第2話 ダーク・スイート・メモリーズ
アランは、度胸を決めて静かに立ち上がった。
これから彼の教育実習初めての英語の授業に向かう。拳を一度きつく握りしめてから、デスクの上にある教科書に手を伸ばした。持って行くものを確認する。これじゃまるで小学生の遠足前だな。何とも言えない興奮に沸き立ちながらそれと同時に何とも言えない緊張に蝕また。彼は必死に平静を装った。
アランの教育実習中の担当教員は田坂先生だった。四十を越えて少し髪が薄くなっていた。余計なことは言わずに要点だけを話すタイプだった。
田坂のデスクの隣りに椅子だけ持って行っていろいろな教育実習中の注意を受けた。彼に一日の終わりにその日のことをまとめたレポートを提出しなければならない。アランのデスクは、田坂が一年生を担当している関係で、一年担当の先生方がまとまっている一角にデスクが設けられた。この実習中で使うノートパソコンや筆記具などの細々したものが、デスクの中に用意されていた。ますは自分が使いやすいようにデスクを整理することから始めた。
頭の中で同じく実習に出ている大学の友だちと交換しいてるラインの内容がまざまざと蘇って来た。基本的には励まし合いだが、中には思いがけないことが起き、どうしたらいいのかとヘルプを求める者もいる。教職員との関係だったり、生徒との会話だったり多岐に渡っていた。他の実習生もまだ経験がないことばかりで具体的なアドバイスができない。ただこれが自分にも起きたらどうしようという恐怖心が増すだけになってしまうこともある。
大抵の実習生が、自分の母校に話を持って行き受けれてもらっていた。アランも同じだ。だからなのか、生徒としていた時と、こうして先生になるためにいることでは全く違う視点からものを見ることになった。今までは先生が悪いと思っていたことも、先生側からすればこんな事情がある。それを生徒にどう話し納得させるか。アランが教師として学ぶのはそっちなのだ。
アランを含め大抵の教職を目指す者は、生徒のためにあろうとうるが、それとこうして職員と触れ合うことは違う。教師同士の大人の付き合いがある。実習生として入った職員室は、アランにとって『巣窟』とも思える場所だった。
アランはゆっくりと歩いて教室へ向かう。授業開始のチャイムが鳴って少し経つ。廊下は静かに静まり返っていた。既に教師が教室の中に入り、授業を開始ししているような声も漏れ聞こえる。
彼はその教室の前で足を止めた。ドアに向き直る。田坂は先に来て、もう教室の後ろに着席しているはずだ。そこからアランの授業ぶりを見て採点をする。アランはネクタイに手をやる。直そうと思ったが鏡もないので無駄だと思い直す。ドアの取っ手に手をかける。大きく息を吸って吐いた。ドアを開ける。
1年A組の教室のドアはするっと音もなく開いた。
アランはソファにどっかりと腰を降ろした。ネクタイを緩めた。
1年A組のドアを開けてから何があったか、もう思い出したくもない。
バクバクと高鳴る心臓を悟らせまいと彼は教壇に歩いて、自己紹介を始めた。教室の後ろに座っている田坂が愛しく思えるほど激しい緊張が彼を支配していた。
授業は穏やかに進んだ。生徒たちはそれぞれ興味深そうにアランを見ていた。しかしそれはチラッと見ただけなので、実は嘲笑っていたのか、冷笑を浮かべていたのか、爆笑寸前だったのかアランにはよく判らない。
とにかく授業はスムーズに進んだ。アランの実習スタートとしては、よくできたと思う。
しかし、なんでこのクラスに芽衣がいたのかということだ。
教壇の上から芽衣の姿を視界に入れないように、必死だった。あいつがどう思うかどんな顔でアランを見ているかと思うと、恥ずかしくて耐えられない。少なくとも年の離れたいとこに見せたい姿じゃない。
アランの顔に微笑みが浮かんだ。教壇に立つ。それは何とも言えない快感だ。仲間のラインでそんな話を聞いた。
まるでスターになった気分だ。生徒が自分のことだけをじっと見てるんだぜ。興奮だよ。俺が世界の全てを支配してる、そんな気分だぜ。
そんなラインの内容が理解できた。
アランは大きく息を吸い込み、何とも言えない爽快感を思い出した。気分が最高に上がる。
「いい日だったみたいじゃない」
アランの前にコーヒーカップを置きながら、叔母の菜々子が言った。いや、とアランはにやけた顔を少し引き締める。実習が終わったら遊びに来なさいと菜々子から誘われ遠慮なく倉本家へ寄った。
倉本家は、
教育実習をして免許を取ろうとしているが、アランは教師になろうと決めていない。まだ迷っている。資格は持っていた方がいいと思っただけだ。アランの友人の大半もそうだ。実際教員の就職率が高いわけでもない。少子化も進んでいる。いい将来の選択ではない。一つの職業に人生を賭けるという考えも薄れてきている。
半面なんとしても教師になりたいと思う者もいて、そちらの方が大きな苦戦をしている。現実と理想の差を知って、そこで苦悩が始まっている。
アランは教育実習を初めてみて、教師になろうという気持ちが半分半分だったが、一気にそれ以下に落ちた。
階段を降りてくる音がした。私服に着替えた芽衣が姿を現わした。芽衣はクリーム色のコットンシャツに白のホットパンツを穿いていた。ソファの所に一直線に来ると、アランの向かい側にすとんと腰を降ろす。
「どうだった?」
興味津々な顔で身を乗り出す。芽衣の胸元が大きく開いた。それを見て、アランは目を逸らす。家の中とはいえ開きすぎだと苦い思いが胸をよぎる。菜々子がオレンジジュースの入ったグラスを芽衣の前に持ってくる。昔から芽衣はオレンジジュースが好きだった。菜々子は大柄だった。アランの父も大柄だ。アランの父は武道をしていたから特に体格がいいが、菜々子もどちらかと言えば恵まれた体格をしている。年齢があがって脂肪に覆われてきているが、持っている雰囲気が父と似ている。
芽衣とアランはよく本当の兄妹に間違われることがあった。父型の家系の影響なのだ。
「石神先生、格好いいってさ」
芽衣がグラスにストローを指しながら菜々子に言った。
「そりゃそうよ、アラン君格好いいもの」
菜々子は嬉しそうにアランの顔を見て笑う。アランはただ気恥ずかしい。
「みんな石神先生のこと、あれこれ話題にしてるわ」
芽衣は面白そうに、アランを見ている。
「あら、芽衣も嫉妬されちゃうかもね」
菜々子が言うと、芽衣はぷっと頬を膨らませた。
「いとこなんて、言わないわよ、絶対。恥ずかしいわ」
「こっちだって、ごめんだよ」
「あらあら」
と菜々子は楽しそうだ。
「ママ、カレーはいいの?焦がしたりしたら洒落にならないわよ。アランにいいところ見せたいんでしょう」
菜々子は料理が得意だ。そんな失敗をするわけがない。芽衣は菜々子は追っ払いたいのだ。
芽衣はニコニコとと機嫌がいい。その分アランが苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「どうしてお前、学園に入学したんだよ」
責めるような口調になる。愛広学園は偏差値的には中の上くらいだ。最大の特色は、中等科、高等科、大学と全ての校舎が都内にある。大学は中等科と高等科とは離れた場所にあったが、徒歩で行ける。中等科と高等科は同じ敷地内で区切られている。これが可能だったのは、創立者一族が自分たちが持っていた土地を使ったからだそうだ。そして植物の研究をしている関係者がいるので、学園の中庭に大きな花壇やビニールハウスがある。ビニールハウスには珍しい植物があり、他大学や植物の研究関係者も通ってきていた。アランはほとんどそこには興味がない。芽衣も興味を持っているとは聞いたことがない。
「運動部も最近盛んなんだよ」
芽衣はケロッとした顔で答える。
「まあ、それは聞いたことがあるけど、しないだろう」
「制服可愛いじゃん」
「それも……」
判らないわけじゃない。まあ、そんな理由かもしれない。進学も中等科に入ってしまえばよほどのことがない限りは大学まで上がれるし、何といっても芽衣の家からも近い。最近は交換留学制度も整っていて、それなりの評価があるようだ。
それでもこの選択はないと思っていた。アランがこの学園にいたことを菜々子は知っている。それが楽しい学園生活とは異質だったことも知っている。
「ね、愛広学園もないの?」
芽衣が目をキラキラと輝かせて、更に身を乗り出してきた。
「何だよ」
アランは、芽衣の胸元から目を逸らし、コーヒーカップの中をスプーンでかき回した。
「ほら、あるじゃない。学園の噂」
ああ、と思う。そういう話が好きな年代だ。
「あんまり聞かないんだよね。でもこれだけ歴史があれば、何かありそうでしょう? 代々受け継がれる、とか。隠れたスキャンダルとか」
アランの脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。アランが中等科にいた時の先生だ。まだ二十四歳だった。
「消えたんだ」
唐突に言葉が出来た。
「え? 消えた?」
芽衣が一杯の好奇心で聞き返す。
「消えたんだ。先生が。ある日突然行方不明になったんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます