#22 誰かが僕を見つめてる

 教室で席に着きながら、僕は外を見ていた。天気はどんよりとしている。あの置手紙が気になって、授業が頭に入らなかった。

 帰りのホームルームが終ると、僕は脇目も振らず家へ戻った。

「た、ただいま」

「お帰り」

 リビングの扉を開けると、洗濯物を畳みながら母が返した。僕は深く息を吸い込んで、言った。

「ねえ、見た?」

「何を」

 手を止めずに、母が訊き返す。

「僕の机の上」

 バスタオルを摘んだ母の指が、一瞬だけ、ピタリと止った。僕を見ず、素っ気なく言う。

「見てないけど」

 階段を駈け上がり、部屋に飛び込む。机の上の手紙は、昨日のままだった。

 床に目立つ埃は落ちていない。母が掃除をしに部屋に入ったのははっきりしている。胸の中で不安がぐるぐる動いた。

 その時、僕のスマホが鳴った。慌てて手に取る。ビデオ通話の着信だった。

 カメラ機能を切る。イヤホンをつけ、音声通話で電話に出る。シュシュと朝顔の姿が画面に映った。僕には二人の姿が見えるけど、二人には僕の姿が見えない。

「かすみちゃん、こんばんは」

 シュシュが手を振る。背景の隅に、いつの日か腰かけたセット椅子が見えた。

「かすみ、元気?」

 修理済のヘッドホンをつけた朝顔が言った。ポップガード付のマイクと、電子ピアノの鍵盤が映っている。

 治験中の出来事が脳裡に甦った。目の奥に熱い物が溜まる。

「シュシュちゃん、朝顔ちゃん」

 僕は呟いた。シュシュが目を丸くする。朝顔が戸惑った様子で言った。

「その声、かすみなの?」

 ハッとした。二人は、僕の男の子の声を初めて聞いたんだ。

「ごめんね。今、女の子になる!」

 スマホを持ったままアタッシュケースを取り出そうとすると、シュシュに言われた。

「そのままでいいよ。かすみちゃんであることに変りはないでしょ」

 手を止めた。床に坐り込む。

「それで、なんで急に掛けてきたの」

 何でもないように言う。だけど、勝手に涙が溢れてくる。

「かすみちゃん、何かあったの」

「なんでもないよ」

「かすみ、大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 鼻声で言った。僕が泣いていることは、二人にはバレバレだった。僕は隠すのをやめ、答えた。

「僕、二人を見られたのが嬉しくて。夢じゃなかったんだなって。もう、二度と会えないかと思った」

 シュシュが笑う。

「かすみちゃん、何言ってるの? 夢じゃないよ」

 朝顔がおっとりした声で言う。

「私たちはここにいるよ。また明日会うんでしょ」

 イヤホン越しに笑い声が聞こえる。僕は泪をごしごし拭いて、思い出したように言った。

「そうだ。僕、決めたんだ。僕、やっぱり女の子になる」

 家族に聴こえないように、小声で。でも、はっきりと言った。

「五日間いろいろあって、解ったの。男の子として生きるのは、僕には合ってないよ。女の子の方が、ずっといい。好きな髪型にして、好きな服を着て、生きてみせるよ」

 二人は僕の言葉にじっと耳を傾けてくれた。シュシュが言った。

「かすみちゃんが心からそう思うなら、間違いないよ」

 朝顔が、見えない筈の僕を見つめて言う。

「応援してるよ、かすみ」

 僕はホッとして、気づいたら笑っていた。

「明日、アイス食べようよ。この前は入れなかったお店」

 シュシュの声に、朝顔が反応する。

「何それ。私聞いてないんだけど!」

 三人で笑い合う。外は雨だけど、僕たちの心は晴れやかだった。

「また明日ね」と、通話を切る。イヤホンを外しても、まだ耳に二人の声が残っているような気がする。あぐらをかいてニマニマしている僕が、暗い窓ガラスに映っていた。

 スマホを机の上の、手紙の隣に置いて、自分の言葉を思い返す。僕の心に、いかづちのような衝撃が走った。

 そっか。僕は、自分らしくなりたかったんだ! 

 女の子になったからと言って、女の子らしく振る舞う必要なんてない。「僕」って言うのをやめたりしなくてもいいんだ。性別に囚われず、自分らしく生きられる人――それが、僕の本当になりたいものだった。

 お腹の底から、メラメラと燃え上がってくるものがあった。すっくと立ち上がり、雨雲の向うを見据える。

 母にもう一度持ち掛けてみようと思った。今度は手紙ではなく、顔を見て、自分の声で伝えてみよう。

 ベッドの下から鞄を引っ張り出し、服を取り出した。これを着て胸を張って歩けるような、そんな人になりたいんだ。

 スカートに足を、ブラウスに袖を通す。僕が初めて手に入れた女の子の服だった。男の子の体に対し、スカートの丈は少し短かった。ブラウスも肩がきつい。だけど、今にぴったりになる。

 アタッシュケースを開けようとして、時計を見上げた。夕飯まで時間がある。

 きょろきょろと見回す。カーテンが全開だった。半分ほど閉め、外から見えない位置に立った。深呼吸をして、ドキドキしながら、スカートの下に手を伸ばす。

 僕は、をした。

 だんだんと体が熱くなる。息が上がる。ぼうっとして、周りが見えなくなる。

 枕元のティッシュの箱に手を伸ばす。その一瞬、僕は何かに気づいた。

 自分が何を見たのか、すぐには分らなかった。熱が下がり、息を整えているうちに、やっと理解した。

 天井燈が部屋を青白く照らしている。真白な扉がほんの少し開いていた。扉の隙間は真っ暗に見える。だけど目を凝らすと、僕の目と同じくらいの高さに、白い光の点が一つ、ぽつんと浮んでいるのが分った。扉の向うにあるつやつやした小さな物が、部屋の灯りを反射していたんだ。

 それは母の瞳だった。僕は悟った。

 これから先、僕にどんな幸せが訪れたとしても、今日のこの瞬間を忘れることはないだろう。

 ごきぶりを見たような声で、母は言った。

「この……変態っ!!」

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