#23 答
僕は扉に体当りした。考えるより先に体が動いていた。扉を閉めさせまいと、母も負けじと押し返してくる。
「開けなさい!」
ノブがガチャガチャ回っている。隙間に割り込んでくる母の膝を、僕は手でぎゅうと押した。
「入ってこないで!」
母の顔は見ないようにした。母だと思いたくなかった。正体のよく分らない、大きな敵と戦っているんだと思い込みたかった。
「おじさん!」
扉越しに敵が言う。僕も言い返す。
「おじさんじゃない!」
「ママね、高校生の時バイトでお客さんに『おばさん』って言われたの。だからおじさんだよ」
「ママ、その時悲しかったんでしょ。自分がされて嫌なことは、
スン、と鼻で息を吸う音が聴こえた。母は答えなかった。
「そんな恥しい恰好、やめなさい! あんたは女の敵だよ」
「恥しくなんかないよ!」
おでこを押し付け、僕は喚いた。扉に擦れてひりひりする。
「ママは恥しいよ。ご近所さんに顔合せられないよ」
「
バタン、と扉が閉まった。閉まってもなお、僕は床に踏ん張り、ノブを力尽くで押し続けた。
扉の向うに、声が響いた。
「ママ、知ってるんだからね。鞄の中に隠してあったの。そんな無駄な、何の値打もないもの、今すぐ捨てなさい」
階段を降りてゆく音がする。足音が聴こえなくなってから、僕はノブを離した。
「はあ……」
溜息まで震えている。
扉の前にへたり込んで、しばらく動けなかった。泪がじわじわと滲んできて、呼吸が速く、不規則になる。もう、どうにもならないんだと思った。さっきの出来事を思い起すたびに、恥しさとやるせなさが押し寄せてきて、僕の頭を塗り潰した。
僕はふらりと立ち上がると、ごみ箱を蹴飛ばした。ベッドを引っ繰り返し、本棚を摑み倒す。物が雪崩のように押し寄せて床を覆い隠した。
傍にあった椅子に目をつける。僕はそれに飛びかかると、大きく振りかぶって扉に投げつけた。バキッと鋭い音がして、割れ目のような穴があいた。
行場のない気持を窓にぶつけた。たった一突きで、ガラスは粉々に飛び散った。冷たい風が吹き込んできて、僕のおでこをサッと撫でる。破片が雨のように足元に降り注いだ。
僕は肩で息をしながら、窓辺に立ち尽くしていた。手を目に押し当て、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。こんなことをしても得られる物はないし、失った物も取り戻せない。それくらい、僕自身も解っていたけど。
床に落ちた便箋の文字が、雨に打たれて滲んでゆく。
脱いだスカートとブラウスを、畳みもせず鞄に突っ込む。鞄とアタッシュケースを摑み取り、階段を駈け降りた。駈け降りたというより飛び降りた。膝を擦りむいた。部屋着のまま、
雨の中を突き進む。
交叉点に差し掛かった。死んでもいいと思った。信号も見ずに渡り抜けた。何もかもどうでもよかった。足の裏に大きな砂粒がついていて、ペダルを漕ぐたび肌に喰い込んだ。
暗い土手で、自転車を乗り捨てる。河川敷へ降りようとして、僕は斜面でずるりと足を滑らせた。濡れた草が頭にまとわりつく。左腕に痛みが走った。枯れ枝で肌を切っていた。
よろめきながら立ち上がる。川原の闇めがけて、鞄の中身をぶちまけた。
目を凝らす。至るところに水が張っていた。川との境目も分りづらい。僕はかすかな電燈を頼りに物を探した。
水溜りに、空色のビキニが浸っているのを見つけた。僕の大好きな色だった。想い出を否定するように、それを一思いに千切った。
石の上にスカートが落ちていた。歯を喰いしばりながら、ファスナーに沿って力を込める。ぎりぎりと音を立てて裂けてゆく。胸が痛んだ。自分の心も裂けてゆくみたいだった。ブラウスも、ワンピースも、枝に突き刺して破った。
石に爪突きながら、よたよたと川へ近づく。
メイク道具が散乱していた。僕は石を抱えると、それを一つ一つ叩き潰した。プラスチックの割れる音がして、ピンク色のチークの粉が弾けた。リキッドファンデーションが飛び出て、泥水と混じる。
桃色のシュシュが転がっている。目を背けながら、泥だらけのそれを引きちぎる。
手鏡が雨晒しになっていた。僕は片膝立になり、それを振りかぶった。一瞬、鏡面がきらりと光った。鏡の中の僕と目が合う。涙と雨でぐしゃぐしゃだった。喉仏がくっきりと見えた。頰のにきびが膿んでいる。
手鏡は大きな石に命中した。カシャーンと鳴って、砕け散る。僕は顔をしかめた。ガラスが氷のように煌めいて、僕の手の甲をピッと切り裂いた。
崩れ落ちるように、両膝と両肘をつく。泥がズボンにじんわりと染み込む。
風が吹き抜けて、静かになった。まだまだ大粒の雨が叩きつけているというのに、耳が悪くなったわけでもないのに、僕には何も聴こえなくなってしまった。
前を見据える。川縁に四角い影があった。辛うじて岩に引っかかり、水面をぷかぷか上下している。アタッシュケースだった。
腹這いになりながら、ケースに手を伸ばす。岸に上げ、肩で息をしながら、そっと開ける。女の子になれる機械がまっさらな状態で入っていた。
汚れた手で取り出す。プラスチックの白い筐体が眩しかった。雨粒がその上を流れ、滴り落ちる。暗闇に目が慣れて、機械の内側も見えるようになった。薄緑色の管が折り畳まれている。傾けると、内蔵された半透明の容器の中で、茶色い液体がたぷんと揺れた。
形が歪むほど筐体を強く握り締め、僕は思った。
女の子になって何が変るの?
女の子を強いられるだけでしょ?
恰好よさを当てがったのはなぜ?
僕を何に仕立てたかったの?
誰のために普通を装うの?
普通でいることの何が偉いの?
どこに気持をぶつければいいの?
親を説き伏せてそれで終るの?
男や女として見るのはなぜ?
僕自身を見てくれないのはなぜ?
生れ持った体の形だけで、
僕の何が解ると言いたいの?
僕の気持は間違っているの?
僕は間違えて生れてきたの?
次は僕を何者と見做すの?
僕は今度は何者になるの?
とりとめのない自分の存在に、
怯える日々はいつまで続くの?
好きな髪型にして好きな服を着れば、
本当の自分になれるとでも言うの!!?
「勇気を出さずに出かけたかった!!
ドキドキせずに着たかった!!」
大きくて目に見えない、
僕の生き方を決めさせはしない――――
「男になんてなりたくない!!!」
僕は石に機械を叩き付けた。外装が割れ、中の部品が破裂する。茶色く濁った薬品がびちゃりと飛び散った。血液のような匂いが鼻を突く。
「女になんてなりたくない!!!」
僕は機械をもう一度叩き付けた。白い釦が潰れ、管が零れ出た。目の前の水溜りに転がり込み、ぶくぶくと気泡を出して沈む。管の中を泥水が逆流してゆく。
原形を留めないほど壊れた後も、機械は青白い画面を点滅させ、ウーウー唸っていた。でも、やがて汚水の中で大人しくなった。
画面から光がぷつりと消え、手元が真っ暗になる。何もかも見失った闇の中、僕は泥にまみれて倒れていた。震える手を絞るように握りしめる。拳の隙間から、温かな血がさらりと流れ出た。
土砂降りが僕の体を打つ。泥を摑み、天を睨んだ。お腹が裂けそうなほど息を吸う。潰れた喉を開くと、がらがらになった低い声が大気を震わせた。
「――僕は僕になりたいのに!!!!」
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