#17 五つ目の性別
朝の病室で、窓のカーテンがゆったりと旗めいていた。そこに人影が映っている。僕は思わず足を止めた。
ちらりと姿が見えた。後ろ姿だった。短いくせっ毛がふわりと靡く。窓から少し身を乗り出して、穏やかに歌っていた。
「もう大丈夫なの?」
背中に呼びかける。患者衣の裾を揺らして振り返ったのは、男の子の朝顔だった。目が合った瞬間、彼はすまなそうな表情になった。だけど、すぐにくしゃりと笑って見せた。
「先生といっぱいカウンセリングやったんだ。もう落ち着いてるよ」
隣に立ち、一緒に外を眺めるふりをして、僕は彼の右手を見た。女の子になれる機械を持ち、手首には繃帯を巻いていた。
家にいた五日間に何があったのか、あの言葉の意味は何か。僕は知りたかったけど、訊ねなかった。根掘り葉掘り訊かれるのは、いい気持がしないと思ったからだ。
「この前の夜はごめん。びっくりしたよね」
朝顔が言う。僕はどきりとして、顔を上げた。
「俺、忘れてたんだ。俺も昔は、辛いことがあると、ノートに自分の気持を書いてたんだよ。俺にはそういう、自分と向き合う時間が必要だったんだ」
僕に向き直る。
「みんなが解ってくれなくても、俺だけは俺の気持に寄り添ってやらなきゃいけなかったんだね。かすみのお陰で思い出せたよ。ありがとう」
まっすぐな眼差で言われて、くすぐったくなる。
「ぼ、僕は朝顔ちゃんの助言に従っただけだよ。こちらこそ、ありがとう」
機械に視線を落とし、朝顔が宣言する。
「俺はこの機械と一生付き合うよ。それで、男と女を行来しながら生きる」
白い植木鉢からあさがおが伸びていた。ほとんど咲き終ってしまったけど、たった一輪だけ、紫色の花が風に揺れている。朝顔が何かに気付く。
「かすみ。これ見てよ」
朝顔はその花を優しく手繰り寄せた。つい、鮮やかな
僕は「あっ」と声を洩らした。
花が朝日を反射させて、彼の顔を照していた。じっと見入りながら、朝顔は呟いた。
「俺は間違ってなかったんだね」
一つの花の中に、
程よく冷房のきいた面談室で、僕は気を引き締めた。待ちに待った質問を繰り出す。
「新宮先生、五つ目の性別ってなんですか」
彼女が茶化すように言う。
「論文を読んでも判りませんでした?」
「多分これかなっていうのは見つけたんですけど、確認したくて」
彼女は背筋を伸ばして、言った。
「あのね、そんなものは
僕は鸚鵡返しに言った。
「在りもしない」
新宮医師は「ええ」と頷いた。
「体の性別は生殖器、心の性別は脳というように、他の性別は物として
――もっと大きくて、目に見えないものだよ。
朝顔の言葉が脳裡に甦る。
「実は私とシュシュさんは、高校生からの親友なんです。ちょうど、今のあなたと同い歳だった頃から」
なんちゃって制服を着てはしゃいでいた、シュシュの姿を思い出す。新宮医師は懐しむように言った。
「私は、体の性別のせいで彼女が苦しんでいるのだと信じ込みました。体も女性にしてあげれば、きっと幸せに生きられると思い込んだんです。医学の道に進んだのもそのためですし、めげずに研究を続けてこられたのも、『女の子になれる機械』が完成すれば、性別違和に苦しむ世界中の人々を救えると考えたからでした。……でも、私は浅はかでした」
彼女の声が小さな部屋を震わせた。初めて聴いたその声色に、僕は恐しさすら感じてしまった。新宮医師がいつもの優しい声で言う。
「今回の治験で、改めて確信しました。女性になっても、男性になっても、根本は解決できないと」
僕は呼吸を忘れていた。新宮医師が遠くを見つめて言う。
「本当に変えるべきなのは、体の性別ではなくて――――」
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