何が正しいのか」という問いかけに対する答えがブレてしまう。このブレが、判断ミスとなったり初動を遅らせたりし、結果として医師患者双方の不利益となってしまうことは少なくない。人間は「しないこと」の理由を探すプロフェッショナルだと、どこかの哲学者が言っていた。つまり、「面倒くさい」と思うと、それをしない理由をどこからか探してくるのだ。医師だって例外ではない。医師となる原点を見失うと、「面倒くさい」が勝ってしまうのだ。



 そんな混沌とした時代の中、この物語の舞台となる「明日香輪(あすかわ)病院」は、40年以上にわたってこの地に鎮座し、多くの患者の喜怒哀楽を見てきた。明日香輪病院は関西圏にある大都市のちょうど中間に位置する中核都市にあるごく普通の病院だ。ごちゃごちゃとした住宅街の中にあり、大きな道路からは見えにくいところに位置している。それでも道路から一本中に入ると、大きな建物とその周りにはとってつけたような広い駐車場、送迎の車の待機場所など病院を中心に一つの街ができているようだった。おそらく最初は小さな病院だったのだろう。建物は何度も増改築を繰り返したようなチグハグ感があり、ちょっとしたアートをみているようだ。飛鳥輪病院は、ここ数年、人工透析治療を中心に実績があり、少し遠隔の土地からも患者が訪れる。それに加え、近年、大学病院から転職してきた医師により難病の治療にも力を入れている病院である。古い建物の病院であるが、若い医師たちが力を合わせ、錆び付いた舵をきることで院内を充実させようとしている病院だ。


 この物語は、明日香輪病院難病内科に勤務する女医「ヘラ子」の波乱万丈な勤務生活を綴ったものである。




 当直と日勤の入れ替わりが始まる少し前の午前8時、医局内は静まりかえった夜間から一転し、微かな喧噪が入り交じりはじめていた。ヘラ子は、コーヒーの重厚な香りのする湯気を眠気混じりの顔にさらしながら目をパチパチと閉じたり開いたりしていた。こうすると何となく眠気が覚める気がするので、学生時代から、眠い朝はコーヒーを飲む前にこの儀式を行っていた。そんなコーヒーの香りが朝の喧噪と結びつき、医局内は何とも言い難い雰囲気が漂っている。


 医局のコーヒーはインスタントかドリップと相場は決まっているのたが、ヘラ子は決まってドリップをチョイスする。慣れた手つきでドリップコーヒーの封を開け、マグカップにセットする。この日は、ドリップの足がうまくマグカップにはまらなかったためつい少しイライラしてしまったが、それでも気を取り直して、深呼吸、マグカップの淵にドリップの足をキチンとあわせてからお湯を注いだ。お湯はトクトクトクッという音とともに、ドリップの中で広がり、飴色のしずくとなってマグカップに降り注いだ。マグカップにドリップをキチンとセットすることはヘラ子の朝の儀式であり、これがキチンとセットできた日は何か良い1日になるような気がする。何の根拠もないし、他の誰にも理解できなかったが、これがヘラ子の日常のマイルールとなっていた。


 「ふぅわぁー、眠いわぁ。昨日は急な呼び出しだったからなぁ。まあ、患者さん何とか持ち直したから良かったけど。」


 ヘラ子は医局の椅子にもたれかかり、全身から出て来るあくびを押し戻すように右の手のひらを口に当てた。



 昨晩、ヘラ子の受け持っている入院患者の容態が急変したのだ。ヘラ子は自宅で就寝中だったが、PHSの着信音とともに目をパチリと開き、当直ナースから連絡を受けベッドから飛び起きた。電話口で病状を聞くと、すぐに家族に連絡するよう指示を出した。そして、自分は眠い目をこすりながら身支度を整え、自家用車に飛び乗ると病院へと駆けつけた。病院に着くやいなや白衣にそでを通しながら検査データに目をやると、一目散に患者のもとへとむかった。


 通常、こういう場合、当直医が対応することが多いのだが、ヘラ子の患者は難病を患った患者が多く当直医でもなかなか手が付けにくいこともあり、自分の担当患者が急変した場合は可能な限り駆けつけるようにしている。


 患者のもとへかけつけ、病状を確認し、薬のオーダーを行う。今日の当直ナースの草野看護師はヘラ子とは相性が良く、普段から阿吽の呼吸で診療をこなすことが多い。


「今日の当直が草野さんで助かったわ。これとこれとこれオーダーしたから持ってきて。」


オーダーした薬の投与を草野看護師に任すと、ヘラ子はすぐに患者家族のもとへ向かった。


「夜分にご足労ありがとうございます。先ほど患者さんが急変され、現在、お薬を投与して経過を見ています。なかなか厳しい病状ではありますが、こちらも手を尽くします。ご心配でしょうが、しばらくお待ちください。」


ヘラ子は落ち着いた口調で、患者の家族に説明を行った。ここで、慌てて早口になると患者の家族を不安が増すばかりであることをヘラ子は知っていた。どんなに眠くても、気持ちが焦っていてもそれは顔に出さない。自分ができることは、現在の病状と経過の説明、そして患者家族の気持ちを理解してやることだ。



「先生こそ、夜分に来ていただきありがとうございます。」


患者の家族から礼を言われると、ヘラ子は丁寧に頭を下げ、白衣の裾が追いつかないスピードで旋回し、患者のもとへ向かった。


それから数十分後、


「患者さんの容態が安定しました。」


草野看護師の興奮した声にヘラ子は心の中でガッツポーズと安堵のため息を繰り返し、家族への説明を行う。


「夜分にご足労ありがとうございました。何とか無事に一命を取り留めました。まだ、安心はできませんが、今晩は大丈夫でしょう。」


患者の家族はヘラ子にお礼を言い帰宅していった。ヘラ子は自分の担当している患者の家族と連絡を密にしているため、非常に良好な関係を築いている。病棟の管理も丁寧で、ナースたちからも一目置かれる存在である。そのため管理が不十分な患者の担当医にイライラしてしまう。普段は見ないようにしているが、当直などで呼ばれる患者は管理不足の患者が多いため、必然とどの医師の管理がイマイチかわかってしまうのだ。



 時計を見ると、午前5時より少し前だった。病棟の東むきの窓からはうっすらと朝焼けが見て取れる。


「カルテを書いて、少し休憩したら、回診するか。」


 医師は夜間に救急対応しても、翌日が休みになるわけではない。むしろ、朝9時から始まる外来での業務を前に、入院患者を見て回る必要がある。ヘラ子は現在40人を越える入院患者を受け持っている。飛鳥輪病院の病床は120床。満床になったとしてもその3分の1はヘラ子の担当だ。そんな大人数の入院患者を抱えていても、できるだけ多くの入院患者の回診を外来前にこなし、残りは外来業務後に見て回るようにしている。ヘラ子の場合、1人1人に声を掛け、事小まめにカルテに記載するためどうしても時間がかかる。病院内には前回の診察内容をコピペしているだけの医師もいる。彼らから見ればヘラ子の仕事は効率が悪いように見られがちだが、ヘラ子にとって診療録は患者の容態の変化を事細かに記したものであり、それを読み返すことで次に何が起こるかを予想しながら診療出来るのだという。カルテを記載後は、学会や研修会での発表スライドを作る。週に数回、業務後に研修会にも参加する。これだけのことをこなしながら、さらに定期的に当直、時には夜間に駆けつける。これらが女医ヘラ子の日常なのである。



 ヘラ子が疲れ混じりにコーヒーを口にしていると、後ろから鈍い視線を感じた。視線の主はヘラ子が苦手としている同じ難病内科の戸村医師であった。戸村医師はヘラ子の直属の上司で、ヘラ子がこの病院に赴任して来る前に所属していた大学病院の医局の先輩でもある。


「戸村先生、305の患者さん、昨晩、容体が急変しましたので、緊急対応を行い、家族にも説明しました。」


「…ボソボソ。」


「おそらく、しばらく容体は安定すると思います。」


「…ボソボソ。…ボソボソ。…でや。」


「家族さんも、安心して…」


「…報告は?…俺に対する報告は?先に報告がないのは何でや?」


「いや、先生、自宅も遠いし、それに……」


「ちっ、自分だけいい顔しやがって、容体が急変したらまず、俺に連絡するのが普通やろ。」


「…すみません。」


ドンッ!


ヘラ子が頭を下げている向こうで、戸村医師がたたいた机の上の書類たちがかすかに宙を舞うのを感じた。


「すみませんじゃないやろ!自分は駆けつけて満足かもしれんけど、俺にも立場があるのわからんか?」


ドンッ、ドンッ!


 戸村医師が机を叩くペースは最初、全音符だったが、次第に四分音符になり、わめきながらぺースをあげ、最終的には八分音符に変わっていた。しかもクレッシェンドで。そして、何かをわめきながら近くのボールペンを折りだした。15本近くのボールペンの外筒が床に転がった後、自分のスマートフォンを取り出し、床に投げつけた。


一見すると猟奇染みた行動だが、戸村医師は気にいらないことがいつもこうである。


しかしながら、それを咎める者は院内に存在せず、周囲のスタッフは怯えるのみであった。唯一、ヘラ子だけが、正面に立ちその暴挙を遮るのだ。


「また、はじまった…」


ヘラ子は周りに気付かれないように、ため息を1つ吐き、戸村医師に申し出た。


「戸村先生、気にいらないからと言って、ものにあたるのはやめてください。」


こんなとき、多くの人は嘘でも理由をつけてこう謝る。「私の連絡が遅くなり申し訳ありませんでした。」


しかし、ヘラ子は謝る気などサラサラない。なぜなら、今回の急患対応はヘラ子が患者の生命のために行った行為であり、戸村医師の気をよくするために行ったことではないからだ。


近くでこの様子を見ていた新人ナースは、戸村医師の暴れぶりに驚き腰を抜かしていた。それに加え、戸村医師をなだめに行ったかと思うと逆に咎めたヘラ子の発言にさらに驚嘆していた。


そして、ヘラ子の正論を受けた戸村は言い返すこともできずに、苦虫をかみつぶしたような顔を見せ、医局のドアを蹴飛ばし去って行った。



ヘラ子の直属の上司、戸村医師はいつもこんな具合であった。大学病院の医局時代から噂はきいていたものの、実際に目にすることはなかったが、ここに来てその噂が本当だと毎日のように実感することができた。あの激務に加えて、この上司の態度。いつも情熱いっぱいヘラ子ではあるが、自身が気づかないうちにヘラ子のストレスの袋は音をたてながらミシミシと膨らみ続けるのであった。



戸村医師が去った後でヘラ子は自分に言い聞かせる。



「私、何か悪いことした?いいや、私は、間違ってない。医療的に正しいことをしてるはず。患者さんのために仕事してるんだもの。あんたのために仕事してるんじゃない。こんな態度だから当直ナースも連絡しにくいの気付かないのかなあ?」



激務に加え、上司からの圧力。「医は仁術」とは言うが、ヘラ子にとっては毎日が耐え忍ぶ「忍術」なのだ。しかしまだこの時、飛鳥輪病院という大きな船に乗るヘラ子は、この先この船が大きな渦に巻き込まれていくことを知るよしもなかった。

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