第3話 消えた教師
アランが中学2年の時だ。二学期が始まって間もない頃、まだ夏の残暑が厳しい日だったのを覚えている。
あの日、アランが福田舞先生を見たのは昼休みだ。中庭にある広々と花壇に多くの生徒が集まっていた。福田先生もその生徒に混ざって花の世話をしていた。この花壇はそれぞれ場所を釘って希望する生徒に貸し出されていた。希望者は多い。抽選に当選した生徒がそれぞれ自分の借りた場所で好きな植物を育てている。先生はコスモスを育てていた。そろそろ開花する時期で、それを楽しみにしていた。先生の隣りの区間を借りている生徒が、今年は親のたっての希望もあり野菜を育てていた。それもそろそろ収穫のシーズンで、この話が弾んでいた。
アランは仲のいい神崎純平と共にぶらりと訪れた。
目を転じると、花壇の奥には白いビニールハウスがある。周囲には桜の木が植えられていて春ならちょっとした桜のアーチを作る。ビニールハウスには珍しい植物があり、その植物目当てに研究者が訪ねて来ることがあった。ビニールハウスを越えると、藤棚とその下に小さな池がある。そこで中庭は行き止まりになる。初夏に向かう頃は藤棚が小さな池の上を彩る。この中庭には、そこにしかない四季の美しさそれぞれ咲き乱れ、自然の美を繰り広げた。
その中、そうして当たり前の一日が過ぎたはずだった。しかし翌日先生は登校してこなかった。
その時は病気と思われたが、休みは続き、やがて病気が重いとか家に帰っていないとかいろいろの噂が広がった。
福田先生が学園から姿を消して二週間が経った頃、先生が失踪したという話が聞こえて来た。
体育教師の三田村道也が、彼には珍しい複雑な表情でアランと神崎に話した。
アランと神崎は矢継ぎ早に、どういうことかと聞いたが、詳しいことは判らないと言い、三田村は一方的に話を断ち切ってしまった。先生たちにも事情が全く呑み込めず、何も話すことができないというのが本当のところのようだった。
生徒は心配になりながら、先生の失踪という事態に非日常を感じてドキドキする気持ちが抑えきれなかった。あくまで福田先生の場合、突然消えたということで血生臭い匂いがなかったからだ。あちこちで推理を展開する生徒がいた。アランと神崎も自分たちも調べられることを調べ、先生の行方を探ろうとした。彼らに、小木義春が加わった。けれど先生はあれきり七年経った今でもまだ発見されていない。
「福田先生、どこでどうしているのかしら?」
芽衣がアランの様子を気にしながら言った。
アランは首を振った。目の前にあの日の先生の顔が浮かんだ。
丸顔の幼い顔つきだった。目も鼻も丸くて温和な表情をいつも浮かべていた。夏になる頃から唇の色がきついほど赤くなった。女子生徒は素早く反応し、彼氏ができたんじゃないかと言っていた。小柄だが、肉付きが良く当時二十四歳という年齢と相まって魅力的な容姿をしていた。清楚なブラウスとタイトな濃い色のスカートの格好が多かった。
生徒は先生を姉のように慕っていた。花壇で花をいじりながら多くの生徒の悩み事に乗っていた。
手の甲がぷっくりとしていたが、手の動きは優雅だった。土いじりをするせいか、マニキュアは塗っていない。切りそろえられた爪は健康的なピンク色をしていた。
「恋愛でトラブったとか?」
芽衣が声を潜めていう。
「さあ、そういうプライベートなことはまるで判らなくて……」
判りたくないというのが本音だった。
消えたとされる日、先生は駅へ二年生の生徒と一緒に向かっていた。けれど駅の辺りに来ると忘れ物をしたと一旦校舎に戻ったと彼女たちは証言した。学園にはあちこちに防犯用に監視カメラがあり、出入り口もしっかり監視カメラが訪れる人物の顔を抑えていた。しかしテープはすぐに上書きされてしまうため、二週間前のテープはもう存在していなかった。放課後は用務員が来訪者が鳴らすベルでドアを開閉しているが当日の記憶は曖昧だった。
「とにかく事件性がなかった」
だから警察は動かない。福田先生の両親は、そのことでかなり食い下がったが、届けを受け付けただけで具体的な動きは何もしなかった。
月日だけが流れてしまった。
「生きてるよね」
アランにイエスの返答を求めるように芽衣が言った。
そうだと信じたい。アランたちにはそれしかできなかったのだ。
しかし―――。
アランは職員室のデスクで準備をしてる。他の先生方は特別にアランを意識していない。挨拶や判らないことはないかと気を遣ってくれる。アランはその親切を有り難く受け入れて愛想よく振舞った。しかし時間が経てば経つほど、この職員室の独特の雰囲気には困惑が広がる。先生には先生同士、またはそれ以外の職員との付き合いがあるのだということは判るが、学校の中ってこうも複雑な人間関係があるものなのかと思う。アランはここで中学時代を過ごしたが、当時いた先生はほとんどいない。唯一古株として残っているのが、三田村道也だ。アランたちにとって兄のような存在だった。校長と教頭は六十代だったが、三、四十代の先生が多く、二十代は一昨年教員の免許を取って入った高羽健二だけだった。
「どうです? 慣れましたか?」
ノートパソコンを前にあれこれ考えていたら、とうの高羽は後ろから興味深そうに、パソコンの画面を覗き込みながら声をかけて来た。
高羽は、きっちりとツーブロックに分けた髪型とアイロンがきっちりかかったワイシャツを着ている。それだけ見てると几帳面な性格に見えるが、これも教師としての彼の姿勢の現れのようだ。まだ25歳と若くて経験がないことから生徒や他の教職員に舐められないように完全武装してこうなったようだ。面長な顔に細長い目、短い鼻の下には大きめな口があり、その唇は常にきゅっと力を入れて結ばれていた。中くらいの背丈に肉付きの薄い身体は、コントロールして太らないようにしているようだ。筋トレが趣味というようなことを言っていた。ジムに通うより自分で工夫するのが好きなようだ。とても真面目な性格がそのまま現れていた。
誘われるままアランは給油室でインスタントのコーヒーを一緒に飲んだ。高羽は要領よく今の学園の様子を話してくれた。
「実習の終わりの日は、きっと告白の手紙とかきますよ」
からかうように高羽は言った。彼自身もいろいろ悩んだ教育実習期間だったようだ。彼自身、最終日に告白ではないが、女子生徒からの頑張って先生になってくださいという手紙をもらった。
「それで絶対教師になるって決めたんです。いや、我ながら実に単純だった」
そう言って楽しそうに笑った。
「でも告白なんて」
と、アランは笑った。
「君、相当な人気だろ」
それに高羽がニヤリと笑った。それまでの生真面目な印象がガラリと変わった。大学で同級生と話しているような感じがした。
「イマドキの中学生だぜ。俺たちの頃よりもっと複雑なものを感じるよ。中学生でお付き合いなんて、珍しくもないからね」
お付き合いという所に、何とも言えない不安がよぎった。芽衣の顔を思い出す。まだ幼さの残る芽衣でさえ、そんなことを考えて、もしかしたら踏み出しているのかと思う。いや、菜々子がついていてそんなことを許すはずはないが……と心が乱れた。
世の妹を持つ兄はみんなこんな気持ちなんだろうか。思春期の少年少女とは、こんなに扱いが難しいものなのか。かつての少年は思う。
「失礼しました」
すぐ脇にある職員室の出入り口で、澄んだ声が響いた。気になって見るとポニーテールの少女が一礼し、廊下を歩いていく後ろ姿が見えた。見ている視線が気付いたのか、アランの方を振り返った。アランたちに向かって一礼するとそのまま足早に去って行った。
「フィオナ・ベルだ」
高羽が言った。昨日初めての授業の時、A組のクラスの子たちの資料を見た。その中に白人の女子生徒がいた。
「日本育ちなんですね」
アランが見た資料を思い出して言うと
「英語より日本語の方が得意ですっていうのが、彼女の持ちネタらしいよ」
授業中、教壇の上から見たフィオナの眼差しを思い出した。真っ直ぐにアランを見ていた。若干茶色がかっているが黒が勝っている。髪の色が黒く、透けるような白人特有の肌に映えている。鼻の周りに薄いそばかすがたくさんあった。ポニーテールにきっちり結っているが、おくれ毛が目立つ。それが彼女を幼くやぼったくも見せているが、なかなか整った顔立ちをしてる。緩く弓なりにカーブした眉、眼窩はあまり窪んでいないが、その下には鼻筋がしっかりした鼻があり、短い鼻のを下を経て形のいい唇があった。十四歳という年齢にしては身長も低くまだずんぐりした体型をしていた。
「勝気だな。本当は英語も相当な出来だよ」
だろうと思う。あの意志の強そうな目を見れば判る。
「その内、なにか相談されたりしてね」
冗談のように軽く言う高羽に、何を言いたいのかは大体判る。アランとフィオナは同じタイプに見えるのだ。
「慣れたか、貫禄だな」
声が背後からして振り返ると、コーヒーカップを持った三田村がニヤニヤして立っていた。
前半の台詞はアランに、後半の台詞は高羽に向けたもののようだ。高羽は照れ臭さそうに笑った。三田村は目尻に人のよさそうな皺を寄せて笑っていた。老けたなと思う。髪に白いものがチラチラとしていた。
「お前が教師とはな。長生きはしてみるもんだ」
と、まるで長老になったような口ぶりだ。アランが中学にいた頃は、三十になって間もない頃だったと思う。当時は兄のような存在だった。身長はあまり高くないが骨太でがっちりと筋肉がついた体格をしていてさすが体育の教師と思わせた。今も胸板はそれなりに張っている。今も鍛えているのかもしれない。小さめの顔に小ぶりな目と鼻がちょうど顔の真ん中にある。似顔絵を描くにはもってこいの顔だといつも笑っていた。単純という言葉がまさに相応しく、考え方も話し方も回りくどくない。
「俺の教えが良かったんだよな」
こういうものの言い方はさすが三田村だ。アランは一気に恥ずかしさでどこか穴を掘って入りたくなる。アランの中学時代を知っている生き証人だ。
「神崎はカメラマンか」
なんとなく当時のアランの友人の話になった。三田村はうんうんうなずいて嬉しそうだった。神崎純平は、まだカメラマン助手だが、そこはご愛敬だ。
「小木は今でも時々来るぜ」
なりゆきで小木義春の名前が出た。小木は一見温和なタイプで誰とでも気さくに接した。世渡りが上手いというか。アランたちとグループを組んでいたが、他グループとも活発な交流があった。
「ガーデニングっていうのか、肥料……の関係の仕事をしていて、それであの花壇によく来てるよ」
花壇の周りをよく囲んでいたのを覚えている。仕事にしたのか。けれど大学は行かないで就職したというのは少し意外だ。
「おじいちゃんが介護で大変だったりしたらしいぞ」
三田村は短く語った。
「福田先生な……」
そしてそこへ話は行きつく。
三田村と福田先生は年齢が近く、それぞれ生徒のことに熱心だった。アランたち生徒は二人がくっつけばいいのにと適当なことを言っていた。三田村が福田先生にお熱だと信じている生徒もいた。三田村は、福田先生が失踪して半年後には結婚した。アランたちは知らなかったが、きっと昔らか交際してる相手がいたんだと思った。
三田村もその後、福田先生のことについて何も知らないと言った。先生のお父さんとは年賀状のやり取りがあって、二年ほど前に退職したことだけを知っていた。
「どこかで元気にしてるといいなと思うけどな」
歯切れ悪く三田村は言った。アランのスマホに通知音が鳴った。
「噂をすればですよ」
神崎純平からだった。
「ほんとう、少年探偵団の君らは、まだ仲がいいんだ」
三田村は福田先生の失踪を迷捜査していたアランたちを思い出したようだ。神崎がアランが実習に来ていることを聞きつけ、会いたいと言ってきた。
「迷探偵団の同窓会ですかね」
アランも笑った。福田先生のこと話し出すと重くなる。それを取り繕うすべを二十一歳のアランは学んでいた。
「見つからないことはだが……見つからない限りどこかで元気でいる可能性があるってことだよな」
三田村は回りくどいこと言った。言葉を選んでいるからそうなるのか。そうであってほしいという気持ちと、現実はきっと違うという気持ちが揺れるからか。
三田村の笑顔が不安定に揺れた。
「きっとそうですよ」
アランも元気に言ったが、言葉尻が揺れた。そしてその場の空気は何とも言えずに暗く沈んだ。
生徒のざわめきが遠く耳を打った。
「中庭どうですか?」
空気を察した高羽が、ふいに言った。アランはそれに笑顔で応じた。
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