第47話 英海軍
一九四二年二月
ダウニング街一〇番地
英国首相官邸
ロンドンは英国の中枢であり、人口八六〇万を擁する巨大都市でもある。
高緯度ながら、しかし暖流のおかげで冬であっても比較的過ごしやすいと言われている。
だが、それも程度の問題であって、やはりこの季節は寒い。
国の行く末を大きく左右するこの会議に参加している男たちもまた心の内に寒々とした本音を隠しつつ、だがしかしそのディスカッションは非常に熱を帯びたものとなっていた。
「まことに恐縮ではございますが、それでも現場を預かる最高責任者としてはっきりと申し上げます。首相閣下がお尋ねのインド洋の防衛ですが、海軍としてはこれを不可能と断じさせていただきます。東洋艦隊と連合艦隊との戦力差はあまりにも隔絶しています」
マーシャル沖海戦とそれにオアフ島沖海戦で米海軍の主力艦隊を壊滅に追い込んだ連合艦隊。
彼らが次にその矛先を向けてくるのは間違いなくインド洋だ。
一方、英海軍はインド洋を守護するために東洋艦隊を同海域に配備している。
三隻の空母ならびに五隻の戦艦を主力とする有力な艦隊だ。
しかし、その大艦隊をもってしても連合艦隊には太刀打ちできない。
特に致命的なのは洋上航空戦力の貧弱さだった。
艦上機の総数は一〇〇機に満たず、そのうち戦闘機はわずかに三六機でしかない。
この程度の数では、日本の母艦航空隊によってそれこそあっという間にすり潰されてしまうのがオチだ。
「連合艦隊が強大な戦力を持つことは、米国からの報告で私もこれを承知している。わずか二カ月余りで米海軍を壊滅状態にまで追い込んでしまったのだからな」
現有戦力ではインド洋の防衛は無理だと言うパウンド第一海軍卿の指摘に、チャーチル首相も苦り切った表情で小さくうなずく。
米海軍はマーシャル沖海戦とそれにオアフ島沖海戦の二度の戦いで一六隻の戦艦と七隻の空母、それに二七隻の巡洋艦と八二隻の駆逐艦を失ったという。
にわかには信じられない数字だが、しかし戦果報告と違って被害報告のほうは信憑性が高い。
そして、遺憾ながら米海軍は現在、半身不随の状態にある。
駆逐艦以下の小艦艇こそそれなりの数が残っているが、しかし艦隊決戦の主軸となる大型戦闘艦艇のほうは全滅と言っても大げさではない状況だ。
「米海軍の最大の敗因は戦力の分散です。もし仮に、当時の太平洋艦隊に大西洋艦隊が合流していれば、勝利こそ難しかったかもしれませんが、しかしあれほどの一方的な惨敗を喫することは無かった」
パウンド卿の指摘は、チャーチル首相にも納得がいくものだった。
米海軍が失われた一六隻の戦艦と七隻の空母、それに二七隻の巡洋艦と八二隻の駆逐艦を一度に投入していれば、連合艦隊もただでは済まなかったはずだ。
あるいは、勝利していたのは米側のほうだったかもしれない。
「貴官はその轍を踏まないためにインド洋での戦いを回避せよと、そう言うのだな。では、仮に東洋艦隊を下げたとして、その後はどうする」
チャーチル首相も、パウンド卿が何を言いたいのかは分かっている。
ただ、事が事だけに本人の口から確かめる必要があった。
「本国艦隊と東洋艦隊、それに地中海艦隊とH部隊を集結させたうえで連合艦隊との決戦に臨みます。それぞれの艦隊がバラバラに戦っても、各個撃破されるのがオチですから」
パウンド卿の言うことは理にかなっている。
戦力の集中は兵法の基本中の基本だ。
しかし、それが出来ないから戦争は難しい。
「貴官の言うことはもっともだが、しかしそうなるとインド洋と地中海は丸裸も同然だぞ。インドとの交易に資源を依存している我が国にとっては死活問題だ」
チャーチル首相は口にこそ出さなかったが、本当に死活問題なのは己の政治生命だと考えている。
自信を持ってアジアに送り込んだ最新鋭戦艦をあっさりと沈められた。
そして先日、東洋のジブラルタルと謳われたシンガポールもまた陥落した。
さらに、そのうえインド洋を失うという失態を重ねれば、それこそ首相の座を追われかねない。
「インド航路を失ったとしても、まだ我が国と米国を結ぶ航路が残っています。ここが機能していれば、英国は戦いを続けることが出来る。しかし、それも制海権を維持するための艦艇があってこその話です。もし、東洋艦隊を無為に失えば、連合艦隊への対抗はそれこそ不可能になります」
ドイツのヒトラー総統が、日本の海軍に対してインド洋に攻め込むように要請していることはチャーチル首相も聞き及んでいる。
ヒトラー総統は開戦直後のマレー沖海戦で英国の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」ならびに巡洋戦艦「レパルス」の二隻を日本海軍の基地航空隊が葬ったことに対してそれこそ狂喜乱舞したという。
そして、マーシャル沖海戦とオアフ島沖海戦でヒトラー総統の日本海軍に対する信頼は頂点に達した。
厄介なのは、このことでヒトラー総統が地中海にその興味を向けたことだ。
地中海の制海権を握り、さらにスエズ運河を奪取すれば日本との交通線が確立される。
あとは、考えるまでもない。
ヒトラー総統は欧州の地に連合艦隊を呼び込もうとするだろう。
そして、日本海軍が誇る機動部隊を英国周辺海域に放つ。
Uボートよりも遥かに索敵能力と攻撃力に優れた機動部隊は、商船にとっては死神にも等しい存在だ。
食糧自給率が五割に満たない英国は、それこそあっという間に干上がってしまう。
(すでに、東洋艦隊は日本海軍に狙われ、そして地中海艦隊はイタリア艦隊とドイツ空軍に目をつけられているというわけか)
チャーチル首相は、手詰まりなのを自覚する。
オプションは限られ、切れるカードは少ない。
ならば、覚悟を決めるしかない。
決断はリーダーの仕事だ。
「勝てるか」
チャーチル首相の短い問いかけに、だがしかしパウンド卿はそれには正面から答えず、追加戦力の要望を出す。
「米国からF4Fを三〇〇機、それと同じく三〇〇人のベテラン戦闘機乗りを空軍から海軍に回していただきたいのですが」
最新型のF4Fワイルドキャット戦闘機はエレベーターの幅が狭い英空母でも運用が出来るよう、翼が大きく折り畳めるようになっている。
そして、F4Fを載せるはずだった米空母は今は海の底だ。
だから、それら機材をこちらに優先して回してもらうことは可能だろう。
問題は三〇〇人の戦闘機乗りのほうだ。
空軍が大反対することは目に見えている。
しかし、断じてこれをやらなければならないことはチャーチル首相も理解できた。
オアフ島沖海戦において、米軍は基地航空隊と母艦航空隊を合わせて四〇〇機を超える戦闘機を擁していたという。
それでも、連合艦隊には勝てなかったのだ。
パウンド卿もそれを知っているからこそ、ベテラン戦闘機乗りを欲した。
数的劣勢が運命づけられているのであれば、これを補うには質を高める以外に他に方法は無い。
「F4Fそれに搭乗員については善処しよう。それに、何も今日明日にも連合艦隊が欧州にやってくるわけではない。まだ、我々には残された時間がある。それまでにベストを尽くすことにしよう」
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