第四話 性別なんて消えちゃえ
#18 治験最終日
僕は廊下のベンチに腰掛けて順番を待っていた。看護師が扉から顔を覗かせて、呼びかける。
「かすみさん、第一相談室へどうぞ」
「はい」
落ち着いて返事をし、立ち上がる。
ちんまりとした部屋に長机が一台だけあり、新宮医師が僕を待っていた。僕は彼女と向き合う席に着いた。
「今日が最後の面談です」
新宮医師は言った。
「最初の面談で私と約束したこと、憶えていますか」
「もちろんです」
僕は深く息を吸って、言った。
「僕の性染色体は男です。男の体で生れてきて、男の心を持っています。恋をする相手は、女の人です」
彼女はその言葉を静かに聴いている。
「女の子扱いされるのに、本当の意味で慣れません。シュシュちゃんみたいに女性の心を持ってるわけではありません。朝顔ちゃんみたいに心の性別が揺れ動くわけでもありません。両方の性別というのも、中間の性別というのも、性別がないというのもしっくりきません」
机の上に生けられた三輪の花が、冷房の風に
「だけど、男の子扱いされるのも嫌です。体が男らしくなっていくのも嫌です。可愛いものが好きで、可愛くなりたいと思っています。女の子でいたいのか、男の子でいたいのか――僕は何になりたいのか、分りません」
僕は言い切った。本当の心を素直に言葉にできた。答が見つかったわけじゃないけど、胸の
新宮医師は溜息をつき、それから頷いた。
「教えて下さりありがとうございます」
いつもの笑顔に戻って、僕を見つめる。
「あなたに五日間の猶予を与えます。次の土曜日までに、なりたい性別を決めておいてください。これが本当に、最後の機会ですよ」
「この街ともお別れだね」
三人で外を歩く。川面を眺めながら橋を渡り、看板を指して笑い合った。お世話になった銭湯の暖簾も、もうくぐることないだろう。
カラオケボックスで朝顔がマイクを手に取った。画面に「僕が僕であるために 尾崎豊」と表示される。僕は背もたれに身を任せ、ジュースを吸っていた。
歌声が部屋を少しづつ満たす。シュシュは初め、朝顔と画面上の歌詞を見比べていたけど、途中から朝顔に合せて歌い出した。
朝顔が目を大きくしてシュシュを見る。シュシュはソファーに腰掛けたまま、朝顔を見て微笑んだ。二人の声に合せて、白かった歌詞の文字が赤く染まってゆく。僕は口をあんぐりと開けて、結露で両手がびちゃびちゃになるのも構わず、サビの歌詞を目に焼き付けていた。
突き抜けるような青空が広がっていた。公園の木々が海のように波打っている。窓から吹き込んだ風がカレンダーを揺らした。今日の日付に「退院日」と書かれている。
ワンピースをきっちりと畳み、化粧ポーチと一緒に鞄に詰め込んだ。入院する時はすかすかだったのに、今は思い出の品で膨れている。
「新宮先生、何をしていらっしゃるんですか」
朝顔が訊ねる。咲き終ったあさがおの花に触れ、彼女は笑った。
「種を採っているんです」
シーツを取り払ったベッドに腰掛け、大きな溜息をつく。
「もう会えなくなるんだね」
「さみしくなるね」
朝顔と僕が話していたら、ブラウス姿のシュシュが顔を覗かせた。
「また会えばよくない?」
二人で顔を見合せ、同時に目を見開く。
「治験後も会ってもいいんですか?!」
「新宮先生、どうなんでしょう」
詰め寄られて、新宮医師は当り前のように言った。
「ご自由にどうぞ。治験はもう終ったんですからね」
「わーい!」
三人でハイタッチし合う。
「そうだ! 次の土曜日にまたお出かけしようよ。今度は恵美ちゃんも一緒に」
シュシュが言った。新宮医師が戸惑う。
「えっ、私も?」
「もちろんです。シュシュ、何時にどこ集合にする?」
朝顔とシュシュが和気藹々と相談し合う。僕は新宮医師と目が合った。澄んだ声で耳打される。
「次の土曜日、かすみさんがその時なりたい姿で私に会いに来てください」
僕はこめかみに汗を滲ませた。
「わ、分りました」
「それをあなたの答と見なします。お互い笑顔で会えることを願っていますよ」
僕だけに、彼女はウインクしてみせた。
最後に、病院の玄関に三人で並んだ。新宮医師が三脚の上にスマートフォンを取り付ける。タイマーが動き出した。
「恵美ちゃんも、早く!」
シュシュが新宮医師を引き寄せる。パシャリと、シャッターが思い出を切り取った。
駅の多目的トイレで男の子の体に戻った。家に着く頃には日もすっかり暮れていた。
「どんな勉強したの?」
母に訊かれて、僕はリビングに鞄を置きながら答えた。
「六月と七月は、学校で習う予定だった単元と、一年生の復習をしたの。夏休みの間は、苦手な数学と生物を重点的にやったよ」
予め考えた台詞を諳んずる。地声の出し方を忘れてしまって、所々、声が裏返ってしまった。
「床屋いつ行く?」
僕の髪を眺めて言う。入院前は耳にかからなかった。今は伸びて、耳が隠れている。
返事に迷っていると、背後を足音が通り過ぎた。追い抜きざまに髪を触られる。僕はぞわっとして、肩を竦めた。
「髪、切りなよ」
振り返ると、小学生の弟が笑っていた。彼は無邪気に言った。
「変だよ」
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