第5話 人はそれを駆け落ちと呼ぶ
「ねえ、ゆきからなんか連絡あった?」
芽衣が登校すると、美羽とフィオナが教室の隅で話をしている最中だった。
二人は首を振った。
「そもそも学園から帰宅したの?」
芽衣が聞いた。美羽が
「鞄はあったの。お父さんとお母さんは商売をしていて、午後七時頃には家に帰るけど、ゆきが簡単にご飯を炊いてお味噌汁を作ってるらしいのね。昨日は作ってなかったそうよ」
「とりあえず家には帰ってるんだ」
フィオナが小さく呟いた。美羽が続けて
「ゆきのものを調べたら、何か持ち出した形跡はないみたい。置手紙もなしね。いったん戻ってちょっと出かけた……って感じみたい」
芽衣は失踪という言葉が頭をよぎる。
でも、ゆきが? なんで?
「警察には届けたそうよ、出すタイミングが難しいんだそうよ。事故とかそういうことも考えてるそうよ」
芽衣はなんとなくクラスの中を見回した。来るんじゃないかと淡い期待を抱いた。
けれどそんなことは、起きない。
「彼氏とはめを外し過ぎてるとか?」
美和が固い空気をほぐそうと少し笑って言った。そういう結論を望んでいるのだろう。芽衣だってそれは同じだ。
「小学校時代の担任と付き合ってるって本当かな?」
フィオナが聞く。
「本人がそういうんだから、そうなんじゃない」
美羽が答えた。
「妄想とか?」
フィオナが言った。そりゃ誰だってちょっと信じがたい。
「でも卒業してから付き合い始めたって聞いたことある。けじめはつけたって言ってた」
「それってけじめなの?」
フィオナが不思議そうに言い、唇をとかがらせる。
「でも奥さんがいるとか、それって、不倫……?」
芽衣は以前、美羽が言っていたことを思い出して聞く、美羽もフィオナも黙り込んだ。
「私は、ウェブ漫画に夢中のゆきしか知らないから」
フィオナは、戸惑いだけが先だった言い方をした。芽衣だってそれは一緒だ。大体、ゆきがいなくなる理由なんて、何かあるのか?
遅刻だ。アランの足はどんどん早まる。実習三日目で緩みが出た。学園に近づくにつれ遅刻組の生徒の姿がボツボツと現れる。焦ってアランに慌ただしく挨拶をして駆け抜ける生徒や、もう慣れっこになっている常習者は、余裕で挨拶をして行く。アランはその中で、いろいろ事情があって今日はこの時間になったが、これは決まっていたことなんだという素振りをするのに精一杯だ。生徒の手前、遅刻しそうで焦っている姿は見せられない。どうにか校舎に辿り着くと、職員室への近道になりそうなルートを思い浮かべた。ここから水飲み場を辺りを突っ切ると裏から校舎に入り、職員室のへの最短ルートになるはずだった。水飲み場が見えて来た。ヤバい。後五分しかない。実習担当の田坂にもすました顔で挨拶が必要だしとこの後の行動を計算した。
水飲み場に用務員の姿があった。長いホースを扱っている。花壇の生徒たちが使用している部分以外の水やりでも始めるのだろう。若い背中のシルエットにこの間見た用務員だと気付く。その脇にスーツ姿の男が立っているのが見える。男は背中を向けていて顔が見えなかったが、まるでアランが来るのを察知したように振り返る。アランの足が止まった。
小木義春だった。
「よお、石神じゃない」
のほほんとした雰囲気で小木は言った。ああ、アランは軽く頷いた。
小木は小柄だが、がっちりとした腰の張った体格をしている。丸い顔に丸い額、短い眉に大きい出目をしている。鼻も丸い。その割に唇は薄い。特に上唇が短くて薄かった。よく笑う男で、中学時代は愛嬌のある弟のような存在だった。けれど彼のいうことは正確じゃない。嘘つきというのは違うが、何処か話を盛るとか自分にとって都合のいい話になる傾向があって、アランや神崎は小木の話を半分に聞くところがあった。根は悪い奴じゃないが、不注意なところがあると思っていた。
今も小木は屈託のない笑顔でアランを見ていた。
「ガーデニング関係の仕事をしてるんだろ」
アランは言った。頭の中で時間が気になった。
「うん。そうなんだけど、最近、不動産会社に転職したんだ」
生き生きと嬉しそうに小木は言った。
「結婚するんで、彼女の会社を継ぐんだよ」
こういう話を嫌味なく言う奴だ。へえ、アランは羨ましさを出さないようにして呟いた。例の盛ってる話かもしれないが、事実なら喜ぶのがかつての仲間だと思った。
「教育実習なんて凄いな。教師になるのか?」
アランは曖昧に笑った。
「それはまだ。とりあえず資格が取りたいだけだよ」
実際教師になるのかと言われると、気持ちは大きく揺れていたし、半分以上はないだろうに傾いている。
「みんな凄いな」
この場合のみんなは誰を指しているのかアランには判らなかったが、小木は昔からどこかひがんだような物言いをするところがあった。変わってないなというのが感想だ。
「お前の方が凄いだろ。俺、時間がないんだ」
アランは言って、小木を振り切ろうとした。そばでじっと背を向けていた用務員が、小木を呼んだ。アランはその隙にその場を離れた。
しかし無情にチャイムが鳴リ出した。
アランが職員室へ入るとすぐに校長室ヘ行くようにと言われた。一瞬何かしただろうかと思ったが、他の先生も慌ただしく移動をしている。ほとんどの先生が校長室へ向かっているようだ。
広いとは言えない校長室に、教師が集まった。校長室の中央奥にある校長のデスクにでっぷり太った校長が不機嫌を隠せない顔で座っていた。そのそばに痩せた教頭がイライラとした様子で立っている。集まった教師たちは、中央にあるソファセットを避けてそれぞれ自分の場所を確保して立った。
「えー、実はですね」
教師は、どう話し始めるべきか考えながら
「一年A組の堀川ゆきという生徒が、昨夜帰宅していないという連絡がありまして……」
芽衣の友だちだ。昨日帰っていないと連絡を受けていた。
「昨日の今日ですが、ご両親は警察へ捜索願い出したそうです。とにかく昨夜少なくともご両親が気づいたのは午後七時以降ということでしたが、一旦家に帰った形跡はあるそうです」
教頭は大きく息を吸うと
「ということで、学園といたしましては、一旦帰宅した後の家出……失踪……もしくはなんだろう……になりますので、もし他の保護者や警察、マスコミ等から話を聞かれた場合、職員のみな様は、学園は関知していないので、答えられないということで統一してください」
教員の間に動揺が広がった。男性の教師が
「誘拐ってことはないんですね」
「そうですね。少なくとも身代金の要求がありません。堀川さん自身が自発的に出て行ったか、事故に遭ったか、とにかく一旦帰宅した後のことなので、ご家庭の問題と思われます」
近くにいる三田村が天を仰ぐように上を見た。
福田先生の時もこんな話が教師の中で行われたんだろうか。学園側はすぐに保身に走ったのだろうか。
校長が重い口を開いた。
「なにせ、まだ一日も経っていません。明日辺りひょっこり戻って来るということもあります。ご家族も本人もあまり騒いでは後々気まずいでしょう」
「でも、中一の子どもが戻ってないんですよね」
また違う男性教師から声が上がる。
「戻っていないだけで、事情は判りません」
教頭が答えた。
「失踪かどうかは」
教頭の声が裏返っていた。
「失踪って、家に戻らず姿を消すことを、失踪って言うんじゃないですか」
女性教師が責めるような声を上げたが
「いや、今は失踪の言葉の意味のことはどうでもいいじゃないですか」
三田村が抑えるように言った。このまま行けば教師の間で大きな動揺が上がり、話しが全く関係のないところへ流れてしまいそうだった。
「とにかく学園側の統一見解としては、先ほど申し上げました通り、答えられないということで、お願いします」
教師は悲鳴のように語尾を張り上げると、教師たちにそれぞれの教室へ向かうように強引に話を切り上げた。
校長室を出ると、アランは三田村を追いかけた。
三田村は、アランが近付くと、突然
「関係あるわけないだろう。七年前だぞ」
と言った。固く握りしめた拳は怒りをどこへ向けたらいいのか迷っていた。三田村は、拳を開くと、ふっと息を吐き、アランの肩に手を置いた。ずっしりと重く肩に食い込むほど力がこもっていた。
「十四歳の子どもだ。大丈夫だ」
ポンポンと肩を叩く。そのまま去った。アランももう何も言うことができなかった。三田村も福田先生のことと重ねて考えている。それこそ七年だ。アランだってこれが何らかの繋がりがあると考えることに無理があるのは判る。
「石神先生」
背後から高羽がそっと声をかけて来た。彼の顔を見ると、目が潤んでいた。高羽は、目を落とし小さな声で
「相当ヤバいですよ。こんなに迅速に対応するなんて、危機管理バリバリですよ」
と呟いた。ポケットに手を入れて、更に目を落とした。アランも、学園側は相当警戒していることを感じた。生徒というのがまずかった。教師なら自己責任とも言えるが、話しが外へ漏れれば、保護者と言わず、マスコミも大騒ぎするだろう。
芽衣は新しい情報を得ているだろうか。気になったが、芽衣と連絡を取る方法がない。それに、できればこんなことに巻き込みたくはない。アランがかつて感じた苦しみを味合わせたくない。
「とにかく、状況をみるしかないですよ」
目の前にいる一人の落ち込んだ教師の高羽をなんとかなだめようとアランは務めた。
「さっき、ゆきのお母さんに聞いたの」
美羽は当惑した表情で話し始めた。芽衣たちは、昼休みに花壇の更に奥にある藤棚の方へ来た。ここならほとんど生徒は来ない。たまに先生が煙草を吸いに来るがそれも禁煙する先生の方が増えているからあまり遭遇する恐れはない。周囲は静まり返っている。芽衣は咲き誇る藤の花より、行き止まりになる壁の方に目が行く。弦が伸びる植物が茎を這わせていた。生命力の逞しさを見せつけられる。
「戻ってこないのね」
フィオナが顔を曇らせた。他のクラスメイトにもゆきが家に帰っていない話が少しずつ広まっている。
「そうね、戻らないかも……」
美羽はうつむいた。なんだか奥歯にものが挟まったような言い方だ。
「お母さん、パニクってて私が娘の友だちって忘れてるみたいなのよね。ベラベラシ喋りまくってるんだけど……ゆき、駆け落ちしたんじゃないかっていうの」
芽衣とフィオナは言葉を失ったまま美羽を見つめた。美羽の次の言葉を待つ。美羽は言葉を選んでいるのか、ゆっくりと話を進める。
「だから、付き合ってる人がいるって、言ってたじゃない」
「小学校の担任の先生?」
フィオナがどことなく嫌悪感を滲ませて言う。
「迫田先生っていうらしいけど、その迫田先生も帰っていないらしいの」
「不倫って言ってなかった?」
芽衣はこの間の話を思い出した。美羽は大きく頷き
「そうなのよ。で、奥さんが妊娠してて、その迫田先生が、『君との将来より、彼女との将来を考えたい』って置手紙残してるらしくてさ」
「君って、ゆきのこと?」
芽衣は思わず大きな声を出した。
「それ本当の話?」
フィオナも信じられないというように、首を振った。普通で考えたらその話をしたっていうお母さんにからかわれていないか心配するところだ。
だたゆきが消えたことが事実である限り、これは受け止めないといけない現実だ。
「失踪とか、駆け落ちとか……」
フィオナが絶句する気持ちの方が現実として、判る。
芽衣は考える。そうすると、ゆきの失踪……駆け落ちは、福田先生とは関係ないということになる。
芽衣は、福田先生のことがずっと頭をちらついていた。普通なら、美羽たちに話すところだが、ゆきのことが起きてしまい、逆に言えなくなってしまっていた。
特に福田先生が、まだ見つかっていないことを考えると、言えない。
でもゆきは恋人と駆け落ちしたなら、どこかで無事だということになる。
フィオナが、
「燃え上がった恋人同士は落ち着くのを待つしかないんじゃない? いわゆるロミオとジュリエット状態なんでしょう?」
突き放したような言い方になった。そりゃ周囲に心配をかけて二人は恋の世界にいるなら、芽衣だって飽きれる。
「ラインも電話もなにも繋がらないんだよね」
そう言いながら、美羽が再度電話をかけようと挑戦する。
「そりゃ、しばらくは繋がらないわよ」
「これからどうなるの?」
芽衣が言った。
「どうなるのが正解なの?」
美羽の目がさ迷う。そして
「ゆき、愛を貫いて、とか」
「え? それって結婚?」
芽衣は思わず言ったが
「できる年齢じゃない」
フィオナが冷静に収める。そして
「ダメよ。こんな無責任な男。絶対反対だわ」
と、フィオナは怒った。
でも、福田先生と関係ないなら。その一点では、芽衣は胸を撫でおろしていた。普通で考えれば、七年前の失踪と今回のことが繋がる確率の方が低いはずだ。
アランは職員室の高羽のデスクのそばに椅子を持って行って、一緒に昼食を摂った。お互い近くのコンビニで買ってきた弁当だった。それでもこれが楽しみだったりするのだ。高羽は口数が少なかった。まだショックから立ち直っていない。それは他の先生たちも一緒だ。いつもより職員室の空気が何とも言えず暗い。それでいてイライラとしていて、また何か燃料を放り込めば、一気に燃え上がりそうな雰囲気だ。
学園側は、福田先生のことを認識しているはずだ。三田村や他にも当時のことを知る先生たちがいる。だから今回のことに対して素早い対応を見せたのだ。アランは高羽に福田先生のことを話せずにいた。この状態では、無理だ。
二人は五時間目に授業がないので、のんびりとしていた。高羽は数学を教えている。正解のあるものが好きだという。彼のちょっとした数学講座を受けながら、花壇の方へ行った。五時間目の始まるチャイムが鳴り、花壇にいた生徒たちが教室へ帰って行った。静まり返る花壇に風が吹いた。突然物悲しさが胸に押し寄せた。
「みんなこんな正解のない世界でよく平気で生きてますよね」
高羽はずい分繊細のようだ。今日一日でそれを痛感した。高羽は、雄弁だった。
「この間、大臣みたいな人が来たんですよ」
花壇とは逆側にあるビニールハウスを指した。
「いろんな植物があるんですよね。でもヤバいものもあって、幻覚を起こすキノコとか? もあって、さすがに生徒の手前、どうかと思いますよ」
珍しい植物があるとは聞いていたが、そこまでとは。アランも意外だった。
ちょうどビニールハウスがある辺りが、花壇の外れになる。その花壇の一番奥まった場所に巨木があった。壁を突き破りそうになりならが立つ巨木は大きく枝を茂らせ、それが一番端の花壇の上に覆いかぶさるようになっていた。日辺りがとても悪くなっているのでその一角だけは貸し出しをしていないようだ。作業服姿の用務員が、土をスコップで耕していた。
「あの人」
アランは高羽に聞いた。
「僕、中学時代にこの学園にいたんですが、その頃見たことがあるなって思って、その頃からいた人かな」
高羽は、大きく頷くと
「片瀬さんですよ」
と言った。
「大学くらいからかな、バイトで始めたとか聞いたような気が……。彼は二足の草鞋らしいですよ」
「他の仕事もしているんだ」
「ええ、漫画を描いてて、他の生徒も知ってるのかな。ウェブで作品を出してますよ『ゼンゼンマイン』っていうそうです」
「へえ、凄いんだ」
「架空の外国に、ゼンゼンマインっていう死神がいる設定で、彼が復讐したいと思っている人間の依頼を受けてリベンジを果たしてくれる。でもその過程で思いがけないことが起きて……ってストーリーです。複数回の連載で一話を完結させていくスタイルになってます」
「そうなんですか。ゼンゼンマインって面白い名前ですね」
「死神をドイツ語でゼンゼンマンっていうそうですよ。それを適当にアレンジしたんじゃないですかね」
「凄いな、創作活動ですか」
アランは素直な気持ちを言った。
「でも、素人に毛が生えたようなものですよ」
高羽の表情が厳しくなった。
「結局それだけでやっていけないですしね。扱ってる作品が若い子向けだからこうして若い子と触れ合っていればネタ探しになるって一石二鳥なのかもしれない」
高羽が人懐こい笑みを浮かべた。
「そう言えば、主人公のゼンゼンマンが石神先生に似てるな」
悪気なくそう言った。スマホで素早くアクセスすると主人公であるゼンゼンマンのの画像を出し、それをアランに見せた。ゼンゼンマンは、鼻眼鏡をして、黒いタキシードに黒マントを羽織っていた。いわゆる死神のイメージだ。華やかなブロントと碧眼は、いかにもヒーローらしい。高羽は周囲に他に誰もいないのを確かめると
「優太」
と用務員の片瀬に呼びかけた。今日は赤い野球帽を被っていた片瀬優太が、スコップで土を掘る手を止めて、こちらを見た。彼はスコップを土の上に立てると、汗を首に巻いたタオルで拭いながら歩いてきた。
「なんだ、健二」
びっくりして二人を交互に見た。片瀬優太は、アランの方に軽く会釈をしながら、歩いてきた。
さすがに土仕事をしてるいるだけあって、腰がしっかりとした体形をしている。背は高くない。作業服が少しぶかぶかだが、かなり華奢な身体つきだった。額も顎も四角い。鼻が長く焼けている。黒い髪は天然パーマで、かなり癖がきつい。黒目がちの目は純朴そうな人柄を現わしていた。
高羽は、チラリとアランを見た。
「僕の七歳年上の、兄のようないとこなんです」
何処か恥ずかしそうに高羽が言った。
「あ、石神先生、こんな所にいた」
後ろから女性教師のせわしない声がした。女性教師は慌てていた。
「すぐに校長室ヘ行ってください。校長先生がお呼びですよ」
女性教師の様子からよくない話だと想像がつき、アランは正直うんざりした気持ちになった。
「石神先生、何かしたんですか?」
と、今度は気楽になったらしい高羽は、からかうようにアランに言った。
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