#20 苦しい日々

 暑くてむんむんとした更衣室で、男子生徒たちが制服を脱ぎ出した。僕は靴下だけ脱ぎ、取り出した水着と睨み合っていた。

 僕はシュシュや朝顔と違って、着替を嫌に思ったことは今まで一度もない。だけど、今日だけは着替える気になれなかった。

 視界に同級生の肌がちらつく度に、脂汗が滲む。僕は汗を閉め出すように目を瞑り、言い聞かせた。

 思い出したらダメだ。別のことを考えなくちゃ。

 焦れば焦るほど、気氛きぶんが悪くなってゆく。頭がぐらつく。顔が火照る。動悸がする。僕は思った。

 やっぱり無理だ。体育は休んじゃおう。

 勝手が効かなくなった腕を無理矢理動かし、水着を鞄に突っ込む。靴下を履き直すのは諦めた。同級生たちに「ごめん。通らせて」と言いながら、壁伝いに歩く。やっとの思いで、出口の一歩手前に来た時だった。

 同級生の前髪に、大きな雫がぶら下がっている。彼がよろけた瞬間、その汗が垂れて、僕の足の甲にぴちゃりと落ちた。

 肌が粟立つ。あの時の光景が、目の前にくっきりと甦る。吐気と暑さに押し潰され、僕は倒れた。プラスチック製のすのこに頭を打った。

 更衣室がどよめく。

「担架! 担架持ってこい!」

 憶えているのは、そこまでだ。僕は気を失ってしまった。


 放課後の薄暗い廊下を歩く。室内楽部の演奏が階段の奥から聴こえてくる。保健室を後にした僕は、まだ頭が覚束ないままトイレに入ろうとした。それを、骨張った手がぐいと引き止めた。

「そこは女子トイレだぞ!」

 見ると、女子トイレのマークが――スカートを穿いた人の絵が描いてあった。我に返る。

「教えてくれてありがとう。……手、離してくれるかな」

 同学年の彼は、僕の胸ぐらを摑んだ。

「目的は何だ。盗みか? 覗きか?」

 僕は慌てて言った。

「違うよ。本当に間違えただけだよ」

 彼の手に力がこもる。喉が塞がる。

「はなして、くるしい」

「女子トイレに入る男なんて、掃除の爺さんか盗撮野郎に決まってる」

「僕は隠し撮りなんかしないよ! この校舎、男女のトイレが階で互い違いになってるから、間違えて入りやすいんだって」

「言い訳なんて、男らしくないな」

 僕はムッとした。

「君こそ、他人ひとを偏見で決めつけるなんて人間としてどうなの?」

「……次は警察呼ぶからな」

 静かに、さげすむような声で言うと、彼は僕を突き離した。急にひとりぼっちになる。晴るけ所がなくて、僕は頭を搔きむしった。


 癒しを求めて、制服のまま駅ビルを小迷さまよう。目の下に違和感を覚える。この感覚は中学生の頃に経験があった。下まぶたが痙攣しているんだ。

 あるお店の前で足を止める。

 秋物のワンピースが並んでいた。僕が持っているのはみんな夏服だから、新鮮に感じた。一着を手にして、自分が着ている姿を思い浮かべる。心がときめいた。

 店員がひょっこりと顔を覗かせる。

「プレゼント用ですか」

 悪意のない、たった一言だった。だけど、僕の心を嫌というほど搔き乱した。悔しさが喉に込み上げる。

「ち、違います」

 やっとそれだけ言った。ワンピースを戻し、逃げるように帰った。

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