#21 男なんかになりたくない
――
井上の言葉を思い返しながら、僕は高校の男子トイレの鏡と睨めっこしていた。櫛を持ち、手首には桃色のシュシュを着けている。
僕は以前、女の子になりたかった。自分の心に問いかけることもせず、僕は女の子になるべきだと言い聞かせたこともあった。
だけど本当は、女の子みたいに可愛くなりたかったんだ。もし、女の子にならなくても可愛くなれるのだとしたら、可愛くなっても許されるのだとしたら、男の子のままでもいいと僕は思い始めていた。
サイドの髪をピンで留める。
できた。首を左右に振ると、小さなポニーテールがぴょこぴょこと揺れた。横を向くと、耳の後ろに、ピンク色のシュシュが僅かに見える。
髪を耳にかけるだけで、だいぶ印象が変ったと思った。女の子の僕には可愛さで負ける。スラックスの制服との組合せも、ちぐはぐだ。道具を持ってきていないからメイクもしていない。だけど、僕の心は涼しげだった。
今は放課後。人は少い。
僕は廊下へ踏み出した。喉がからからだ。あの日、初めて女の子の服を着た時と同じくらい緊張している。
その時、背後で笑い声が上がった。
隣のクラスの男子生徒が一人、僕を指差してお腹を抱えている。僕は振り返った姿勢で、固まってしまった。
「お前、なんだよその頭! もう文化祭は終ってるんだぞ」
お鍋で茹でられたみたいに耳が熱くなる。震えながら、ようやく理解した。今の僕は、全然可愛くなんてなかったんだ。自分の顔だから大目に見て、採点を甘くしちゃっていた。
彼の笑い声が廊下に
「ふざけた恰好しやがって、気色悪いなあ。さっさと髪切れよ。男のくせに」
お腹が煮えたぎる。胸に怒りが膨らむ。目の前で火花がぱちぱちと弾ける。僕の頭の中で、何かがブッツリと切れてしまった。
――気づいた時、彼は床で仰向けになっていた。
「俺が悪かった。
顎が痛い。僕は歯を喰いしばっていた。息も止めていた。僕の左手が彼の胸ぐらを摑んでいる。彼の口から、真っ赤な血が一筋垂れる。自分が何をしたのか解った瞬間、骨の髄まで寒くなった。
振り上げていた拳を下ろす。塞がっていた僕の喉に、ヒュー、ヒューと空気が通いはじめる。
彼は僕の手を振り解くと、足をもつれさせながら、僕から離れていった。
薄暗いお風呂場で、僕は脚の毛を剃っていた。風呂椅子の上で背中を丸めて、無言でかみそりを動かす。自分の部屋のように、母が急に入ってくることもない。ここは僕が本当に一人になれる数少い場所だった。
泡越しに刃を当てて、毛並に従ってT字のかみそりを滑らせてゆく。
ふと、前を見る。
曇った全身鏡の中に人影が見えた。短い髪をおでこに貼り付けている。筋肉質な体。骨張った手。顔にはあちこちに
目の前が暗くなってぐるぐる動いた。
「こんなの僕じゃない」
僕は呟いた。鏡の中で喉仏が上下した。低い声が反響する。泪で視界が
「……なりたくない」
かみそりを抱きしめたまま、僕は言った。
「男なんかに、なりたくない」
湯気の立ち込めるお風呂場で、僕は咽び泣いた。
僕は二階から降りてきた。手編のバッグが、階段から一階の壁にかけて幾つも飾ってある。日に焼けて、色褪せていた。
リビングの隅に、編みかけのバッグが置いてあった。鈎針の入った缶ペンケースが、その中で静かに眠っている。
台所から水の音がする。父のお茶碗を、母がやつれたスポンジで擦っていた。
「僕がやるよ」
隣に立つと、母がびっくりしたような、喜んでいるような表情で僕を見た。
「珍しい。洗い物してくれるなんて」
「いつもやってもらってるから、申訳なくて」
僕は平静を装い、スポンジを受け取った。母が苦笑する。
「明日、雨でも降るんじゃないの?」
編みかけのバッグを抱えて、いそいそとテーブルにつく母の背中が見える。懐メロを歌いながら、彼女は缶ペンケースを開いた。
静かな夜だった。今も地球のどこかで戦争をしているだなんて、とても信じられないほど平和な夜だった。僕は机に向い、空色の便箋を広げた。
『ママへ どうしても伝えたいことがあって、この手紙を書いています――』
僕は書いた。小さい頃からずっと、可愛い恰好に憧れていたこと。合宿と偽って治験を受けていたこと。自分が誰なのか解らなくて、毎晩部屋の隅で震えていたこと。
『僕は女の子になりたいです。男でいることに、僕はもう耐えられないんです。新宮先生は、戸籍の性別を変える手続にも協力してくれます。だけど、それには保護者の同意が必要です。ママはすごく戸惑うかもしれないけど、僕は真剣です。パパと三人で、ちゃんと話し合いたいです』
出来上がった手紙を、裸のまま机の上に置く。
日中、母がこの部屋を掃除する。その時、必ず目に留るはずだ。
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