第一章 『孔』の噂
一猫目 孔の楽園
古い時代。
人の意を汲んだ神々は戦の盤上を用意した。
宙を生み、理を定め、種族を分かつ。やがて幾つもの世界が発展し、神の名のもとにようやく血を血で洗う戦いの幕が開いたのだ。
侵略と簒奪、信仰された神の消失。戦のもたらしたものはどれもが酷く悲しいものであったが、だからこそ勝利を収めた世界は目まぐるしい成長を遂げ、治める神はより多くの信仰を得て力を伸ばした。
そんな戦乱のただ中、一つの噂が神々の間に浸透し始めた。
『それは孔であり、その内側には極上の楽園が広がっている。財宝も神器も溢れ、豊富なエネルギーが満ちる楽土である』
神々はさらなる力と世界の発展のため、孔を目指し支配下に置かんとする。しかしやはり、美味い話には裏があるというもの。
誰かが言った。孔の中に、こちらを覗く禍々しい瞳を見たのだと。
「全部隊に通達。本作戦を指揮する聖エデン軍所属侵攻制圧隊のオーデンだ」
6000隻余りに及ぶ次元間航行船団。その旗艦アードシュトル号より通信が送られる。
船団が前にするのは世界間に空いた黒く先の見えない大穴。神々の噂にあった『孔』がようやく観測され、その所在が明らかにされたのだ。
「此度の任務は、近年存在が確認された『孔』内部の確認及び制圧だ。秘せられた楽園、それを我らが主神シモザに捧げる時だ。噂の内容が真実であれば、他の世界もまた躍起になるだろう。叶えば我々の世界は危機に瀕する。故に、他の神々に先を越されてはならない!なんとしてでも楽園を手に入れるのだ!」
鬨の声が上がる。士気は十分、制圧隊隊長は大きく息を吸い指令を告げた。
「全艦、突入!各自任務を遂行せよ!」
「フガッ!?」
情けないいびきとも悲鳴とも聞こえる声がベッドの下から発せられた。どうやら眠っていたうちに転げ落ちたらしい。
むくりと起き上がったのは、大きな大きな猫。灰色や黒の交じった短い毛並み、クリンとしたアーモンド型のつぶらな瞳は猫好きであれば瞬きの間に虜にしてしまうだろう。
しかしすぐに通常の猫ではないことがわかる。その身の丈は約3メートル、尻尾までの全長は約5メートルもある。
猫は大きく欠伸をしながら後ろ足で今日に立ち上がると、前足で顔を丁寧に洗い、寝癖のついた毛並みをグルーミングする。
そして傍に置いてある冠と赤いマントを羽織ると、大きな窓を開く。外は月が顔を出す暗い真夜中。猫は一つ咳払いをすると、冷たい風をめいっぱい吸った。
「ンニャアアァアアアアッッ!!」
大きな咆哮とともに幾つもの光が放たれる。光は建物の合間を飛び交い、声とともに住民たちの目覚ましとなる。次々と建物に明かりが灯り、新たな一日が始まるのだ。
ここは『キャットホーム』。猫神の住まう街。
猫神とともに起き、猫神とともに眠る楽園。神々が求める孔の中、その中心部である。
コンコンと扉をノックする音が聞こえる。猫神が欠伸混じりに手を叩けば、扉が開き執事服を纏った人間の初老の男性が入室した。
「おはようございますネコサマ。本日の予定は第三宇宙代表のアルヘイム様とクレアお嬢様との歓談のみでございます」
「そっか〜。なら早めに行っちゃおう。あっそうだ。ねぇねぇセバスチャン、朝ごはんはオーロラサーモンの塩焼きにしてね」
「かしこまりました。シェフにそのようにお伝えします」
セバスチャンと呼ばれた男性が退出すると、猫神ネコサマは開け放たれた窓から空中へと身を躍らせた。
翼の無い猫の体では重力に従い、そのまま赤い点となってしまうだろう。しかしネコサマは神様だ。摩訶不思議な力でフワリと浮かび、のんびりと空のおさんぽに洒落込むのだ。
「あっ、ネコサマだ!」
「ネコサマー!」
街の住人たちは空を仰ぎ、雲のようにゆったりと浮かぶネコサマに手を振った。ネコサマはにゃあと答えると、まだ暗い空に息を吹きかけて朝の日差しを持ってくる。
歓喜に湧く眼下をベッドに気持ちのいい朝日を浴びながら、ネコサマは一つ耳をピクピク動かすと上を向き大きく口を開けた。
ちょうどネコサマの上空に歪みができ、その隙間から一匹の丸焼きになった鮭が降ってくる。シェフに頼んだ美味しいオーロラサーモンの塩焼きだ。
口で受け止めたネコサマはガツガツと食い付き、骨すら残さず食べ尽くした。けぷりと愛気を漏らすと、いよいよ雲を越え、宙を越え、信頼を置く騎士たちのもとへと飛んで行くのだった。
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