第48話 偽りの優勢
札田場敏太が「海軍省戦争経済研究班」に顔を出す日は、必ず海軍から迎えの車がくる。
運転手と、それに副官を装った護衛の二人だ。
この二人は海軍次官である井上中将が手配してくれた下士官で、信頼のおける者たちだった。
彼らは「海軍省戦争経済研究班」に入室すると同時に、重量物の入ったアルミケースを置き、さっさと出ていってしまう。
「些少ですが、どうぞお納めください」
敏太の言葉に、軍事参議官の山本大将は礼を言いつつ、班長の高木大佐にその中身である札束を金庫にしまうよう指示する。
一つのケースには一〇〇円札の札束が一〇〇。
それが二つだから、その総額は二〇〇万円にものぼる。
零戦を一〇機買ってもなおお釣りがくるほどの大金だ。
しかし、それもあっという間に溶けてしまう。
戦争は金がかかるが、終戦工作もまた同様なのだ。
それと、いつもであれば山本大将それに高木大佐はともに外出していることが多い。
もちろん、終戦工作に向けた人脈やそのパイプづくりのためだ。
しかし、敏太が金を持ってくる日は、二人のうちのどちらかが応対するようにしていた。
そして、今日はたまたまだが、二人ともに敏太の来訪に居合わせたのだった。
「インド洋はもぬけの殻だったみたいですね」
世間話でもするかのごとく、敏太が山本大将に水を向ける。
昭和一七年四月一日、第二航空艦隊と第三航空艦隊、それに第二艦隊はインド洋への進出を果たした。
しかし、そこに東洋艦隊の姿はなかった。
主敵と考えていた東洋艦隊の不在は、一方で帝国海軍の上層部の人間たちに驚きをもって迎えられた。
「苛烈なチャーチルの性格を考えれば、東洋艦隊に対してインド洋の絶対死守を命じる可能性が高い。我々はそう分析していました。しかし、その予想は外れた。そのことで二航艦と三航艦、それに第二艦隊は大きな戦果を挙げることもかなわず、今は本土への帰還の途にあります」
敏太の言を肯定する山本大将だったが、しかしその表情には苦いものが混じっている。
一方の敏太のほうはと言えば、内心でチャーチルのその手腕と覚悟を評価していた。
チャーチルは国会において野党から厳しい追及を受けることも、また国民の間から非難の声があがることも承知のうえで東洋艦隊を引き揚げさせたのだ。
一時の恥をしのんででも、それでも英国が最終的な勝者となるための合理的な判断を下した。
(肝心なときに決断ができず、ずるずると状況を悪化させてしまう日本の指導層とは大違いだ)
たいへん失礼な感想を抱きつつ、敏太は帝国海軍の今後について山本大将に尋ねる。
軍機に抵触する質問だが、しかし山本大将のほうはそれを気にする様子は無い。
はっきり言って、今更だ。
「インド洋のほうは第五戦隊それに第六戦隊に任せ、連合艦隊は豪州にその矛先を向けるとのことです。予定では六月初旬に同地にて作戦行動に入ると聞いています」
豪州にとっての東の守護神である太平洋艦隊はすでに無く、最後の頼みである西の守護神の東洋艦隊の庇護までも失った。
ここで、ブリスベンあたりをオアフ島と同じように火の海に叩き込めば、豪州はたまらず講和を申し出てくるだろう。
そして、それを帝国海軍は実行に移すつもりなのだ。
「これは、軍令部あたりから出た発想ですか」
敏太の遠慮の無い質問に、山本大将が苦笑しつつ首肯する。
「もともと、軍令部は連合国軍航空戦力による南からの突き上げを何よりも恐れていました。この際、その元凶を断っておきたいのでしょう」
豪州は日本の勢力圏の柔らかい下腹を突き刺す位置にある。
ここに有力な航空戦力を配備されたら、西太平洋はもちろん南方資源地帯にまでその脅威が及ぶことになる。
それに、豪州は米軍の反攻拠点にもってこいの地勢だ。
真珠湾が劫火に沈んだ今、その価値は爆上がりしている。
しかし、逆にその豪州が戦争から退場すれば、それは米軍の最大の反攻拠点を潰すだけにとどまらない。
連合国軍の最重要人物であるチャーチルの政治的影響力を、かなりの程度減殺させることもかなうのだ。
(それでも、チャーチルがここで身を引くことは無いはずだ)
敏太はそのことを確信している。
欧州の動きがそれを証明している。
連合艦隊との決戦を避けた東洋艦隊は地中海まで後退した。
その東洋艦隊は地中海艦隊との合流を果たしている。
そして、両艦隊は地中海を西進し、英本土へと向かう動きを見せている。
つまり、チャーチルはインド洋や豪州だけでなく、地中海すらも切り捨てるつもりなのだ。
すべては、本土決戦に備えて。
敏太は確認のために、話題を豪州から欧州へと急旋回させる。
「ドイツとイタリアの動きはどうなっていますか」
いきなり地球を半周する敏太の質問に、山本大将は少しばかり面食らう。
しかし、要望にせよ質問にせよ、敏太のそのような振る舞いは今に始まったことではないと思い直し、知りうる情報を開示する。
「ドイツとイタリアは地中海艦隊と東洋艦隊の動きを見極めたうえでマルタ島攻略に着手するはずです。その後、エジプトへと歩を進め、そしてスエズ打通をめざす」
山本大将の説明を受け、敏太は頭の中でざっとしたタイムラインを描く。
「そうなると、夏までにスエズ打通。そして、秋に連合艦隊の受け入れ準備完了といったところですかね」
敏太が示したスケジュールはあまりにも楽観的だ。
当然のこととして山本大将は異を唱える。
「マルタ島やエジプトの英軍の反撃が無く、さらにスエズ運河が破壊されていないという前提でしたら、確かに札田場さんの言う通りだ。しかし、そのようなことはあり得ないでしょう」
疑念を抱く山本大将に、しかし敏太はしれっと答える。
「万事に合理的な英国人は、マルタ島やエジプトの将兵をむざむざと玉砕させたりはしませんよ。彼らはすでに脱出準備に入っていると思われます。それと、近い将来に奪還出来ると確信しているスエズ運河を壊したりするようなこともないでしょう」
なおも納得していない様子の山本大将に、敏太は説明を続ける。
「あと二年もすれば米海軍の戦力は連合艦隊のそれを上回ります。三年後ならさらにその差は隔絶します。分かりやすい例で例えると、米海軍は二年後には一〇隻の新型正規空母と一〇〇〇機の艦上機、三年後であれば二〇隻それに二〇〇〇機を持つに至ります。四年後ならば三〇隻に三〇〇〇機ですが、しかしさすがにそこまで粘ることは日本の国力では無理でしょう。それと、正規空母とは別に改造空母もまた多数を整備するでしょうから、戦力差はさらに大きなものとなります」
現在、連合艦隊が保有する空母は一五隻で、その常用機は九〇〇機に満たない。
もちろん、その戦力の厚みを増すべく、帝国海軍は「雲龍」型空母の追加建造に励んでいる。
しかし、それでも米国の増強ペースに比べれば微々たるものだ。
敏太が英軍がスエズ運河を破壊することは無いと言った理由が、山本大将にも理解できた。
そして、追い詰められているのは英米ではなく、実は自分たちのほうであるということも。
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