となりの死神

松島可奈

プロローグ 祝福 第1章 失踪学園 第1話 アランと芽衣

 プロローグ


 彼は滴る汗を首にかけているタオルで拭った。それでも手を休めることがなくシャベルで土を掘り返す。

 やがてガツンと硬いものにシャベルの先が当たった。軍手をした手で、土を払ってそれを土の中から取り出す。彼はそれを愛おしそうに撫でた。頭蓋骨から土を丁寧に払った。懐かしい彼女だ。白い綺麗な骨が地上の光を受けてキラリと輝いたように見えた。彼女が喜んでいる、そんな風に感じた。

 頭蓋骨を自分の目の高さまで持ち上げる。頭蓋骨の目の部分が暗い空洞になってこの年月の重みを語っているように思えた。

「帰るんだね」 

 彼は殴るのが好きだった。

 頭蓋骨の一部が陥没している。彼が殴った後だ。

 その年、初めてトンボを見た日、彼は祖父が入院してる病院であの男に初めて小屋に連れ込まれた。

 白衣の男は前から、彼をじっと見ていた。彼が一人になるのを待っていた。彼が一人で廊下に出、自動販売機のジュースを買っていた時、初めて彼に近づいてきた。そして言葉巧みに彼をあの小屋に誘った。男は小屋のドアを閉めるのももどかしく彼を押し倒し、彼の身体を確かめるように丹念に触った。その手が彼のズボンに触った時、彼は言葉にできない恐怖を覚えた。叫びたかった。けれど声帯は彼の意志に反し、声を発することができなかった。恐怖は声を奪った。そして手がチャックにかかった時、彼の中で恐怖が爆発した。

 彼は身を守るためにそばにあったものを探る。男の頭上に振り落とした。

 陶器は砕け散った。破片の一部が彼の顔に当たって切れた。男は思いがけない反撃に後ろへ倒れた。

「何してるのよ?」

その時女性の声がしたのだ。

 倒れていた男が、ハッとしたように飛び起き、小屋の入り口にいた彼女を突き飛ばし、逃げ出した。

「大丈夫?」

彼女はだらしなく足を広げ、その場で放心している彼に声をかけてきた。彼はその途端

「なんでもない」

開いていたズボンのチャックを上げようとしたが、上手くいかない。美しい女性は彼を心配し、憂い顔で彼をじっと見ていた。恥ずかしかった。自分が何をされたのか彼女に知られるのが恥ずかしかった。

「なんでもないんだ」

彼は叫び、その場を後にした。

 彼は彼女の骸骨を見つめながら思う。

 そしてあの日は、病院に連れていこうとあいつが言った。けれどあいつはめそめそ泣いて面倒くさかった。

「お前が襲ったからだろ」

彼は怒鳴りつけた。あいつは涙を拭うとその場を去った。

 その後、彼女が呻いたのだ。彼はその時慌てた。慌てた彼はパニックに襲われた。どうしよう、そう思う心は、彼に想像もしない行動を取らせた。そばにあった石を拾って彼女を殴った。一度、二度、殴った。

 これを返せば彼女の死因は一目瞭然だろう。

 またいろいろな感情が彼の中を駆け巡った。白衣の男の生臭い息が身体にかかった時の感触を思い出す。骸骨を持つ手が震えた。

 彼の感情が頂点に達し、爆破した。彼は骸骨を花壇の仕切りに並んでいる石に向かって投げつけた。

 骸骨は石に当たって粉々に砕け散った。




 倉本芽衣は、大理石の壁に背中を押し付けて立っていた。大きく息を吐き出し天井を見上げる。高い天井の先は半円形になっている。どこかの国の大聖堂のような荘厳な雰囲気を再現したと聞いたことがある。半円形の所にはガラス窓になっている。その日の天気で半円形のドームは表情が変わって見える。今日は曇り空をそのまま映し出している。それでも空が見えるこの空間は気持ちを和らげる効果がある。燦燦と陽が照る日だったら吸い込まれていきそうな気持になることもある。芽衣はこの光景が好きだった。この愛広まなひろ学園中等科の中では最も贅を込めた作りになっている。しかしここは職員室の側で普段はほとんど人が来ない。最も無駄な作りになっている場所でもある。芽衣は紺色の変哲のないブレザーのポケットを探った。その下のスカートがチラリと目に入る。グレーの生地に青と黄色のチェック柄のスカートだ。これが高等科へ進学するとグレーの生地に青と薄い朱色のチェック柄に変わる。青と黄色のチェックが交差する辺りにちょうどほこりがついていた。綺麗に手入された指先で丁寧に払った。この制服が気に入っていた。ここを受験しようと思った理由の一つでもある。

 その細い指先は再びブレザーのポケットへ消えるとそこから細身のリップクリームを取り出した。昨日学校帰りに親友の橘美羽たちばな みわと駅前のショッピングセンターに寄った時に見付けて購入した。芽衣はそれを上唇の上に落とすと横へそっと引いた。淡いピンクの色が広がっているはずだ。かすかにチェリーの香りが芽衣の鼻孔をくすぐった。これだけで大人になった気分になる芽衣はまだ標準的な十三歳だ。夏になる前に十四歳になる。

 アンバランスな年齢はその体型にもよく現れている。

 背丈は百五十センチを越えてきた。手足の長いことがひょろひょろとした体格に見せている。肉付の薄いがっちりとした肩に同じく肉付の薄い胸が目立った。丸みの強い顔立ちに茶色がかった少しウエーブのある髪が肩の辺りまで伸びている。校則に従うならもう少ししたら二つに結ばなければならない。伸ばすかどうかはまだ考え中だ。真一文字の眉が前髪から少し見える。アーモンド型、鼻筋が少し通った少し上向きの鼻がついてる。その下に厚めの唇があった。芽衣はこの唇が好きだった。リップクリームを塗ると映えて唇の赤身が引き立つ。よく鏡の前で大人のように上下の唇に引いたリップクリームをくちゅくちゅと合わせて、尖った唇を作ってみる。それが大人の女性らしい仕草に思えた。小さな顎が丸い顔を少しシャープに締めていた。

 長いまつげをカールするのも最近は楽しい。そうして少しずつお洒落を覚えている。この夏はもう少し大胆にしてみようかと計画中だ。

 廊下の向こうからパタパタとサンダルの音が響いてきた。芽衣が身を乗り出してみると、角を曲がって三年生を担当している中年の教師が姿を現わした。芽衣を見て、ドキリとして立ち止まる。この先に教職員用にトイレがあるのでそこへ向かう途中だったのだろう。まさかここで生徒が待ち伏せをしているは予想していなかったようだ。芽衣は軽く会釈をする。教師は悠然とした態度で目を逸らし、足早に通り過ぎた。

 遠くで女子生徒の甲高い笑い声がした。遅刻間際の生徒たちが慌ただしく校門をくぐって来る時間だ。もうすぐ朝礼が始まる。芽衣はポケットの中にあるスマホの時計をチェックした。スマホなどの携帯類は、電車通学をしている生徒が大半ということで持参はできる。休み時間も見ないことが原則となっているが、結局見ている生徒が圧倒的だ。

 タタタタタッと、スリッパの音が辺りに響いた。まもなく角を曲がって1人の青年が姿を現わした。おろしたてのスーツを着ている。いかにも着慣れていないようでよく言えば初々しさが溢れている。それよりなにより青年は美しかった。明るい茶色い髪に目を惹きつける青い目をしている。青年も芽衣を見るとハッとしたように、足を止めた。青い目が驚いたように激しく瞬く。そんな姿もまた美しい。

 芽衣は意味ありげにニコッと笑った。そして

「本当に、来たんだ」

と語尾をわざとらしく上げ、意地悪い表情を浮かべた。


 石神アランは、目の前にいる少女に驚きを隠せなかった。身体が大きくのけぞってまずいと思ってすぐに態勢を立て直す。それでも気まずさは隠せない。さりげなく咳ばらいをしてみたが、更に、気まずい。彼女がこの制服に身を包んでいるのを初めて見た。改めてこの学園に入学したんだと感じ、めまいを覚えた。

「な、なんだよ」

声が上ずりそうになった。そうでなくても緊張しているのに。倉本芽衣は意味ありげな視線を彼に送る。そして次の瞬間、大きく笑った。

 石神アランは、都内の大学に通う三年生だった。彼は教育学部に籍を置き、今日からこの愛広学園に教育実習生として三週間通うことになる。教員室で彼の世話をする田崎先生からいろいろな説明を受け、この後の朝礼で全校生徒に紹介される。その前に身だしなみを直そうとトイレに向かった途端にこの逆襲だ。本当に、もう……、面倒な奴だ。

 アランはこの学園の中等科に通っていた。高等科へ上がる時、彼の父が米国へ赴任することになって米国人の母と一緒に移った。そして高校時代を米国で過ごした。高校の間に母が病で息を引きっとった。米国は母の祖国だったので母にとってはいい最期だったと思う。大学に進学する頃、父は日本へ帰国することになった。彼は父と日本へ帰ることを選んだ。半分米国人の血が入っていたが、生まれ育った日本の方が彼にとって故郷だった。米国は彼にとって異国という感覚しかなかった。

「ほら、ネクタイ、曲がってる」

ふいに芽衣が近付いてきて、彼のネクタイをきゅきゅと直す。うるさいなと呟きながらも、されるままになっている。芽衣は手早くネクタイを直すと、これで良しと言って彼の胸をポンと叩く。普段からし慣れているようで、上手だ。

「お前、言うなよ」

アランは言った。

「な~にを~?」

芽衣が面白そうに言う。

「俺とお前が」

アランが言うと

「いとこだなんて言わないわよ。私の方がメンドクサイわ」

と実に憎々し気な口調で芽衣は言う。幼い頃は兄妹のように接していたが、ずっと会っていなかった。去年久しぶりに会って大きくなっていて驚いたものだ。そして生意気になっていることに辟易した。

 一瞬だけ、彼の心が彼が中学生だった頃に舞い戻った。あの頃の彼は、今の彼より十センチは背が低かった。身体もひょろひょろとしていた。今と同じ明るい茶色で癖の強い髪と青い目は変わっていない。でもいろいろなことに傷付き、壊れ物のような少年だった。

「いろいろ思い出すでしょう」

まるで芽衣がアランの心を読んだようにいう。

 アランは明後日の方を向いて誤魔化すが、そんなことなどお見通しのようだ。

 日本人の父と米国人の間に生まれたアランは、百七十五センチくらいのがっちりした体格をしている。この体形は現在の日本人では平均的だ。彼の体形は白人の母というより、武道をしている父方の影響の方が強い。抜けるような白い肌は母に似ていた。細面の顔に、今は整髪剤で固めたが普段はパラパラと前髪を落としている。真っ直ぐに伸びた茶色の眉毛の下は大きく窪んでいる。その下にある青い目は、まるで澄んだ湖のように美しさを称えている。真っ直ぐな意志をそのまま表したような鼻筋の下には薄い唇があった。しっかとした顎がある。この容姿だと日本にいると外国人のように見られるが、米国人の中にいれば、ただのアジア人だ。

「何やってんの?」

芽衣がアランの近くでニヤニヤとからかっていると、走り込んで来た少女の声が響いた。パッと、芽衣はアランから離れる。

「ゆきこそ、何してんのよ」

クラスメイトの堀川ゆきに見られて芽衣は照れた。堀川ゆきは、右手にじょうろを持っていた。じょうろの先から水滴がポタポタと落ちていた。芽衣はゆきの持っているじょうろを指さした。

「あ、ヤバーい」

と言って、ゆきは上履きの裏で水滴を散らす。

「もうすぐ朝礼だから、焦っちゃってさ」

アランは少女が中庭の花壇に水をやりに来たんだと察した。中庭だとここを通ると近道になる。

「芽衣も急いだ方がいいよ」

ゆきは二人の間を変な風に察したようだ。意味ありげな視線を交互に送った。アランに軽く会釈をすると足早に通り過ぎた。今度はじょうろから水滴が漏れないように注意して上にあげていた。

 変な沈黙が二人の間に訪れた。

 その隙を突くように、チャイムが鳴った。朝礼の時間だ。

「ちゃんと片付けとけよ」

アランは教師らしく芽衣に言うと。足早にトイレに向かう。

 いよいよ彼の教育実習生生活が始まる。

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